“つながり”の生まれ方、作り方
つながりがないから“つながり”を目指す
前田:
最初のアンケートでいただいたメール[1]を拝見して「つながりがない」という発想が自分と近いと思ったんです。僕もネットサービスを考えるときにいつも逆の発想から入りますから。
サービスを始めるとき、別にコミュニティを作りたいわけじゃないんです。違和感があるものを、自分の中で整合性のあるものにしようというときに、たまたま作ったものが世の中的にコミュニティと言われて困っちゃう、みたいな(笑)。つながりをテーマにしているけど、単に人とベタベタしたいわけじゃないんですよね。
自分の中に“異質なもの”、しかも、それが排除したいものではない違和感があるんですよ。それを言葉にすると“つながり”になるわけで。この考え方で見るとWebはつながりだらけですよね。これからは、膨大な量の中から、どうやって有益なつながりを見つけだしていくか、ということも大きなテーマになると思います。
ちなみに、江渡さんは(有益な情報を)どうやって探しますか?
江渡:
アルファブロガーのブログを読むとかですかね(笑)。
このページの増え方という点を見るとWebとWikiは似ています。WebにもWikiにもハイパーリンクがあって、価値のあるページにはリンクが集まる。でも最近は新しいページが増える速度と、情報が整理される速度がマッチしてなくて、たんにページ数だけが増えてしまい、結果として情報が埋もれてしまう。
検索エンジンの呪縛
前田:
ええ。SEOとかSEMとかはまさにその流れに乗っちゃっていますよね。コンテンツの価値を上げてリンク数を増やすというのが検索エンジンのロジックなのに、本末転倒の考え方になっていて。
いかにコンテンツの内容を作り込まずにランクを上げるかという作業を、上流で目指してしまうと、本当は結果の30ページ目くらいに宝物のような良い情報があるかもしれないのにそれが埋没してしまう。そうすると、さっきお話しされたようにアルファブロガーのことしか信じられなくなったり。あと、マイミク[1]の何十人、何百人だけの話だけとか。
この検索エンジンの呪縛から逃れるためには、何の場があるのでしょうか。現実世界なら、田舎が嫌だから上京するとか渡米するとか、その逆の方法もあるけど、ネットではそういう形があるのかな、と。
江渡:
難しいですよね。逆の見方をすれば、ネットだけをやっていると余計に閉じてしまうことになる。
前田:
ええ。しかも、ネットの世界は、引き上げられやすい人が特別目立ってしまう、極端な場でもありますね。
検索エンジンに親和性の高いコミュニケーションが上手な人とか、blog界隈、SNS界隈で自分のブランディングやマーケティングに長けた人が目立ちやすいというのかな. 天の邪鬼なのかも知れませんが、個人的には検索エンジンにも引っかからない、時代に対する「異質な」情報やそのつながりにも注目したいと思っています。
異質なものへの羨望
前田:
以前、田中浩也[1]さんが「異質なものをつなげることにクリエイティビティがあるから」とおっしゃってたんです。「異質だから共感できる」という幅を広げる接し方ができないかなと思います。
たとえば、同じPC同士だからPCつながりだ、という話題では盛り上がらない。それよりも「実はこの中のHDDは○○社製で不良品なんだよね、まいったね」みたいなほうが盛り上がる(笑)。
つまり、お互いが知っていることをずっと話しているよりも、知っているつもりで実は知らなかったこと(異質なもの)、意外性に価値を置くことが重要だと感じています。『関心空間』でも、ただカルチャーの面だけでなく、しくみとして、その意外性を意識したものでありたいと思います。
もっと言えば、これは『関心空間』だけではなく、ネット全体に言えますよね。いつまでも自分の予想を裏切っててほしいです。'94年ごろとか、来年ネットなくなるよとか言われていたわけで(笑)。どこかで世間が考えている見方を裏切ってもらいたいし、その立場にもなりたいです。
江渡:
僕自身がやってきたことも、つながらないと思われてきた異質なものをネットに取り込むことだったと思うんです。まだ残ってる異質なものを考えると…、何でしょうね。
今の時代になっても、やはりFace to Faceが1番だという考えはありますね。この場もこうして(対談という形で)会って話してますし、メールで議論していたつもりでも、実際に会うと見えない部分が出てくる。目の当たりにして初めて感じる異質さというのはありますね。
前田:
おそらく、その異質な感触って、実際にここに取り込んだらなくなってしまうものでしょうね[2]。たとえば、ピアノの音を16ビットでとっても32ビットでサラウンドでとっても、実物と何かが違うと思うんですね。余談ですが、そのうち8ビットでとったチープな音が格好良くてテクノで使われたりとか。
Webがある程度信頼を獲得した今、PC(やバーチャル)でできないことがどんどんなくなってきていて、どんどん(リアルがバーチャルに)近づいていけばいくほど、遠ざかっていくという感触があります。今はまさに、こういう時期にきているんじゃないですかね。
江渡:
おそらく、抽象的な言葉じゃなくて具体的な感覚として感じているんでしょうね。異質なものの“つながり”というのは、永遠のテーマになりそうですね。
2007年、気になるトピック
Wikiの動向
前田:
2007年の気になるトピックは?
江渡:
何でしょうね。
前田:
変なバズワードは作りたくないですね。
江渡:
Web 2.0とかのキーワードには、もう疲れたなぁという気もします(笑)。こういうことを聞かれると、逆に今年は何だったのか振り返りますね。
たとえば、ビジネス分野におけるWikiの状況はガラリと変わりました。最近で言えばJotSpotがGoogleに買収されたりとか[1]、遡るとSocial Text[2]とかConfluence[3]とかWikiをビジネスとした企業が増えたりして。知名度はまだあまり変わってないですけど、これからどうなるんでしょうね。
Wikiって誰でも手を出せるからおもしろいんと思うんですよ。ある種のノスタルジーなんですけど、ビジネス的に発展していくとつまんないかもと思っています。あくまでも、いろんな人が参加できるからこそWikiなんだということを忘れてほしくなくて、論文を書きました。
メール文化の終焉?
前田:
僕は、ネットが好きで好きで10年間やってきたんですけど、さすがに最近はメールの処理が追いつかなくなってしまって。それですごく頑張ってしまうんですよ。
これって他の人も同じことが言えると思いますが、頑張りすぎて突然折れてしまう人が周りにもいますね。でも、ネットの存在が、すごく頑張ってバリバリ使いこなすか、折れてしまうかのどちらしか選べないというのは困ります。江渡さんがおっしゃっていたことではないですけど、来年は疲れないネットの使い方を目指したいです(笑)。
江渡:
そろそろメールがなくなってほしいですよね(笑)。
メールというメディアを使っていて思ったことは、これは対立を誘発するメディアだということです。メールの場合は自分の主張を相手に投げると相手も主張を返してくるという構造になっている。いわゆるフレームウォー(炎上)は、ネチケットや相手の性格だけの問題ではなく、メディアが誘発しているのだということをまず考えるべきでしょう。
最初は小さな玉なのに、投げ合っているうちにどんどん大きくなってしまうことがあります。そうじゃなくて、間にちゃぶ台なんかを置いて、そこにお互いが玉を乗せるようにする。そうすることで、お互いが第三者の視線を持てるようになる。メディアがそれを誘発することが重要です。主観と主観の間に客観を見出す作業をお互い続けることによって、対立ではなく協調を誘発するようなシステムができるんじゃないかと思っていて。Wikiの良い点はここだと思ってます。
キーワードは“色っぽさ”
前田:
それは『関心空間』でも思います。第三者に共有可能な情報を介して話していると、フレームウォーは発生しないんですよね。我々は、その主観と主観の間のものをどうやってメディア化するかということを考えていて、ここはWiki的なものもあるし、そうでなく色っぽいものというか、セクシーさというか(笑)。
たとえば、Wikipediaはすごく素晴らしいですが、人格が見えないわけですね。みんなの辞書だし。そうではなくて、もう少しセクシーというか、エンタテイメント的なものとかもあると思っているんです。関心空間はその在り方の1つかなと思います。
江渡:
Ward Cunninghamが作ったWikiも、客観的なWikiではありつつも、なんとなくパーソナルな雰囲気を残してますね。
日本で言えば、はてなダイアリーは日記とWikiがリンクしていて、日記で作者の顔が見えるからパーソナルな雰囲気が残ってて、あれも日本的で使いやすいですよね。
前田:
(どのサービスも存在の)匂いがするっていうんですかね。
江渡:
『関心空間』は、例のロゴのおじさん[1]の印象が強いですよね。見ているときは、あの文章もこの文章もこのおじさんが喋っているのかもと思ってしまいます(笑)。これもパーソナルな匂いにつながってますね。
前田:
あれが社長だと思われたりしますからね(笑)。
(両名爆笑)
江渡:
あとは、セクシーさを感じるサービスとか…。
前田:
疲れないっていうのはそういうことじゃないでしょうか。弁護士同士が話していて、ここに全部証拠があるんだぞ!というのが(こういうコミュニケーションが)1番色っぽくなくて、つまり、色っぽいというのは人が触れあう感じだったり、コップが倒れて水がこぼれても、つい笑っちゃうよ、みたいな。
インターネットが出始めたころは、そういう色っぽさ、セクシーさがそこら中にあったと思うんですよ。たとえば、目の前にインターネット作った人がいるんだよ、とか。それが今は薄れつつあると思うんです。
また2007年には、作り手の“人となり”が見えるサービスが出てくれば、その雰囲気が戻ってくるかな、と思っています。