新春特別企画

“Quantum Ready”その先へ ―2022年・量子コンピューティングの可能性

2021年7月、東京大学と日本IBMは神奈川県川崎市にある「新川崎・創造のもり 川崎新産業創造センター(KBIC⁠⁠」において、日本で初となるゲート型商用量子コンピューティングシステム「IBM Quantum System One」⁠以下、IBM Q)の稼働開始を発表しました。搭載されているプロセッサは27量子ビットの「IBM Falcon」で、量子ビット数だけを見ると決して最先端とはいえませんが、国内の企業や研究機関が専有的に利用できる量子コンピュータの実機が安定稼働に至ったことは、日本の量子コンピュータ市場の活性化を促進する大きなマイルストーンだったといえます。

新川崎で行われたIBM Quantum System Oneの設置セレモニー。量子コンピュータの周りを囲む特殊なガラスはイタリアのGoppion製で、特殊なスキルをもつパートナー企業が川崎市に存在する
新川崎で行われたIBM Quantum System Oneの設置セレモニー

このニュースに代表されるように、2021年は量子コンピュータへの注目度が国内でも一段と高まった年でもあり、産官学の連携も相次いで発表されました。またグローバルでは、IBMやGoogle、AWSといった量子コンピュータの開発/研究をリードする巨大ITベンダの積極的な動きに加え、量子コンピュータに関連したスタートアップビジネスも数多く立ち上がり、量子コンピュータ市場は急速にその規模を拡大しつつあるように見えます。

もっとも、現在の量子コンピュータには、特定の計算においてスーパーコンピュータ(古典コンピュータ)よりも高速に計算できることを示す「量子超越性」や、量子コンピュータ特有のノイズから生じるエラー(誤り)を訂正する「誤り訂正機能」など、実現されていない技術的課題が多く存在します。にもかかわらず、量子コンピュータ市場が活性化しているのは、現段階から量子コンピュータをテクノロジスタックとして組み込むことで、近い将来、ビジネスにおける優位性を獲得できると確信する企業が増えているからだと思われます。IBMで量子コンピュータ開発をリードしてきたIBM Research ディレクター ダリオ・ギル(Dario Gil)氏はこの現状を「Quantum Ready⁠⁠、より実用的なタスクに量子コンピュータが活用されるようになるまでの準備期間である、と2021年のレポート「The Quantum Decade」で述べています。

数年前までは論文の中でしか存在を感じられなかった量子コンピュータが実機として公開され、クラウド経由で世界中の研究者/開発者が利用できるようになり、多くの企業が実証実験に挑むようになったことで、⁠量子コンピュータが本格的に活用される時代は、みなさんが思うよりも、もうすぐそこまで来ています」⁠The Quantum Decade)というギル氏の言葉は、非常に現実味をもって我々に迫っています。

では2022年を迎えたいま、量子コンピュータは実際に何ができるようなっていて、どんなユースケースが期待されているのでしょうか。本稿では量子コンピューティングの国内エキスパートのひとりでもあるAWSジャパン 技術統括本部 シニア機械学習ソリューションアーキテクト 宇都宮聖子氏に伺った量子コンピューティングのトレンドを中心に、国内外の事例も織り交ぜながら、"Quantum Ready"の先に拡がる世界を覗いてみたいと思います。

お話を伺ったAWSジャパン 技術統括本部 シニア機械学習ソリューションアーキテクト 宇都宮聖子氏
AWSジャパン 宇都宮聖子氏

2021-2022の量子コンピューティング

量子コンピュータはどんな分野で使うことができるのか ―宇都宮氏は現在、量子コンピュータの活用が期待されるおもなユースケースとして以下を挙げています。

  • 量子化学計算、創薬、材料化学
  • 量子機械学習
  • 金融(ポートフォリオ最適化、リスク計算、オプション価格決定)
  • 交通系(配送計画最適化、交通経路探索)
  • 最適化(レコメンデーション、人材配置)

なかでも興味深いのが化学分野で、具体的には「格子タンパク質の折り畳み」⁠電子構造シミュレーション」⁠エネルギーの基底状態計算」⁠バーチャルスクリーニング分子類似性」といったユースケースでの適用が模索されています。この分野の計算はスーパーコンピュータでの事例も多く発表されていますが、量子コンピュータ(量子アルゴリズム)を活用することで、高い精度の分子モデリングを高速に実現できるようになるといわれています。古典コンピュータでは扱いきれなかった、複雑な分子間の相互作用の記述や計算を量子コンピュータが可能にすれば、化学物質の設計方法なども大きく変わってくるでしょう。量子コンピュータだけではなく、古典手法や機械学習と組み合わせたソリューションの探索が期待される分野でもあります。

また、一般企業での応用も期待される分野として、ポートフォリオ最適化、配車ルート、製造ロジスティクスなどに代表される組合せ最適化問題を量子コンピュータで解くというアプローチがあります。カナダのD-Waveのほか、富士通やNECなど日本のITベンダも注力する「量子アニーリング方式」のハードウェアはこの組み合わせ最適化に特化することで回路をシンプル化し、大規模化しやすい構造となっています。組合せ最適化問題を量子コンピュータで解く、いわゆる量子最適化においては、解くべき問題を「QUBO(Quadratic Unconstrained Binary Optimization⁠⁠」と呼ばれる、イジングモデルと似た目的関数に変換するアプローチが多く取られています。

組み合わせ最適化ではイジングモデルをQUBOに置き換えて実行するケースが増えている
組み合わせ最適化ではイジングモデルをQUBOに置き換えて実行するケースが増えている

一般的に"量子コンピュータ"という場合は、IBM QやGoogleが開発する量子コンピュータ「Sycamore」など量子ゲート方式を採用するハードウェアを指しています。量子ゲート方式は回路を柔軟に設定できるため、前述の化学計算や金融工学、暗号解読など多彩な用途での活用が期待されていますが、ハードウェアの製造が非常に難しく、大規模化しにくいという課題があります。これに対し、量子アニーリング方式は、組み合わせ最適化という特定の用途に限定することで、安定化と大規模化を実現しました。宇都宮氏は量子アニーリング方式による量子最適化のアプローチについて「実際のビジネスに近い問題に取り組みやすいことから多くのユーザ企業が注目しているのは事実だが、現時点では実用的な問題を扱うにはサイズが小さいことも多く、まずは量子コンピュータの世界を試してみたいという初期のニーズに応えている部分が大きい」とコメントしており、一般の企業が本格利用するようになるのはもう少し先のようです。

なお、2021年10月にNTTデータが開催した「NTTデータテクノロジカンファレンス 2021」では、NTTデータとトヨタによる量子アニーリング方式を用いた実証実験「交通最適によるCO2削減効果の検証」として、都市全体の渋滞解消をはかりながら、CO2削減を実現し、さらに個車の利便性にも配慮した実効性のある最適ルートへの提案を模索した結果が発表されていました。コネクテッドカーから収集したデータをもとに混雑度を予測し、数理モデルをQUBOで作成してクラウド経由でD-Waveで計算を実行し、どのルートに何台誘導するかを算出した結果、⁠混雑緩和とCO2排出量削減を実現できる可能性を示すことができた」としています。こうした実証実験が重ねられていくことで、量子最適化に適用できる問題の範囲が大きくなることが期待されます。

2021年11月に行われたNTTデータテクノロジカンファレンスで発表された、組み合わせ最適化の事例で紹介された数理モデル(QUBO⁠⁠。1次変数で車両群を表してビット数を減らす、CO2発生量のモデルは回帰式による関数を採用するなどの工夫がされている
2021年11月に行われたNTTデータテクノロジカンファレンスで発表された、組み合わせ最適化の事例で紹介された数理モデル(QUBO)
組み合わせ最適化の結果、CO2排出量を減らし、車両ルートの分散にも成功
組み合わせ最適化の結果、CO2排出量を減らし、車両ルートの分散にも成功

すべての開発者・研究者が量子コンピューティングを手にするために

量子コンピュータで実現可能な世界が拡がりつつある一方で、量子コンピュータは古典コンピュータと比較してやはり"敷居が高い"存在です。宇都宮氏は量子コンピュータの普及に立ちはだかるハードルとして、以下を挙げています。

  • 量子コンピュータに断片化した開発者ツール
  • 量子ハードウェアは貴重な計算資源
  • ハードごとに個別契約が必要で、アクセスが難しい
  • 量子コンピュータのシミュレーションは専門知識を要する上に計算リソースが必要

こうした量子コンピュータの障壁を取り除くために、AWSが2019年の「AWS re:Invent 2019」で発表したフルマネージドサービスが「Amazon Braket」です。⁠すべての開発者/科学者の手に量子コンピューティングを」を掲げるBraketは、量子コンピュータに実行させたいアルゴリズムの設計→テスト→実行が可能で、複数の量子デバイス(QPU)から選んで使うことができます。

量子コンピューティングの設計からテスト、実行までひとつのサービスで完結させることができる「Amazon Braket⁠⁠。すでにあいおいニッセイ同和損害保険の子会社であるAioi Nissay Dowa USAやフォルクスワーゲングループ、ウォータールー大学(カナダ)などで採用されている
量子コンピューティングの設計からテスト、実行までひとつのサービスで完結させることができる「Amazon Braket」

現在利用可能なQPUは

  • Rigetti …超伝導量子ビット(38量子ビット、ゲート型)
  • IonQ …イオントラップ量子ビット(11量子ビット、ゲート型)
  • D-Wave …超伝導量子ビット(2048量子ビット/5760量子ビット)

ですが、AWSは2021年の「re:Invent」で新たに以下の2つのスタートアップが提供する量子デバイスを追加しました。

  • Oxford Quantum Circuits(OQC⁠⁠ …超伝導量子ビット(8量子ビット、ゲート型)の量子コンピュータ「Lucy」⁠2022年第1四半期からロンドンリージョンで提供予定)
  • QuEra Computing …リュードべり原子によるアナログハミルトニアンシミュレーション(AHS)

Rigetti、IonQ、D-Waveなどすでに市場で高い評価を受けているベンダに加え、OQC、QuEraというグローバルでも非常に注目されている量子スタートアップの革新的な技術を低価格でクラウドから利用できることは、顧客の選択肢を拡げることにもつながります。なお、欧米で評価の高い量子スタートアップの登場が相次いでいることについて宇都宮氏は「量子コンピュータの研究が有名な大学の出身者が、そのままスピンアウトするケースが多い」と指摘しています。

Amazon Braketで提供されるメインの量子デバイス。D-Wave、IonQ、Rigettiと実績のあるベンダのQPUをクラウド経由で利用できる
Amazon Braketで提供されるメインの量子デバイス。D-Wave、IonQ、Rigettiと実績のあるベンダのQPUをクラウド経由で利用できる

また、Braketは設計からテスト、本番環境での実行までをひとつのサービス内で完結でき、開発環境としてマネージドな「Jupyter Lab」や、デバイスに依存しない回路設計を可能にする「Amazon Braket Python SDK⁠⁠、量子ビット数の異なる複数のシミュレータが提供されている点なども大きな特徴です。ひとつのサービスだけで量子コンピューティングに必要な環境がすべて揃うことは、開発者や研究者の作業効率を劇的に改善し、量子コンピューティングへの入り口をより広くすることが期待されます。

Amazon Braketのアーキテクチャ。ユーザはひとつのサービス内でQPUやシミュレータにアクセスでき、実行した計算結果はS3に保存可能
Amazon Braketのアーキテクチャ。ユーザはひとつのサービス内でQPUやシミュレータにアクセスでき、実行した計算結果はS3に保存可能

「re:Invent 2021」では、QPUの追加以外にもBraketのアップデートが数多く発表され、顧客のフィードバックを細かいスパンで実装していくというAWSのポリシーが量子コンピューティングにも確実に反映されているようです。

「現在できること」を押さえながら可能性を広げる試み

現在、量子コンピュータが抱えている大きな課題のひとつに、⁠誤り訂正機能」の実装があります。量子コンピュータの最古参プレーヤーであるIBMは2021年11月に、同社としては初めて100量子ビットを超えた127量子ビットのプロセッサ「IBM Eagle」を発表しましたが、2022年中にはその約3倍となる433量子ビットの「IBM Osprey」を、さらに2023年にはその2倍以上となる1121量子ビットの「IBM Condor」のリリースを予定しています。しかし誤り訂正を実行可能な実用的な量子コンピュータには、少なくとも1万量子ビットが必要と言われており、IBMはロードマップで「2030年までに実用化可能」としていますが、まだかなりの時間とコストがかかることは間違いないでしょう。

これに対し宇都宮氏は「誤り訂正機能の実装とは別に、NISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum Technology)マシンの可能性を深堀りしていくことがより重要なのでは」と語っています。NISQとは、ノイズがあることを前提にした100量子ビットを超える中規模な量子デバイスで実現できる技術を指しており、限られた量子ビット数であっても、すぐれたアプリケーションがあれば現実的な問題が解けるようになる可能性は高いとされています。たとえば量子コンピュータをコプロセッサとして利用する量子/古典ハイブリッド計算をNISQで行うといった、NISQでできることを増やすことで、⁠誤り訂正機能の実装とは別に)量子コンピュータの可能性を拡げていくというのがAWSのスタンスのようです。

今後の量子コンピューティングの世界で重要な役割を果たすとされている「NISQ」は、ノイズを前提にした100量子ビット程度の中規模デバイス。誤り訂正機能の実現とは別に、NISQでできることを拡げていくことが量子コンピュータ普及の鍵になる
今後の量子コンピューティングの世界で重要な役割を果たすとされている「NISQ」は、ノイズを前提にした100量子ビット程度の中規模デバイス

なお、AWSはカリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に隣接する場所に量子研究センターをもっており、そこではジョン・プレスキル(John Preskill)教授など世界的な研究者とともに、量子プロセッサを含めたハードウェア/ソフトウェアの開発/研究を進めています。

カリフォルニア工科大学に隣接するAWSの量子研究センターでは世界的な量子研究者とともにハードとソフトの開発が行われており、論文も多数発表されている
カリフォルニア工科大学に隣接するAWSの量子研究センターでは世界的な量子研究者とともにハードとソフトの開発が行われており、論文も多数発表されている

2021年4月、IBMは米国屈指の医療機関であるオハイオ州クリーブランドのクリーブランドクリニックと10年間に渡る技術提携「Discovery Accelerator」を発表しました。クリーブランドクリニックを中核とする最先端の病原体研究施設「Global Center for Pathogen Research & Human Health」のテクノロジ基盤として機能するDiscovery Acceleratorには、最先端のテクノロジが数多く提供される予定ですが、その中でももっとも注目されているのが、IBM Qをクリーブランドクリニックのキャンパスに設置するというプロジェクトです。量子ビット数は明らかになっていせんが、民間組織に量子コンピュータをオンプレミスで設置するというのはIBMにとってはもちろん、米国にとっても初となる試みであり、医療/ライフサイエンスの分野で量子コンピュータが本格的に活用される準備が整いつつあることを示しています。なお、このプロジェクトでは2023年以降にリリースされる1000量子ビットを超えるマシンの設置も予定されています。

このように、かつての論文の中の存在から、人々の目に見えるところまで降りてきた量子コンピュータですが、前述したように多くの技術的課題を抱えていることも事実です。その課題を認識しながらも、Quantum-Readyに備えながら現実的な量子コンピュータのユースケースを探っていく―企業にはそうしたアプローチがより求められてくることになりそうです。

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