「ひとはどこまで記憶できるのか」

人の記憶ほどあてにならないものはない。だからこそ人は、古代から記憶にこだわってきた。古代ギリシャのムネモシュネは学問の女神だった。この時代は記憶力が知者の条件とされていた。

事情は現代も変わらない。記憶力のよさと頭のよさは、ほぼ同じ意味で使われる。記憶偏重の社会である。コンピュータが登場したとき、人の脳はやがて追い抜かれるだろうといわれた。確かに記憶力や情報処理の速さに関しては、脳はコンピュータに及ばない。脳は、昨日食べた昼すら思い出せないし、漢字を書こうとしても書けない。しかも勘違いも多い。

しかし、これこそが脳が長年の進化過程で獲得した能力だったのである。脳は、覚えられないのではなく、忘れることができるのである。つまり、記憶は、忘れたり間違えることで作られていくのである。

もし忘れることができなかったら、どうなるだろうか。朝起きてから夜寝るまで、見て聞いたことが、すべて記憶に焼き付いているのである。つらいことやくるしいことも正確に思い出せる。これは本人のアイデンティティを危うくしかねない。

ネットワーク時代になり、個人が接する情報の量は以前よりも飛躍的に増えている。その一方で、脳の構造やしくみは、数十万年前からほとんど変化していない。ということは、現代人の脳の中は、不要なものでいっぱいになっている可能性がある。いらない知識は捨てる方が、人生ではうまくいくのではないか。

本書では、記憶形成メカニズムや、記憶力増強法、記憶喪失やサバン症候群、匂い、θ波、睡眠、薬物、記憶喪失、超絶記憶力、振り込め詐欺、偽の記憶症候群などなど、記憶をめぐる幅広いテーマに関して説明している。

記憶は、脳の生理的なメカニズムと同時に、個人のアイデンティティを支える心理学や社会科学にもかかわっている。実は記憶について知ることは、人間を深く理解することにつながっているのである。

覚えることだけでなく、忘れることや間違えることも、記憶の女神の計らいかもしれない。記憶をめぐる旅は興味が尽きることはない。本書でいい記憶の旅に出かけてほしい。