本書『人を動かすハッカーの技術』は、全体としては外部から組織に対して評価やテストを行う立場(いわゆるペネトレーションテスターやセキュリティコンサルタント)を強く意識した語り口で書かれています。読者に対して「あなたはテストを行う側である」という前提で話が進む場面も少なくありません。そのため、初めて本書を手に取った方の中には、「自分はその想定読者ではないのではないか」と感じ、少し身構えてしまう方もいるかもしれません。
しかし、著者自身が「はじめに」で述べているとおり、本書の対象読者層は決してそれだけに限定されるものではありません。ソーシャルエンジニアリングというテーマが本質的に扱っているのは、「人はどのように信じ、判断し、行動するのか」という普遍的な問題であり、それは外部テスターに限らず、組織の内側でセキュリティを担う人、開発者、管理職、教育担当者、さらには日常的に情報を扱うすべての人にとって無関係ではないはずです。
翻訳にあたって私自身が強く感じたのは、本書が単なる「攻撃手法の解説書」ではなく、ソーシャルエンジニアリングを通じて人間の行動や組織の構造を冷静に観察し、それを理解しようとする一種の思考訓練の書でもある、という点でした。たとえ自らがテストを実施する立場にないとしても、「攻撃者は何を前提に考えているのか」「どのような思い込みや慣習が利用されやすいのか」を知ることは、防御や教育、セキュリティ設計の質を高めるうえで大きな助けになります。
本書を読む際には、語りかけの対象が「テスター」であっても、それをそのままの立場で受け取る必要はありません。たとえば、外部テストの事例は内部監査や訓練の設計に読み替えられますし、攻撃シナリオの考え方は、リスク評価や社員教育の材料として活用できるでしょう。そうした読み替えや応用の余地があることこそが、本書の価値だと考えています。
本書を日本語で紹介する意義は、ソーシャルエンジニアリングが「特別な技術者だけの話」ではなく、現実の業務や日常に直結する実践的な「知」であることを、より広い読者層に伝える点にあります。もし途中で「自分は想定読者ではない」と感じる場面があっても、どうかそこで読むのをやめず、「では自分の立場ではどう役立つか」という視点で読み進めてみてください。本書は、その問いに応えるだけの内容を十分に備えていると、訳者として考えています。