Webとの出会い
前田:
僕は昔、音楽の道を志していたことがあって、それがきっかけでコンピュータに接する機会がありました。15年くらい前のマルチメディアブームがきっかけでデジタルコンテンツの制作に携わり、まだ学生だった友人のバスケ君[1]と「HumanWeb[2]」という今でいうSNSを作ったことがWebサイト開発の最初のきっかけとなりました。この「HumanWeb」のコンセプトをとても気に入って、これをビジネスにしたいと思って作ったのが『関心空間』です。
江渡:
その時代からちょっと遡って、僕はsensorium project[3]に入っていました。インターネットワールドEXPO '96[4]のテーマ館だったのですが、3つくらいWeb上の作品があって、12月に完成したんです。96年の1年間展示するものなのに、完成が12月(笑)。96年以降も展示していて、'97年にアルス・エレクトロニカ賞[5]グランプリを受賞しました。そのときにこの業界の色んな人と知り合うことができたんです。バスケさんとも、同じ時期にICC[6]で仕事を一緒にしましたね。
当時からWebそのものに興味があって、Webをどのようにメディアにしていくか意識していました。当時は、人と人とのつながりでコンテンツを作るなんてことはマイナーでしたよね。みんな上を見ていたというか、有名人を連れてきてコンテンツを書かせたり、雑誌みたいなすでにあるコンテンツをWebにのせようとしてみたり。でも、実際には一番人気があったのが『2ちゃんねる』だったりして(笑)。
で、その後にやっていることは、実は10年前からあまり変わっていませんね(笑)。いまだにWebのことばかりやってます。2002年に産総研に移ってからは、とくにWikiに興味が出て力を入れているという状況です。
ユーザが書き込む―『関心空間』とWikiの可能性
『関心空間』のコンセプト
前田:
“関心空間”という言葉は、もともと都市計画学の用語を引用しています。現在慶応大学で先生をされている武山助教授の昔の論文からいただきました。
都市というのは、Cityという物理空間とアーバニズム(都市性)との組み合わせで形成されていますよね。それを分離して視覚化している、という意味合いを持っています。
このアーバニズムだけを抽出して視覚化する…たとえば、「東京らしさ」だけで「東京」に見せるとか。この発想がおもしろくて、プロジェクト名にしたのが始まりです。テーマは名前につきる、と。(僕自身)名前から入るので(笑)。
ちょうどそのときに伊藤穣一の論文[1]にも衝撃を受けました。「これからはコンテンツじゃなくてコンテクスト[2]だ!」という。そのコンテクストを可視化するということにはまりました。インターネットの魅力もいまだにそこの部分に感じていますし、『関心空間』もそこをテーマにし続けています。
Wikiと建築物
前田:
僕が最初に雑誌[1]にコラムを書いたとき、たまたまその前のページにWikiが掲載されていたんですよ。そこで初めてWikiの存在を知りました。でも、ある人から「Wikiを知らないのに関心空間を作ったのはすごく不思議だ」と言われたりして。
たしかにすごく似ているんですけど、何かが違うんですよ。それが表現しにくくて言葉にできない。はっきりしないのが魅力でもあるのですが、説明できなくて困るので今日は江渡さんにWikiを定義してもらえるとありがたいです(笑)。江渡さんが初めてWikiに触れたきっかけは何ですか?
江渡:
Wiki[2]の存在は割と昔から知っていたのですが、実際に触りはじめたのは結構遅かったんです。そのころの自分の方向性は、今から考えると間違っていて、Webから多少外れていたんです。WebHopperみたいなものを作っていた時期から、徐々に会場があってそこにインスタレーション[3]を設置して見せるという方向性に進んでいって…。
Webで何かを作るという方向性はありつつも、実際に作るのは、なんというかデジタルデザインとかインタラクティブアートみたいなもので、だからWikiの存在は知っていてもそっちには踏み込めなかったんです。
実際に使い始めたのは、2002年に産総研に移ったときに、オフィスの情報はWikiで共有せよと言われたのがきっかけです。最初の印象は正直悪かった(笑)。すごく情報がゴチャゴチャしていて使いにくいなぁと。でもあるとき気付いたんですよね、そのページも自分で書き換えられるんだと。それで、自分なりにまとめていったらすごく使いやすくて。自分で書き換えてるんだからあたりまえなんですけど、これは衝撃的でしたね。Webに最初に触れたときの感触と近かったです。これはいつかブレイクするな、と。
その後東京芸大で非常勤講師をやることになって、Wikiを取り入れてみたら大成功で、教授も生徒もみんな書き込んで、学校の中のポータルみたいなものになりました。Web 2.0じゃないけど、いったん情報が集まるとさらに強くなるという構造が見えました。他人の書いた文章も含めて編集できるというWikiのラジカルさを学生が体験しつつ、いろいろ細かいトラブルがあったりして、そのうちに定着してきたという一連の流れが私にとっては興味深かったです。これを体験して、将来Wikiが来るなと思いました。この「体験」を言語化するのは容易ではないですね[4]。
Wikiの定着から成功へ
江渡:
でも同時に、必ずしも成功にならない部分も見えてきて。それを成功に導くにはどういうパターンがあるんだろうと考えて、メーリングリストと統合したWikiというコンセプトで作ったのが“qwikWeb”です。
最近になって、Wikiが良いというのはわかったんだけど、そもそもWikiって一体何なんだろうという疑問が出てきた。自分でWikiエンジンを作ってみてよくわかったのは、機能を追加すれば良くなるとかそういうものじゃないということです。
たとえば、“WikiName[1]”を書くと自動的にリンクになるんですけど、日本語は使えないし、英語でも「C Language」は「CeeLanguage」と書かなくちゃいけないとか破綻している。それでよく任意の文字列を使えるようにするんだけど、そうするとユーザビリティは下がるし、Wikiらしさはなくなってしまう。でもそのWikiらしさって何?と聞かれても答えるのは大変難しい。
そこで、“WalWiki”を作っている塚本さんと“SocieWiki”を作っている島田さんに協力してもらって、Wikiとはなんぞやという論文を書いて「Linux Conference 2006」で発表しました[2]。その論文を要約すると、実はWikiの発明者であるWard Cunninghamは、プログラミング界ではデザインパターンやXP[3]の生みの親の1人としてスーパースターなんですよ。でもそれとWikiとの関係はあまり理解されてなかった。知ってはいるけど、つながっているとは考えてなかった。
そのデザインパターンというのはパタン・ランゲージ[4]から来ていることに、あたりまえなんだけど今さらながら気付いて。初期のパターンの考え方は、アレグザンダー[5]の「建築はそれを利用する人自身が設計するべきである」という考えをそのままに、パタン・ランゲージの助けによってユーザ自身が自分の使うプログラムを設計するというものだったんですね。そしてそれがそのままXPにつながっていきます。
こう考えてみると、パタン・ランゲージとWikiは直結しているんですよ。僕が最初に感じた衝撃の意味もこれで解けました。使いにくいと思った人が使いやすくする、そのためにはどういう環境が必要かを考えて提供する。つまりパタン・ランゲージの利用がWikiの誕生につながったということです。このことを論文[6]に書きました。
前田:
その論文、すごく読みたいんですけど…[7]。建築の話とWebの話というのは、いろいろな人と話してて、いつも「ああ、わかるわかる」みたいな感じになるんです。多分ぱっと見ではわからないけど、感触でわかる…、つまり、立体的な魅力があるからかな。
“つながり”って言うと、線的なものをイメージしがちだけど、実は立体的なものであって。1個ずつ紐解いていくと、建築家の言葉とかに例えられる。これをまた文章にすると平面的になるんでしょうけど(笑)。
(つづく)