生成AIの進化により、コーディングに代表される「実装」の仕事が急速にAIへ置き換わりつつあります。「AI時代に生き残る職種は何か」という議論も盛んですが、消えていくのは職種そのものではありません。あらゆる仕事の中に埋め込まれた、「与えられた具体を処理しているだけの部分」です。この変化の本質を捉え、さらに職場で日々起きている「すれ違い」の正体までも解き明かす鍵が、「具体と抽象」というシンプルながら強力な視点です。
「なんでもいいよ」を真に受けていませんか?
「お昼、何がいい?」「なんでもいいよ」。その言葉を真に受けて「じゃあ駅前の牛丼にしよう」と提案した途端、「今日はちょっと重いかな……」と渋い顔をされる。誰もが覚えのあるこのやり取りと同じ構造のすれ違いが、システム開発の現場では毎日のように起きています。曖昧な指示にしたがって心血を注いだ成果物が、上司や顧客の「イメージと違うんだよね」の一言で差し戻される、あの現象です。
なぜ相手は最初から判断基準を示してくれないのでしょうか。それは、人間が「抽象的な問いには思考を停止し、具体的な刺激には過剰に反応する」という性質を抱えているからです。人は「何が欲しいか」を自ら具体化するのは苦手でも、「何が欲しくないか」なら、見せられた具体から即座に判断できます。だとすれば処方箋も見えてきます。「なんでもいい」を「具体物を見るまで判断できない」という宣言だと解釈し、完成度を高めることに時間をかける前に、未完成の具体(プロトタイプ)を早期にぶつけて相手の反応をあぶり出す。アジャイル開発の考え方は、まさにこの人間の性質を逆手に取ったものといえます。
職場の対立は「具体と抽象」のズレで説明できる
このズレが立場の違いとして現れると、より根深い対立になります。経営者の「うちの会社でAIを使って何かできないのか?」という抽象度の高い問いかけに、「具体的に言ってもらわないと動けない」とストレスをためる担当者。「風呂敷を広げる」営業と「風呂敷をたたむ」技術。「口ばかりで実際には何もしない」と目の敵にされがちなコンサルタントとエンジニア。
具体派と抽象派は、互いにこう見えている
具体の世界に立つ人からは、抽象を語る人が「考えが浅い」ように見えます。逆に全体を俯瞰する人からは、現場の人が「視野が狭い」ように見えます。厄介なのは、双方がこの構図そのものに気づいていないことです。逆にいえば、このメカニズムを両者が共有できれば、コミュニケーションギャップから生まれる無駄な作業やストレスは劇的に減らせるのです。
AIが「具体化」を肩代わりする時代に
こうしたすれ違いは以前から職場の悩みの種でしたが、AIの登場で事情が大きく変わりました。生成AIが最も得意とするのは、定義された課題を具体化することです。実装という具体的な作業からAIによる代替が始まったのは、偶然ではありません。そして、どんな仕事にも「問題を発見する川上」と「問題を解決する川下」が入れ子で存在しています。本書はこれを「マトリョーシカ構造」と呼びます。AIの脅威とチャンスは職種ごとにきれいに分かれているのではなく、同じ担当者の仕事の中にも、AIに置き換わりやすいタスクとAIによって価値が高まるタスクが同居しているのです。
逆にいえば、顧客がニーズを最初から明確に言語化できるなら、その先はAIがかなりの部分を解決してしまう時代がすぐそこまで来ています。エンジニアの定番のぼやきである「顧客ニーズがあいまいで困る」は、裏を返せば、あいまいな状況をさばいて問題の輪郭を言葉にする「問題発見」、すなわち具体と抽象を往復する力こそが、人間に残される領域だということです。ただし、これは心がけだけでは実現しません。SI業界で四半世紀にわたり「川下から川上へ」が掲げられながら実現してこなかった背景には、「言われたことを実行するのが得意だから、能動的な提案が不得意」という構造的な理由があります。高い品質、高い効率、明確なスコープ。川下で優秀であるための思考回路そのものが、正解のない川上では阻害要因に反転してしまうのです。
思考のOSを「メタ化」する1冊『システム開発と「具体と抽象」』
この構造に正面から向き合うのが、ロングセラー『具体と抽象』の著者・細谷功氏による『システム開発と「具体と抽象」』です。案件の提案・見積から要件定義、設計、実装、テスト、運用に至るシステム開発の一連の流れに「具体と抽象」の視点を本格的に適用した1冊で、本書の特徴は大きく3つあります。
1つ目は、即効性のあるノウハウ(魚)でも個別の方法論(釣り方)でもなく、「なぜその方法が有効なのか」という構造(川の構造)から解き明かしている点です。本書はこれを、AI時代に淘汰されないための「思考のOS」のメタ化と呼びます。
2つ目は、経営者と担当者、営業と技術、コンサルタントとエンジニアといった職場の定番のすれ違いを、「具体と抽象」の視点から豊富な図解で構造的に説明している点です。ギャップのメカニズムを知ることが、そのまま明日からの働き方を変えるヒントになります。
3つ目は、個人のタスクからプロジェクト、そして組織全体まで、同じ構造を一貫して当てはめている点です。冒頭には9項目のチェックリストが置かれ、「優秀な問題解決者」ほどすべてにYESと答えるはずの項目が並びます。それらがなぜ川上へ行くための阻害要因になるのか。読み終えたとき、自分の仕事の見え方が変わっているはずです。
実装がAIに侵食されつつあるいま、必要なのは新しいツールの操作方法ではなく、思考のOSそのものを問い直すことかもしれません。エンジニアやプロジェクトマネージャーはもちろん、DXやAI導入をめぐる「すれ違い」に悩むすべての人にとって、確かな足場となる1冊です。