非言語コミュニケーションとデジタルコミュニケーション
佐倉:
最近は自分がGoogleの世界にいるせいか、全然知らない分野の人や、自分が経験していない何かを持ってらっしゃる人の話を、とくに向かい合って聞くというのが、すごく嬉しい感じはありますよね。月並みなたとえだけど、忘れられたものを取り戻すみたいな感覚があって(笑)。
でも全然わからない話だとダメなんですよね。知識は違うけれども、何か自分が持っているものと同じようなパターンでフィットする部分を持っている方じゃないとコミュニケーションができない。たぶんそれはモノに対する枠組みだとか見方だとか、そういうメタレベルの話だと思いますが。そこがかなり似ている人だと、中身が全然違っても「同じような話ありますよ」とこっちからも話題を持ってこれる。
前田:
そうですね。僕も、元気な人と会うと少し元気をもらえるみたいに、すごく体験が豊富な先輩格的な人と会うと、自分のことをわかってもらえた気になります。そういう研究ってあるんですか?
佐倉:
いわゆる非言語コミュニケーションですね。会話の間の仕草とかを研究している動物行動学者や心理学者の中には、わざとそういうときに違う仕草をさせてどう反応するかというのを調べている人もいますね。その話を聞くとおもしろいんですよ。この仕草が句読点の役割をはたしている、とかね(笑)。
でも全体としてものすごく情報が複雑だから、言語でいうところの文法に相当する形での体系化というのかな、そういうのはまだできていないですね。そもそもできるかどうかもわからないですが。コミュニケーションとして、言語にならない部分から、どのように核的な部分――元気付けられたり、感情的にさせられたりだとか――が生じているかということはまだまだ全然解明されていないんですよね。
前田:
昔、安藤寿康(※注1)さんの本(※注2)を読んだことがありまして。
佐倉:
ああ、慶應大学の方ですよね。
前田:
はい。その本の中に参考になるキーワードがあって。人間の遺伝的な心理的構造は、外的な影響を受けやすい柔らかいところと固定的な特異点で構成される【柔構造】になっているのではないかと。私の直感的なものですが、オンライン上での“非言語コミュニケーション”もある程度固定的な、ストック可能なコミュニケーションの単位とフローで流動的なものの組み合わせで実現できるのではないかと考えているのです。ある知識や体験に伴う間主観的な情報が、細かな説明抜きに受け取られている感触。言葉が少なく伝わる感覚ですね。
たとえが適切でないかもしれませんが、戦争体験の話って、(当事者でない限り)誰も感情を持って話せないのかといったら、それは違いますよね。そういうことが、紙で記憶させられていく部分と講話で残っていく部分が違うようにメールやblogでも違うでしょうし、その意味ではインターネットで伝えられる部分、共有できる部分については…まだまだ難しい部分があると思います。
佐倉:
そうですね。文章のときは単語レベルじゃなくて、その文章や作品全体のメッセージが伝わるというのが近いのかなと思うんですけど、そのフローってものすごくメタレベルでの話ですよね。それを非言語でどうやって伝えるかということが課題ですよね。インターネットを擁護する人は、マルチメディアが進化してどんどん(リアルの世界に)近付いてくると言いますが、それは少し違うんじゃないかなと思います。完全に代替可能なものではないですよね。
だから僕はインターネットをやっていても、生身の人に会いたくなったり、リアルな本屋に無性に行きたくなったりするんですよ。それは置き換え絶対不可能だと思うし、僕は、人間はある意味人と人との絶対的な感覚を生得的に持っているんだから、いくらインターネットが普及してネットでのコミュニケーションが重要になっていっても、どこかそういうのに対して飢餓感というか欠如感というのはなくならないと思うんですよね。トータルで言うと、そんなにインターネットにべったり依存するという状態にはならないんじゃないかなと楽観的に思っているのですが。
一方で、本当に小さいときから人と人とのつながりが希薄でデジタルなコミュニケーションの中で育ったときに、いくら生得的・本能的に生身の人と付き合えるという能力を持っていても、それがやせ細ってしまって、大変なことになる可能性もあったらまずいかなと思います。
前田:
東大で教えられている期間の中で、最初に接した学生と最近の学生の間にリテラシーの大きな違いはありますか?
佐倉:
先ほど前田さんがおっしゃったような大きなレベルでの違いは、そんなにはないと思います。実態は全然変わらないんですが、ただ、そのフローの出ている違いというのはすごくわかりますよね…“最近あいつ見ないけどどうだ?”“SNSではやり取りしているから元気みたいですよ”みたいな(笑)。そういうのはありますけれども、だからといって、その最近来なくなった彼がSNSの世界だけに完全に閉じこもっていることはなくて。それがまだ大丈夫という感じなのか、人間はそんなもんだという感じなのか、どっちなのかはまだ見極めがついていませんが。
ただ、そこにはそもそも僕のゼミというリアルなコミュニティがあるわけですよね。そこを望んで向こうからやってきているわけで。そういう目的を志向していない関係、たとえばマンションで隣の人とそういう状況になったときに昔だったら積極的にできたものがなんとなくできない。そういうのが希薄になっている感じはありますね。
言語の壁
佐倉:
やはり情報が増えてきたことによって、使っている側がたいていのことは普通にできちゃうということがありますよね。今まですごいと思えたことが、たくさん情報があることによって、この感覚がずれてきたというか。それに対して検索エンジンは、探し物はできるんですけど、別のところに出て行けないというか。ただ今後のインターネットの進化のなかで(別のところに出て行ける)可能性はあると思いますね。
最近、言葉のバリアがすごく高くなったような気がするんですよね。学生の修士論文で英語文献の引用が少なくなったりとか。日本の学問が成熟してきて、教科書とか方法論とかが整備されてきたので日本語の文献で足りるようになってきたという面もあると思うんですが、逆に、日本語の文献の中で足りる範囲だけのことしかしていないという部分もあると思っていて。
Googleで検索しているときもSNSにしても、結局日本語のコミュニケーションですよね。個々のリアルワールドが小さかったのが、ネットで広がったと言っても日本語の中だけで、結局閉じているというか。むしろ検索エンジンがさかんになったことで、逆に言語の壁が高く強くなってきたことはすごく感じるんですよね。だからもしネットで自動翻訳か何かが使えるようになったら、そこがターニングポイントかなと思います。
前田:
すごくそう思うと同時に、そうなると喋れる人がますます優位になってくる気がします。結局その範囲の中でしか動けないなら、それを超えられる人は言葉と人脈を持っている人に限られてしまうわけで。
佐倉:
今本当にそうなっていますよね。
前田:
プログラマは、プログラムという言語を通して割合コミュニケーションしやすいけれども、たとえばWebサイトをプロデュースするという人間が、アメリカやヨーロッパの人と英語が喋れないと超えられない壁は大きいだろうなという気持ちはすごくありますね。『関心空間』でも、原稿の英語化はできるけれども、英語でモデレーションしろと言われたらすぐにはできないわけですよ。じゃあ通訳を介してするというと、これまた違うわけで。そういう意味では、情報の壁を乗り越えるために他の言語を習得し、他の文化を体験している人のほうがずっとそこを乗り越えやすいのかなと思いますね。
昨日の夜に一緒にいた元商社の方の出生地がサウジアラビアだったんですね。小学校のころを砂漠の真ん中で育ったそうなんです。日本人の集落があるらしく。日本語で育ったんですけど、その経験を通じて、どこに住んでも臆しない感覚を得た、と。そういうコスモポリタン度って日本人はすごく足りないですよね。
佐倉:
それもすごく二極化していると思いますね。世の中が豊かになったせいか、適合できる環境がすごく狭い。“ウォシュレットじゃなきゃダメ”みたいな人達が増えている一方で、ものすごくコスモポリタン度の高い若者も最近増えている気がします。でもそれもさっきの話と同じでデバイドが激しい感じがしますね。
前田:
コスモポリタン度の高い人が海外に行って帰ってくると、心のギャップが広がって居心地が悪くて、結局東京にいるのに外国人とばっかり喋っちゃうとか。
佐倉:
そうそうそう。そのあたりを埋める何か解決策があれば。