はじめに
(1)
読書が趣味の私は、最近思い立って「ケータイ小説」を書き始めました。当初は好意的な感想が寄せられていたのですが、書き進めるにつれて、「盗作じゃないの?」「あなたの小説は××氏の著作権を侵害している!」といった批判的なコメントが多く来るようになり困っています。確かに、登場人物の性格や場面設定等、子供の頃愛読していた××氏の人気小説を参考にしたところもあるのは事実ですが、主人公の行動やセリフなど、物語の多くは自分のオリジナルだという自負があります。それでも、私の小説は、××氏の著作権を侵害することになってしまうのでしょうか…?
ジャンルを問わず、表現活動を行う者がもっとも避けねばならないことの一つに「盗作」(「盗用」)があります。
よくニュースになるものとして、音楽(詞・曲)や小説、マンガ、ドラマの脚本、学術論文といったものが挙げられますし、最近では有名人のブログ記事が、他人の書いた記事の「盗作だった」などという話題も登場するようになってきています。
本来、「盗作」とは、「他人の作品の一部または全部を自分の作品として発表すること」(出典:Yahoo!辞書/大辞林)を意味する言葉ですが、世の中ではもう少し語義を広げて、「表現者が他人の作品にアクセス(依拠)し、そのコンセプトや場面設定を真似したり、同じキーワード、キーフレーズを用いた作品を自分の作品として発表する」といった行為についても、「盗作じゃないの?」という疑惑の眼を向ける傾向があるように思われます。
松本零士氏と槇原敬之氏の間で勃発した「盗作騒動」などは、まさにその典型例ということができるでしょう。
「盗作の常習者」というレッテルをひとたび張られてしまえば、社会的な非難を浴びることになりますし、同種の表現を生業としている人(小説家や漫画家、作詞家、研究者など)であれば、表現者としての生命を失うことにもなりかねません。それゆえ、ひとたび「盗作」が発覚すれば、それを行った表現者はただひたすら謝罪を繰り返すことになりますし、身に覚えのないレッテルを張られそうになった表現者は、必死の反論を試みることになるわけです(先に挙げた「盗作騒動」にしても、槇原氏側は、松本氏の作品にアクセスした事実自体を否定し、裁判で徹底的に争う姿勢を表明しています)。
このように極めて重い「盗作」の二文字。しかし、
著作権法の観点からみれば、世の中で「盗作」だと思われているものすべてが「著作権侵害」にあたるわけではない。
と言ったら、皆さんは驚かれるでしょうか。
世の中では、「盗作」=「著作権侵害」という見方が一般的であるようですし、前回までの連載の中で、他人の著作物の利用についてあれだけうるさいことを言っていたのに、「盗作」が「著作権侵害」にあたらないとは何事か、とお思いになられる方もいらっしゃるかもしれません。
確かに、世の中で「盗作」といわれる行為の中でも、「他人の作品の一部または全部をそのまま自分の作品として発表する」行為について言えば、著作権を侵害する行為に該当することは避けられないように思われます。
他人の「著作物」を自分の作品にそのまま取り込んで使う行為はまぎれもない「複製」行為であり、前回ご紹介した「引用」ルールにしても、自分の著作物と他人の著作物が「明瞭に区別できる」状態になければ適用することは困難です。
また、著作者は「翻案」する権利を有していますから、多少文体等を変えたところで著作権侵害を免れることはできそうもありませんし、著作者人格権の観点からは、「氏名表示権」や「同一性保持権」といった権利との関係も問題になってきます。
しかし、登場人物の性格付けやハイライトシーンの場面設定が似ているとか、作品の中核となるキーフレーズが共通して使われているといったレベルの「盗作」になってくると、いささか状況が異なってきます。
著作権法の本質にもかかわるこの問題を、これからもう少し詳しくご説明したいと思います。
著作権法の大原則 ~保護されるのは「表現」であって、「アイデア」そのものではない!
この法律において、次の各号に掲げる用語の定義は、当該各号に定めるところによる。
- 1.著作物
- 思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
著作権法第2条(定義)
以前にもご紹介したことがありますが、上に挙げた条文は、著作権法におけるもっとも基本的な「定義」規定です。
そして、太字で示した、「創作的に表現したもの」という一節から、
著作権によって保護されるのは、あくまで「(具体的な)表現」に限られ、その背景にある「アイデア」や「コンセプト」そのものは保護されない。
という解釈が導かれます。
著作権法は、「著作物」を創作した者(著作者)に複製や公衆送信といった権利を専属させることによって、他人が「著作物」を無断で利用することを原則として禁じており、そのようなルールの背景には、創作の正当な見返りを与えることで著作者に新しい「著作物」の創作を促し、ひいては文化の発展を促進する、という目的がある。
しかし、「ひとたび『著作物』が創作された後はいかなる態様、方法であっても、著作者の許諾を得ない限りそれを利用できない」ということになれば、かえって新たな創作を妨げ、文化の発展を阻害することにもなりかねない。
そこで、著作権法は、著作権によって「表現」を保護する代わりに、その「表現」の後ろにある「アイデア」等については自由に利用する余地を残すことによって、後発創作者の「思想・表現の自由」の保護と著作者(著作権者)の保護の両立を図り、「文化の発展」という法目的を達成しようとした。
これが、「表現/アイデア二分論」という、現在のもっともスタンダードな解釈であり、著作権法による保護の限界(言い換えれば、どこまでが著作権侵害になるのか、ということ)を考える上で、きわめて重要な意味を持つものとなっています。
A氏が創作した「著作物」と、B氏が創作した「著作物」に共通した要素があるとしても、
単に、両者が「アイデア」や「コンセプト」のレベルで共通している、というだけではなく、具体的な「表現」のレベルで共通していて初めて、著作権侵害となりうる。
というのが、著作権の世界における基本的な考え方なのです。
もっとも、ここまで読んできて、「それじゃ、どこまでが『アイデア』で、どこからが『表現』になるの?」という疑問をお持ちの方も多いでしょう。
そこで、次章では、具体例を見ながら、さらにこの「大原則」を掘り下げてみたいと思います。
「表現」と「アイデア」の境界
(2)
私が経営する学習塾では、短時間で問題が解ける独自の数学の解法を編み出すことに力を入れており、生徒に配布するテキストの問題解説の中でも、そのような解法がフルに使われています。ところが、最近、何人かの講師が独立して新たに塾を立ち上げ、私の塾で使用していた解法を使ったテキストを生徒に配っていることが判明しました。採録されている問題は、私の塾で使っているものとは異なりますが、これって著作権的にはどうなのでしょうか?
(3)
A社が発売を開始したスケジュール管理ソフトが非常に使いやすいと評判になったので、自社でもそれを参考に新しいソフトウェアを試作しました。開発者の感触は良かったのですが、上司に製品化の許可を取ろうとしたら、「これはA社の著作権を侵害するからダメなんじゃないか?」とストップをかけられています。確かに、当社の試作品とA社のものとでは、表示画面の構成や入力項目等に共通するところはあるのですが、具体的な画面のレイアウトやアイコンの形状、背景画像等は当社が独自に作成したものです。それでもA社の著作権に引っかかってしまうのでしょうか?
上に挙げたような、自然科学・社会科学系の論文・解説書や、ビジネスソフトウェアのユーザーインターフェイスをはじめとする機能的な創作物(他には地図や設計図など)の類似性をめぐってトラブルになる事例は、決して少なくありません。
小説や音楽等とは異なり、これらの創作物の場合、性質上表現方法に一定の枠がはめられることから、そもそも「著作物」としての創作性を欠く、とされることも多いのですが、利用する側としては、僅かでも表現の方法に選択の余地が認められるものであれば、一応は、言語、あるいは美術、図形といったジャンルに属する「著作物」として保護される可能性があると考えるのが無難です。
しかし、実際にこれらの創作物に関するトラブルが裁判所に持ち込まれた場合の裁判所の反応は、決して著作者に優しいものではありません。
例えば、数理科学論文の著作権侵害の有無が争点になった事例では、
数学に関する著作物の著作権者は、そこで提示した命題の解明過程及びこれを説明するために使用した方程式については、著作権法上の保護を受けることができないものと解するのが相当である。一般に、科学についての出版の目的は、それに含まれる実用的知見を一般に伝達し、他の学者等をして、これを更に展開する機会を与えるところにあるが、この展開が著作権侵害となるとすれば、右の目的は達せられないことになり、科学に属する学問分野である数学に関しても、その著作物に表現された、方程式の展開を含む命題の解明過程などを前提にして、更にそれを発展させることができないことになる。このような解明過程は、その著作物の思想(アイデア)そのものであると考えられ、命題の解明過程の表現形式に創作性が認められる場合に、そこに著作権法上の権利を主張することは別としても、解明過程そのものは著作権法上の著作物に該当しないものと解される。
大阪高裁平成6年2月25日判決
として、原告(控訴人)の主張を退けていますし、ビジネスソフトウェアの表示画面の類似性が実際に問題となった事例でも、
既存の美術の著作物に依拠して作成された物があるとしても、その物が、思想、アイデアなど表現それ自体でない部分又は表現上の創作性のない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、複製に当たらない(注:翻案についても同趣旨)
東京地裁平成14年9月5日判決
として、画面構成や入力項目の配置等が共通していることを認めつつも、原告の著作権侵害等の主張を退けています。
たとえ学術論文やビジネスソフトの表示画面の話であっても、オリジナルを創作した著作者であれば、書かれている内容やデザインコンセプトが共通性した「著作物」が出てきたら、「盗作だ!」「盗用だ!」と声を上げたくなることも多いことでしょう。
しかし、数理科学論文に関する判決が指摘しているように、この種の「著作物」について、「表現」の背後にある「アイデア」にまで著作権による制約を及ぼしてしまうと、本来想定されていた以上の“弊害”(学説の独占や、本来特許等、別の権利で保護すべき技術思想の独占等)をもたらす恐れがあることは否定できません。
そこで、この種の「著作物」においては、内容的にある程度共通性が認められる場合でも具体的な「表現」が異なっていれば著作権侵害が否定される、という結論が導かれやすくなります。
上に挙げた例でいえば、(2)については、「解法」というアイデアが共通していても、それをあてはめる問題が異なれば、テキストに記載される具体的な「表現」は当然に異なってくるでしょうから、テキストそのものについて著作権侵害を主張することは難しい、ということになりそうですし、(3)についても、表示画面が寸分違わず同じものになっている(デッドコピーされている)場合ででもなければ、上司の方の心配は杞憂に終わりそうです(実際、上記東京地裁判決では、侵害が成立するのは「デッドコピー」等のごく限られた場合のみである、という趣旨のことも述べられています)。
それでは、「表現」に様々な選択肢がある文学、芸術といったジャンルの「著作物」についてはどのように考えるべきでしょうか?
(4)
有名な作家B氏が新興企業である当社を素材に執筆したモデル小説が巷で話題になっています。当社はこれまで“乗っ取り屋”のイメージで語られることが多かったのですが、B氏の小説の中では、当社をモデルとしたと思われる会社が、“ベンチャー魂あふれる先進企業”として好意的に描かれていることから、これを読んで感銘を受けた社長から、「B氏の小説を素材にした当社のイメージビデオを制作して、投資家に配布するように」という指示を受けました。
ビデオの台本は口語体で構成されており、B氏の小説の表現とは相当異なるものになっていますが、使われているエピソードやそれに対する評価などに、小説におけるB氏独自の着想が反映されているのが明確に分かってしまうのも事実です。ビデオを配布するにあたって著作権の問題が気になるのですが、大丈夫でしょうか?
先に述べた学術論文等の事例と同じように考えるなら、ここでも「「表現」の形式が異なるから大丈夫」とあっさり言ってよさそうなものですが、話はそう簡単ではありません。
この種の「著作物」の場合、小説の脚色や映画化といった行為を行う場合でも、「翻案」権に基づく著作(権)者の許諾を要する、というのが一般的な考え方ですから、「多少形式が異なっても、なお「表現」が共通しているということになってしまうのでは・・・?」という疑問も当然出てくるところです。
そんな中、最高裁判所は、(4)に類似した事件について以下のような判断を行い、このような場面での著作権(翻案権)侵害の判断基準について、一応の“模範解答”を示しました。
言語の著作物の翻案(著作権法27条)とは、既存の著作物に依拠し、かつ、その表現上の本質的な特徴の同一性を維持しつつ、具体的表現に修正、増減、変更等を加えて、新たに思想又は感情を創作的に表現することにより、これに接する者が既存の著作物の表現上の本質的な特徴を直接感得することのできる別の著作物を創作する行為をいう。そして、著作権法は、思想又は感情の創作的な表現を保護するものであるから(同法2条1項1号参照)、既存の著作物に依拠して創作された著作物が、思想、感情若しくはアイデア、事実若しくは事件など表現それ自体でない部分又は表現上の創作性がない部分において、既存の著作物と同一性を有するにすぎない場合には、翻案には当たらないと解するのが相当である。
最高裁平成13年6月28日判決
そして、上告人(被告)が制作した番組のナレーションにおいて、被上告人(原告)が執筆した「著作物」(ノンフィクション)特有の認識と同一の認識に立った表現が用いられたとしても、「その認識自体は著作権法上保護されるべき表現とはいえず」「具体的な表現においても両者は異なったものとなっている」以上、著作権(翻案権)侵害にあたるとはいえない、という結論を導いたのです。
「既存の著作物の本質的な特徴を直接感得することができる」
と言われても、ピンとくる方はそんなにいないと思いますし、これだけで保護される著作権侵害となる場合とそうでない場合を明確に区別できるかといえば疑問もあります。
しかし、著作物としての高度の創作性が認められ、著作(権)者の翻案権が広く及ぶと考えられているジャンルの「著作物」であっても、やはり「アイデア」が共通しているだけでは著作権による保護を受けることはできないことを明確にした、という意味では、先の最高裁判決にも大きな意義を認めることができるでしょう。
ちなみに、上記事件の被告と同じ放送局が制作したドラマのワンシーンが、故・黒澤明監督の「七人の侍」の著作権侵害にあたる、として争われた事件でも、裁判所は、
前記番組が前記映画との間で有する類似点ないし共通点は結局はアイデアの段階の類似点ないし共通点にすぎないものであり、前記映画又はその脚本の表現上の本質的特徴を前記番組又はその脚本から感得することはできないというべきであるから、前記番組がDの有する前記著作権(翻案権)を侵害するものではない。
知財高裁平成17年6月14日判決
として、著作権者側の主張を退けています。
この事件は、当初、放送局による「盗作」問題として各種メディアに取り上げられ、「放送局が原告側に謝罪した」といった事実も伝えられました。
しかし、仮に本件が、広義の「盗作」にあたるとしても、「表現/アイデア二分論」の原則を採用している我が国の著作権法の下では「著作権侵害」にあたらない、というのが現実なのであり、私たちが同種の「盗作」騒動に接した(あるいは巻き込まれた)際には、そういったことにも留意する必要があります。
「表現/アイデア二分論」だけでは解決できないもの
さて、ここまで説明してきた「表現」と「アイデア」の区別、そしてそこからもたらされる「著作権法による保護の限界」を皆さんはどのように受け止められたでしょうか?
他人の「著作物」に依拠していることが明らかな「盗作」であっても、著作権法上は何ら制裁を加えることができないなんてケシカラン!という意見もあるでしょうし、風刺、パロディといった、全く異なるコンセプトで他人の「著作物」を利用した場合ですら著作権侵害になってしまうのに(前回説明したとおり、現在の「引用」ルールの下では、このような利用方法を適法とするのは難しいのが現実です)、他人の「著作物」の「アイデア」を真似た人が著作権侵害の責任を免れる、という結論には違和感を抱く方も多いことでしょう。
このあたりは、私たちが日頃「著作権」というものに対して抱いているイメージ(創作活動全般を保護するもの、というイメージ)と、本来の著作権法制度の趣旨(「表現」を保護するにとどまる)のギャップに起因する問題であるようにも思えます。
このようなギャップを「皆が著作権法をきちんと理解していないのがいけない」と簡単に片付けてしまうのは危険です。
例えば、
(5)
近年業績が低迷しているC社では、ライバル企業のシェアを奪うため、社運を賭けて新製品を開発し、まもなく販売を開始する予定である。C社では、販売開始に先立って、大々的にCMを打つことを計画しているが、その企画会議の中で、「消費者に短期間で強烈なインパクトを与えるため、評判のいいライバル企業のCMのコンセプトをあえて真似たものを制作してはどうか?」という提案が出てきた。C社の担当者が企画書を元に弁護士に相談したところ、「具体的な表現が異なっているから著作権侵害にはならないだろう」という見解をもらうことができた。
といった事例(例えて言えば、ソフトバンクのライバル会社が、「ネコと白人女性と人気タレントを組み合わせた家族」を主人公にした“家族割引サービス”のCMを打つようなものです(笑))を想定してみてください。
弁護士が言っているのですから、著作権侵害の問題は恐らく生じないのでしょう。しかし、ここで気をつけなければならないのは、
著作権法が表現活動に対する唯一の規律、というわけではない。
ということです。
意図的な「パクリCM」を見て、思わずニヤっとしてしまう人もいるかもしれませんが、CMを見た消費者の中には、「何だあのCMは?」「盗作じゃねーか?」と不快感を抱く人も少なからず出てくることでしょう。そして、ひとたび「盗作」というネガティブイメージが植えつけられると、たとえ法的には間違ったことをしていなくても、それを払拭するのはなかなか難しいのが現実です。
それゆえ、もし本当に社内からこんな相談が来たら、法務・知財部署の人間であれば、“余裕があるときの実験的な試み”であればともかく、“社運を賭けた”新製品の宣伝に使うにはちょっと冒険的に過ぎないか、と企画を止める方向に動いてしまうことでしょう。
また、「論文作法」のように、業界内の“暗黙のルール”によって、他人のアイデアやコンセプトの模倣がNGとされることもあります。いくら法廷で勝てても、同業者にそっぽを向かれてしまえばその後の創作活動に支障が出るのは否めないのであって、いくら著作権法上はセーフであったとしても、そういったルールを侵すような行為は勧められません。
「インスパイア」などと気取ってみても、一歩間違えればただの“パクリ”。
個人のブログから企業の宣伝まで、何らかの創作、何らかの表現を行うにあたっては、先人が生み出した成果に常に敬意を払うとともに、「自分のオリジナリティをとことん追求する」という気概をもって臨まなければならない、というのが一連の「盗作騒動」から得られる教訓なのではないかと思います。
以上、自戒を込めて。