プロローグ
それにしても久しぶりの探偵事務所だ。繁盛しているのかどうか、今日香は少し不安だった。
「伊波羅さん、商売上手くないからなぁ」
最近健二はあまり事務所に行ってないようだが、知らぬ間にまたお菓子を食べ尽くしていたりしないだろうか。今日香はまるで母親のようにいろいろと心配する。
「でもいいのかな?仕事断っても。断る手助けなんて、わたしにとっては楽な仕事だけど……」
強気の交渉事なら今日香が、そしてソフトに行くなら健二が得意分野だった。このペアは意外にも交渉ごとでは無敵を誇る。もし相手が暴力系なら妹を呼べば良いし……
「こんにち、は……?」
扉を開けて入ったところで目に入ってきたのは、応接のソファーでお客さんを前にして固まっている伊波羅だった。
「ああ、吉沢さん。ちょうど良かった(助かったー)」
「遅くなってすいません」
「あ、皆井さん、こちら助手の吉沢です」
振り向いた女性は、怒っていても綺麗な美女だった。しかしどうみてもこれは怒っている。オーラがそう語っていた。
「ダンナさんのパソコンのハードディスクを調査して欲しい、というご依頼なんだけど、夫婦でも相手のパソコンの中身を調査するというのは、やはり倫理的にも……」
「だって悔しいんです!」
言い終わらないうちに美女が吼える。「あの怪しい態度、あれは絶対浮気です。それをはっきりさせて、あの人に突きつけてやりたいんです!」
ふいにオーラが減圧する。
「……わたしたち、結婚式もしていないんです。夫は両親を早くに亡くしてそれは苦労してきました。義妹の学費もあの人が出してやっていたし、知り合ってすぐのころは、公園以外でデートできませんでしたから」
こういうモードになると聞き役は今日香の役目だ。
「たいへんだったんですね。いろいろとご苦労されて」
「でもあの人はほんとうに優しくて、勤めていたときもわたしが仕事で失敗したのをフォローしてくれたり、もちろんわたしだけじゃなくていろんな人にもすごく親切で、仕事もできるし、職場でもとても信頼されてて……」
「……愛しておられるのですね」
今日香の情がこもった合いの手に、女性の目からたまらず大粒の涙が噴き出てきた。そのまま言葉にならない。今日香は胸が詰まる思いだった。
「伊波羅さん!この方の言うとおり調査してあげましょうよ!」
「(あ、あれー?断って欲しいんだけど…(^_^;))
い、いやその、ダンナさんのパソコンを勝手にいじるのはやっぱりマズいと……」
「こんなに愛してる奥さんを悲しませるなんて……」もちろん伊波羅の異論は聞いてない(笑)。
「あ、ありがとう、吉沢さん……」
あっという間に、ここは女同士、男の理不尽な振る舞いに一致団結!という雰囲気が確立され、伊波羅の退路は断たれてしまった。
--こうして、探偵伊波羅にとっては人生初の「浮気調査」を引き受けることになったのであった。
調査開始
「あぁ、共用PCだったんですか」
と、ノートパソコンを前に伊波羅が言った。
「そうなんです。もとは夫のものだったんですけど、どうも怪しいので共用にさせました」
「パスワードは?」
「家の中でしか使いませんので、かかってません」
少しズッコケる。しかしまあ、家から持ち出さないのであればそれでもとくに問題は無いだろう。
「……ちなみにこれ、外に持ち出さないのですか?」
「夫がたまに持ち出してますよ」
また少しズッコケる。
「そ、それは少し危険な……」
「でも、パスワード付けさせると、わたしが夫のメールをチェックできなくなりますからね」
「……ということは、すでにチェックしてるという……」
そんなことあたりまえだと言うように「してますよ」という奥さん。
伊波羅の頭をあるアンケートの数字(恋人や夫のメールを勝手に読んでも良いとする女性は6割以上、男性は2,3割)がよぎる。
懊悩する探偵を不思議そうに見る今日香。伊波羅さん何悩んでいるのかなあ、ダンナのメールチェックなんて、そんなの当然よね……
「でも見てください。メールとかほとんど何も無いんですよ」
奥さんは何のためらいもなくダンナが使っているメールソフトウェアを起動する。示されたのを見るとなるほど空っぽに近い。受信箱にもフォルダにもほとんどメールが入っていない。
「怪しいでしょう?」怪しい以外何物でもない、というように奥さんが聞く。
「怪しいですねぇ」同調する今日香。
しかし探偵は『いや、これだけじゃ怪しいとは…』と、心の中だけで異議を唱える。
証拠保全云々を説明する間もなく起動→ログオンされてしまったわけだが、探偵は黙々とディスクをコピーし始めた。その間も今日香と奥さんは共感しあっている。
「ほんと男ってどうしてああなのかしら」
「……ですよねぇ。でもうちの彼氏に比べたら、いや、比べたりするのは失礼なくらい良いダンナ様ですよぉ」
「そんなことないですよ。浮気してるかも知れないんだし。吉沢さんの彼氏ってどんな人なの?」
「それがこれもちょっと浮気者で…」
……名人芸の漫才のように、息がぴったりのやり取りが、それこそ永遠に続きそうなイキオイで繰り広げられ始めた。
やれやれ。
追跡
「で、僕の出番というわけか(笑)」
お菓子を頬張りながら健二が言う。ちょっと得意げである。健二の足下で犬のみっきーがじゃれついている。
「みっきー、今回は僕がメインらしいよ」
健二が諭すと、みっきーは了解したのか、つまらなそうにぷいっと居なくなる。ただ単に、健二のお菓子が目当てだったのかも知れない。
「それがねえ、伊波羅さん急ぎの仕事入っちゃって、もともとこの仕事断るつもりだったみたいで、スケジュールバッティングしちゃったのよね」
「了解。今日香はどうするの?」
「わたしはもう一件の仕事のバックアップを頼まれちゃって。コンピュータ見てなきゃならないのよ」
……というわけで、健二はトレンチコートに身を包み、サングラスで顔を隠しながら、(健二にとっては「容疑者」の)皆井氏を尾行しているのであった。通行人にはやたら目立ってけげんそうな顔をされっぱなし。健二は「どうも、ドラマの撮影で。すいませんねえ」などと如才なくかわしながら(こういうところは健二はほんとうに上手かった)、それでも「目立つ尾行」を続けている。
皆井氏はといえば、背後の小騒ぎに一切気づかずに、どこか思い詰めた様子で歩いている。先を急いでいるような雰囲気だ。皆井氏はさっくり高級ホテルに入っていく。
「あっ」
思わず声を上げそうになる健二。
皆井氏はロビーで人待ち顔だったショートの美女と落ち合い、中に消えていったのだ。健二は慌ててこっそりと(上出来だ)デジカメで撮影した。隠し撮りの上にロビーはあまり明るくないので、ちゃんと写っているかどうか不安だったので、数枚確保した。
健二はいささかショックだった。今日香からだいたいの経緯は聞かされていたが(もちろん今日香との間で恐怖のNDAを結んでいる)、評判の愛妻家で誰に聞いても非の打ち所がないほど誠実な人柄だという皆井氏が……。
「よりによってあんな可愛い娘と!!」
そっちかよ。
いくら高性能なデジカメでも、隠し撮りは難しかったようだ。気づかれずに撮影するという制約もあったわけで、健二が撮影してきたデータに女性の顔が写っていなかったのは仕方がない、というべきだろう。
「すいません。ちゃんと顔写せなくて…」写真データを持ち帰ったトレンチコート姿の汗だく健二は、ディスプレイに映った写真を見て伊波羅に詫びた。
「いや、隠れて撮影しなければならないし、仕方ありませんよ」
伊波羅はなぜか、それほど落胆していない様子だった。尾行撮影が難しいことは承知だったからかも知れない。
いずれにしても報告では、「残念な結果」になったことを言わなければならないだろう。夫人の落胆を思うと今日香は胸が痛んだ。
証拠は揃った!?
--報告会の場所は皆井邸だった。自宅は危険である、という伊波羅の提言にもかかわらず、皆井夫人が強く希望したのである。もし残念な報告だったら、聞いた後まともに帰宅する自信が無い、というのがその理由だった。
まず伊波羅が、共用パソコンに残されていた痕跡から掘り出したメールについて報告する。
『昨夜はごちそうさまでした。あんな高級レストランで大丈夫でしたか?フトコロにご負担ではないかと気になっちゃいます。でも嬉しかった(ハートマーク)。その後もとっても楽しかったデス(えへへ)』
『最近ちょっと女房に監視されてて(苦笑)、このメール出すのも冷や冷やです。何であんなに警戒しているんだろう?おかしな挙動は見せてなかったと思うんだけどな。いろいろ整うまで絶対バレないようにしないと……』
用心のためなのか、それぞれのメールには署名が記されていなかった。メールソフトウェアの「名前」にも本名ではなく、ハンドル名のようなものが登録されているらしい。皆井氏のアドレスはいつもの自分のアドレスだったが、相手はフリーメールで、アドレスからは名前すら推測できなかった。cocoon231@freemail.example.jpとかいうアドレスじゃあ、男か女かすらわからない。
文面だけを読むと微妙だが、しかし浮気といえるかどうかはともかく、とても親しいようには読める。断定するだけの材料にはならないが、きわめて臭いとは言えた。
伊波羅としては何も断定できないということを前提に、合理的にわかることだけを報告した。しかし、超能力的な女の勘というヤツで「わかって」しまったのか、皆井夫人は、
「……ああ。やっぱり」
と切なそうな声でつぶやいた。裏切られたことは信じたくないが、信じざるを得ない……今日香にはそういう声に聞こえた。
「どんな女(ひと)だったの?」
「それが綺麗な人で、キャリアウーマンというか、バリバリ仕事してそうな人だったかなあ」
「皆井さん、この女性見覚えありませんか?」と写真の後ろ姿の女性を示しながら探偵が聞くと、
「……いえ、ありません」
消え入るような声をようやく絞り出す。皆井夫人はかなりショックを受けているようだった。無理もない。これで一縷の望みも絶たれてしまったわけだ。
「落ち合ったあと、ふたりはホテルのレストランで食事して、それからホテルの中に……」食事をしている場面を撮った写真を取り出しながら、健二が報告する。
皆井夫人はもうその写真を見る気力も無い様子だった。それが何を意味しているのか、十分にわかっていたからだろう。
「皆井さん。実はこの写真なんですけど」
伊波羅が切り出した。追跡調査について話を始めるらしい。
「レストランで皆井氏が女性に何か渡してます。どうやらCDとか、そういうもののようなのです。しかもこれはたぶん、ソフトケース入りなので、コンピュータのデータなのではないかと思います」
「…コンピュータのデータ?」
「音楽とか映画である可能性もありますけどね。ご依頼があったメールのデータだけを取り急ぎ調べましたけど、もう少しお時間いただいてそれ以外にも調査すれば、もっといろいろわかると思うのですが……」
「…これ以上何かわかったとしても、役に立つんですか?」
「ええ。おそらく役に立つと思います」
「…そうですか。ではお願いします」
皆井夫人はあくまで気丈だった。
急展開
そのとき、クルマが車庫に滑り込む音がした。
「!」弾かれたように立ち上がった皆井夫人の姿を見て、一同は危機を悟る。健二が玄関に走り靴を確保。伊波羅と今日香は夫人の指示通り機材ごと別室に退避した。
伊波羅は大急ぎでパソコンを操作する。何か急いで調査しなければならない理由があるようだった。手さばきは通常の三倍速になっていた。なぜかラップトップの背板が赤く見える。
別室から外の様子をうかがっていた健二が声にならない声を上げる。『あの娘は!』『まさか?!』その「まさか」らしかった。
帰宅した皆井氏が、ショートの女性を連れて帰ってきたのだ。皆井氏は悪びれることなく女性を招き入れている。自宅にいきなり連れてくるなんて、もしかしたらこれから修羅場なのか…
『これ!』
伊波羅が小声で叫んだ。画面を示している。のぞきこむと、女性のウェディングドレス姿の画像だった。しかも今まさに乗り込んできたショートの女性だった。
後編に続く