疾走するネット・ダイナミズム

第8回ネット時代に著作権は不用か

ネット上では著作権がしばしば論争の種となる。⁠権利者側が既得権益をふりかざしネットの自由な発展を阻害している」⁠時代に即した著作権の解釈や運用が重要だ」といった主張をよく見かける。ウェブのニュース媒体でも、著作権や文化庁を過去の体制をひきずる保守勢力として問題点を取り上げることが多い。ネット関連で話題になりがちなのは、DRMの是非、ダビング10にからむ機器の補償金、動画サイトの違法投稿、パロディを含む二次著作物の扱い、などだ。

一部では「そもそも著作権なんてネット時代には不要だ」という意見もあるが、総論部分で著作権の意義や存在を否定する人は少ないと思う。マネや複製が可能だからといって知的財産(特許、意匠、著作物)に金を払う必要がないという理屈は先進国では通用しない。著作権という概念が確立されていない中世以前でも、画家、音楽家、演奏家、科学者や建築家などに対して領主や王族など支配階級、一部の商人などがパトロンとして彼らを養っていた。コンテンツが経済的な価値を持つことは否定のしようがない。

しかし、コンテンツをすべてフリーにして、権利者やクリエイターには税金で保障すればよいという意見も存在する。これなどは、コンテンツを国の管理に委ねることになり、フィルタリングの問題より本質部分で「表現の自由」に直結する問題だ。中世の例でいえば、歴史に残るいくつかの名画が、⁠史料価値も高いし、一義的には記録という目的だが)自国の権力誇示やプロパガンダに利用される、自分の城よりいい城を建てられないように建築家やデザイナーを処刑する、などといった中央管理の弊害は無視できない。

著作権は、自由な発想や創作のために機能するものである。これは精神論の話ではない。、工業製品にしろ芸術作品にしろ、その重要な前提条件として経済的な裏づけ、コスト管理は無視できない。Copyleftやクリエイティブコモンズは、著作権の精神論を語っているだけで、クリエイターの生活や経済的価値を直接担保するものではない。どちらも経済的価値(日本では著作財産権)については、現行著作権を否定しないか継承しているのみで、新たな解釈や定義を行っていない。

“デジタル著作権”をめぐるキーワード

さて、総論の話はいったんこれくらいにして、各論に移ろう。各論は、この問題にかぎらずいろいろな立場が交錯し、スキームも多数存在するので非常に難しい。

DRM(Digital Rights Manegement)は、コピーによって劣化しないデジタルデータの複製や閲覧を制御するための仕組みだが、代表的なものは音楽ダウンロードサイトや動画配信サイトのコンテンツにかけられるものだ。アップルのiTunesについてはCEO スティーブ・ジョブスのDRM不要論の発言が有名だ。⁠iPodに保存されている楽曲の97%がDRMがかかっているiTunesからのダウンロードではなく、MP3などのフリー音源だ。DRMをかけることに著作権保護の意味はない。よって、DRMはなくてもよいと思う。」という発言である。

この意見は多くのネットユーザの支持を得ており、DRMフリーの音楽配信を開始した商用サイトも増えている。しかし、業界内には反論も多い。ジョブスの発言の裏を返せば、DRMさえなければ、iPodの残りの97%の音源のほとんどをiTunesからの購入によるものに独占できる可能性があるというだけではないか、というものだ。ユーザの利便性を拡大する意見は支持を得やすいが、権利者側への適正な対価がなければ楽曲の提供は難しいという主張もある。

ダビング10は、デジタル放送への完全移行をするための著作権管理のために導入しようとしている技術だ。地上波テレビ放送がアナログからデジタル放送に移行するのは、2011年7月だ。これは技術的な問題だけでなく、やはりデジタルデータの複製の問題も考えなければならない。放送データから番組などの海賊版の作製をできないようにする必要がある。ダビング10は、デジタル放送のデータを受信側のHDDレコーダーなどへのコピー回数を10回までに制限することでこれを制御する。意味としては、指摘録音(画)のための技術ともいえる。

DRMもダビング10も、本来はネットでコンテンツビジネスを活性化させるために重要な機能を果たすツールなのだが、この問題を複雑にしているのは、録音補償金問題だろう。もともと録音補償金制度は、MDのために導入されたもので、当時としてはデジタルで録音できる機器は限られDRMやダビング10など存在しなかった時代のものだ。機器メーカ団体(JEITAなど)はDRMなどの技術で制御できるので補償金はなくせと主張している。その一方で、アップルの例ではないがDRMフリーの配信や販売も増えている現実もある。対象をMDからハードディスクレコーダに広げるにあたって、権利者側は、MDなどは実質市場から消滅するので、範囲の拡大ではなく「シフト」だとしている。どちらの主張も一理あるが、片方だけの理論で収まるほど単純でもない。現状で、すべての画像や音源にDRMを強制的にかけることはかなり困難といえる。かといって、新しい製品がでるたびに対象機器を際限なく増やしていくわけにもいかないだろう。1か0かの結論はあきらめて、双方の妥協が求められている。

Wikipedia:
オープンソース的手法を取り入れたCGMの代表例。サーバ費用や編集合戦、瑕疵担保責任など問題もあるが、これらも含めて運営される「懐の深さ」がネットならでは新しいメディアといえる

さて、この流れになるとJASRACも取り上げる必要があるだろう。ネット上では諸悪の根源のように扱われている。役所の天下り団体で、著作権の名目でユーザや権利者からも搾取しているなどと批判されている。天下りうんぬんについては、過去に文化庁出身者が理事を務めていたこともあったが、現在は理事、役員に天下り官僚はいない。確かに活動に不透明な部分がないとはいえないし、音楽の著作権料管理業務を結果的に独占しているのも事実だ。著作権が消失しているクラシックについても、演奏や編曲が登録会員によるものなので使用料が発生するというのも一般の人にはわかりにくいし、お祭りのカラオケ大会まで著作権料を請求するのは、理屈はともかく感情論を生みやすい。放送局との包括契約が実質的に他の管理団体を排除していることについては、公正取引委員会の立ち入り検査が入っている。

JASRAC=悪という半ば思考放棄的な批判をするのは簡単だが、特定の団体としてのJASRACではなく、著作権を効率的に管理するという仕組みとしてのJASRAC(=権利者のエージェント)は公平に見なければならないと思う。とくに、ネットビジネスにおいて、複雑化する権利関係を統合的に管理できる団体や窓口の存在は、むしろ重要になってくる。テレビ番組で、比較的自由にBGMや曲の演奏ができて、番組を面白くしているのは管理団体との包括契約があるからともいえる。個別の曲ごとに作曲者や歌手、演奏者の許諾を取る作業は現実的ではない。そもそもそんな許諾が必要だからいけない、という発想も可能だが、これは単純に著作権そのものを否定しているに過ぎない。著作権を無視してビジネスをしたいなら海賊版の業者になるしかない。

かみ合わない「主張」

ネット上では、とかく権利主張する側を安易に攻撃する風潮があるが、そこは冷静になったほうがいい。ウェブ媒体もそういう意見にビューが集まりやすいので、媒体のポリシーとは無関係に関連記事やそういう論調を結果的にあおっている部分もあるからだ。とくに成熟しきっていない広告モデルの媒体市場は、注意が必要だ。テレビ同様に広告収入(=ビュー)のためのコンテンツが氾濫する危険性がある。もっとも、それがCGMでありウェブ市場だという考え方もなくはないが。

いくつかのネット上の主張を見てみよう。

オリジナルの作者が無断複製やネットでのグレーな利用を批判することについて、そもそも著作物に純粋なオリジナルなんて存在しない、たいていの作品は類似のものをたどることができる、という意見がある。宗教哲学で似たような考え方がなくもないが、本能と理性の境界がじつは明確にできないのと同じで、完全な創造とただの複製の間にはかなり幅の広い段階や状態がある。この極論は思想としては面白いが、実社会では対して意味がない理屈だ。あるいは、⁠××」ジェネレータというテキスト生成ソフトがあるが、あれがもう少し進歩すれば、その作家の作品と区別がつかなくなるかもしれないともいう意見もあるが、これは単に「チューリングテスト」の話をしているだけだ。機械と人間の区別が本当につかないとしたら、その機械は人格を持った人間とみなせばよい。

ネット上では権利主張をゆるくしてコピーも派生著作物も容認したほうが、権利者も含めたビジネスが活性化するという意見はどうだろうか。典型的なものは、ウェブの動画投稿やパロディ作品などを見てオリジナルを買ったという例だ。こういった現象は、じつはネットに限ったことではない。ネット以前の時代でもクチコミやパロディ、別媒体での無断利用がオリジナルの売上に貢献したことがないとはいえないだろう。それほど法律を修正しないでも、現行の著作権法でもネット上の利用について柔軟な運用は不可能ではない。

なおこれについては、権利者側も注意が必要だ。レコードや本が売れなくなっているのは、ネットだけが原因ではないはずだ。ライフスタイルや価値観の多様化、飽和市場でのビジネスモデルの転換などじつに複雑な要因がからみあったものであるはずだ。したがって、ネットがCDの売上に影響はないという研究結果はじつは厳密な検証が不可能であるのと同様に、ネットだけに拒絶反応を示しても収入が上がるわけではない。月並みだが、時代に即したスタイルを考える必要があるはずだ。

欧米にはフェアユース(Fair Use)という考え方があるが日本にはないという意見もある。たしかに法律用語としては存在しないが、その概念が存在しないわけではない。⁠引用」は法的な規定と判例等で耐性の高い解釈ができているが、それ以外の利用がすべてNGというわけではない。そもそも著作権侵害は親告罪だ。当事者が認めれば問題ないわけで、GPLやCCLが成立しているのはそのためだ。ちなみに、誤解している人がいるが、⁠引用」とは権利者に無断できる著作物の利用行為だ。法律用語としては「引用を許可して欲しい」というのは正しくない。

著作人格権を否定する人もいる。人格権は著作と同時に発生し、消滅させることはできない。具体的な権利としては、その作者であることを主張する権利、勝手に内容を変えさせない権利など、経済活動や効果と直結しない著作物の根源的な権利だ。欧米の著作権法にはない概念なので不用ではないかというものだ。欧米にないものはすべて不用という理屈には無理があるが、ネット上での利用の障害になっている事実もある。財産権の部分で実質的にカバーできるはずというものだ。確かにその可能性は高いし、一考の価値はあるが、現状の体系の根幹をなしている部分だけに、既存契約への影響が大きい。極端にいえば、ある著作物が、作者のものではなく、出版社やテレビ局のものになってしまう。同じ著作物やキャラクターに対して複数の「原作者」が存在してしまう可能性が増える(現状でもそういう訴訟の事例はある)などの問題が懸念される。

既得権に固執しているのは誰か

ユーザ側は基本的に著作物を「消費」するだけなので、生産者側の都合は考慮しない。それは別に間違いではないが、あまりに全体を見ない消費が中長期的には経済活動を破綻させるように、近視眼的な主張は考え直したほうがいい。⁠使いたいからコピーに制限をかけるな」⁠クリックだけでコピーできるんだから金など払う必要はない」⁠ただのダウンロードに金をとるな」といった理屈はわからないでもないが、消費するだけでは「生態系」を破壊し、結局市場を消滅させるのはいくつもの歴史が証明している。ネットでコピーや派生物がいくらでも作れるから問題ないという意見は危険でもあるし、そもそもその発想自体が創作やクリエイションを否定することにならないだろうか。

iPhoneのコピー商品(右:中国製)
ネットの自由な発想や文化が海賊版やコピー商品の温床といわれないようにしたい。これらは表裏一体かもしれないが、先進国や法治国家においてそれが違法行為のいいわけにはならない

翻って、ネットは個人を情報発信者にせしめ、個人サイトを「メディア」たらしめ、だれでも「クリエイター」になれると喧伝されている。ネット上ではだれでも消費者でありながら制作者であるということだ。ならば、⁠権利者」を安易に糾弾することは自分たちの活動範囲を狭めることになる可能性がある。過去の制作者の権利は解放させ、自分たちの権利も同様に解放するのだろうか(そう主張している人もいるが⁠⁠。既得権益というが、ユーザも過去のインターネットの「法的にグレーなコピー」「規制」の埒外だった「既得権益」に固持していないだろうか。

これは、まさに筆者自身に対する問いかけでもある。

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