シリーズ刊行によせて

最先端の理論物理学の分野である超弦理論では、世界を9次元だと想定しているようです。時間の1次元を含めると10次元ということになりますが、普通の感覚では時間を含めても4次元、生活している空間は3次元空間だと感じます。ところで、風景を切り取った写真や絵画を見ると、人は頭の中で3次元空間の広がりを知覚できます。写真や絵画は2次元の平面に記録された情報なので、人の脳は2次元の情報を変換して、3次元の情報にしています。脳がどのような方法でこの変換を行っているのか、まだその詳細はすべてわかっているとはいえませんが、これは線形な変換ではなく非線形な変換だと考えられています。また脳の働きだけでなく、実社会の現象の多くは線形ではなく非線形な性質を持っています。線形代数は、その名のとおり線形性とは何かについてを学ぶ数学の分野です。実際の複雑な現象の多くは非線形であるのに、それと比較するとシンプルな線形性を学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。

線形代数を学ぶ前であっても、馴染みの深い2次元平面を考えてみます。ノートの1ページやコンピュータの画面などを想像してください。私たちが生活しているのは3次元空間です。2次元平面はこの3次元空間内にいろいろな角度で配置することができます。机の上のノートの1ページであれば、地表に対して水平になっているでしょうし、ディスプレイは垂直もしくはすこし角度を付けて設置されているはずです。このように考えると、3次元空間内の2次元平面だけでもいろいろなパターンを考えることができ、まさに無数にあるといえます。想像するのは困難だとしても、4次元空間内の2次元平面というものも考えられますし、一般にn次元空間内での2次元平面もあります。驚くべきことに、これらすべての2次元平面は、2つの線形独立なベクトルを決めれば表現できます。3次元ベクトルが2つあれば3次元空間内の平面、n次元ベクトル2つであればn次元空間内の平面です。次元数に関係なく、線形代数を学べば一見違って見えるものを統一的に理解できるようになります。これはすこし大げさにいうと、線形代数は私たちに本質とは何かを見抜く力を与えてくれるといえるかもしれません。

線形代数には具体的な応用例が多くあり、デジタル化された現代社会では、ほとんどの人がどこかでその恩恵を受けています。第8章ではそれらの例が丁寧に解説されているので、この章を理解することを1つの目標にして本書を読み進めると良いかもしれません。画像の変換はコンピュータゲームなどで基礎的な技術の1つになっているので馴染み深いでしょう。一方、データサイエンスの分野で必須の技術になっている最小二乗法や主成分分析といった手法に、線形代数が応用されていることはあまり知られていないかもしれません。これらの応用はすこし難しく感じるかもしれませんが、線形代数の基本を理解できていれば、これらの手法の本質的な意味を捉えることができるはずです。本書は、この基本を理解するという部分に、プログラミング言語Pythonを利用します。コンピュータを使えば、複雑な計算は一瞬で終わります。ベクトルや行列の計算は時として何ステップにも渡ることがあるので、計算の全体像を把握したい場合には積極的にPythonのコードの助けを借りてください。何ステップもかかる計算が、コードを書けば数行で終わります。ただし、現代のコンピュータとソフトウェアは強力過ぎるので、あまりにも頼り過ぎると自分が何を理解できていないのか分からなくなる可能性があります。本書の練習問題は、⁠手で解く問題」「Pythonで解く問題」に分かれています。ぜひ、手で解く問題は紙とペンで挑戦してみてください。つらいと思うときもあるかもしれませんが、手で丁寧に計算のステップを追えば、必ず線形代数の美しさを実感できる場面に出会えます。そうすれば、線形代数が好きになるはずです。好きになると学習が捗ります。手計算、ほんとうにオススメです。

この本の著者である加藤公一さんは、機械学習アルゴリズムの数学的な背景を解説した書籍で高い評価を受けています。あらたに出版された本書にも、彼の数学に対する真摯な姿勢が反映されています。⁠数学を学びたいけど、自分にできるか不安」と思う方もいらっしゃるかもしれません。もちろん数学は抽象的でわかりにくい部分があるのも確かです。ただ、線形代数は2次元平面や3次元空間といった具体例から理解をはじめることができるので、学びやすい分野といえるでしょう。途中いくつか難所があるかもしれません。そのような場合は時間をかけてもかまいません。力持ちの著者の心強い導きで、あなたもきっと線形代数の基礎を理解できるようになると信じています。

2025年12月 辻 真吾

辻真吾(つじしんご)

現在は大学で情報科学を駆使して生物医学の研究をしていることになっている37歳。小学生の頃にMSX2でLOGOを動かして以来コンピュータが好き。C++やJavaに傾倒した時期もあったが,最近はPythonが最高だと思っている。著書に『Pythonスタートブック』(技術評論社)。