毎回、さまざまな分野の方をゲストに迎え『関心空間』代表取締役 前田邦宏氏との対談をお届けする『Web Site Expert Academia』。
今回は慶應義塾大学 環境情報学部 准教授 田中浩也氏をゲストに迎え、ネイチャーインターフェースの話を中心に、ネットワーク社会が現状抱えている悩みまで話が弾みました。
ネイチャーインターフェース
SNSの先にあるもの
前田:
いずれの活動や作品も大好きなのですが, 正直に言うと、とても他人に説明しにくいんです。もしかすると根源的なコンセプトを十分理解できていないかもしれませんので, 今回は腑に落ちるまでお話できたらと思っています。
田中:
確かに未踏領域に入ってきていて、試行錯誤の連続なんです。僕もこの対談で問題点や曖昧な部分、コンセプトが明らかになったら良いなと思います。なのでいろいろと突っ込んでください。
前田:
では, まずこの研究を始めることになったきっかけから教えてください。
田中:
WWWで「世界」中の情報と情報のつながりができて、その後、SNSで「社会」のなかの人間と人間の新しいつながりが実現され、現在に至りますよね。その文明史の上で、近未来にネットワークがもう一段、質的に進展することがありうるとしたら、キーとなるのは「生物と生物の新しいつながり」なのではないか、という仮説を立てて研究を行っています(図1)。今までネットワークでつながるのは人間と人間だけでしたが、植物と人間、植物と動物、動物と人間というつながりがネットワーク上でできてきたら、どのような関係が生まれるだろうか? という試みです。
まずやっているのは植物です。植物には微弱な電位が走っているので、それをネットワークに配信するようなサービスを作っています。まったく別々の場所にある植物同士の情報交換や、人間がメールを通じて植物に水をあげたり、植物のほうでも水が足りなくなったら人間にメールで伝える、というようなことができます。
これは、「人間同士だけに閉じられたコミュニケーションの道具」だと多くの人がすでに持ってしまっている情報ネットワークに対する固定観念を変えるところがあって。別の生態系や生物と情報システムがどこか連続的に接続されているという新しい世界観を開くんですね。現代の多様なライフスタイルの中における植物とのコミュニケーションの可能性を拓いたり、チャンネルを豊富化するという目的も持ち合わせている実験です。これ自体は2007年度のグッドデザイン賞をいただきました。
前田:
なるほど。このコンセプトモデル(図2~4)というのは、1つ1つ作品として作られたんですか?
田中:
これは学生が整理してくれたデザインパターンです。栗林君という学生が植物をネットワークに接続するための汎用的なデバイスキットを完成させたんですが、要はそれを使うと人間がネットワーク上で活動をしている現在のシステムを応用して、「人間」という部分を全部「植物」に置き換えることができるんです。それをいろんなパターンに当てはめるとこういうアプリケーションが考えられますよ、というのを示したデザインパターンがこれ。
前田:
これ(図4)って可能なんですか?
田中:
可能です。水が足りなくなったら、植物自らが水をあげるというようなシステムを作ります。それを2個用意して、こっちに水が足りなくなったらあっちからあげて、あっちが足りなくなったらこっちから…というふうに、相互依存の関係にするとどうなるのか?という実験です。
生態系のイメージ、植物の持つ力
前田:
僕が今日一番聞きたかったことは、人間が介在していないし、相互に意思を持っているかどうかわからない、けれども自分と別の存在を認識できているならば、コンピュータが介在していても、もう生態系と言っても良いと思うんですが。田中さんの実験はそこに近付いていっているのかどうかということです。
田中:
うーん。植物の研究ではそれを証明する方法もなくて、確かめられていないんですね。そもそも「確かめること」が目的なのかどうかという話もありますが。
とりあえず、少しずつでも前に進もうということで、対象を鳥に変えた実験も行っています。鳥とコンピュータを対応させて、コンピュータの出す指令を鳥が受けてどうフィードバックを返しているかというものです。
そうすると、確かに鳥がコンピュータの鳴き方を学習して、コンピュータらしい鳴き方になるのは事実なんですね。コンピュータも鳥の鳴き方を真似てだんだん学習していくのも事実。相互に影響を与える存在になっているということは言えると思います。
ただ、僕はこの実験の究極の目的は、「アルゴリズムを見つける」というコンピュータサイエンス的な関心にあるのかなと最近思っています。いろんな実験環境を作って、あとは、どう変わりゆくか、何が起こるのか、という変容の過程を観測する。それで、最終的にどんなアルゴリズムを人間が見つけられるのかということを試しているのかもしれません。なので、出来上がったものが生態系と似ているかどうかや、そもそも生態系と言えるのか、という定義の議論をするのは結構リスキーかもしれないですね。
前田:
最初この実験を聞いたとき、『ジュラシック・パーク』を想起したんですが。
田中:
あ、ちょっと待ってください。ここ(図1)で僕が生態系と書いたのは、あくまで生態系を「参照源とした」ネットワークシステムをまずは考えたい、という意味からです。今のところ、「既存の生態系」に直接働きかける前の準備フェーズなんです。
たとえばSNS、あれは冒頭で“ソーシャル”と言っている時点で、まず社会をモチーフにしたネットワークサービスを人工的に作る、それをまた社会に埋め込んで送り返す、そうして、やがてSNS自体が膨らんで我々の社会の一部になっていく、という3段階の実験だと僕は解釈しています。『関心空間』もたぶんそうですよね。あれが社会だと言えるかどうかはあまり大事ではなくて、こういう社会の仕組みもあり得る、という「可能性のプラットフォーム」を立ち上げることに価値があると僕は捉えていて。その意味で、まずは、今のネットワークシステムに生態系のような有機性を付与するにはどうするか。たとえば植物や動物を繋いでみる。そういった参照源として「生態系」と記しているんですね。
たぶんさっき前田さんがおっしゃたことは、前田さんの「生態系」という概念の必要条件かと思います。生態系だからこういう要素がないといけないんじゃないかとか。
前田:
じゃあ、ココとココ(図1の人間と人間のつながりと生物と生物のつながりの間を指しながら)の間がたぶんあるんですね。
田中:
あ、鋭いですね。
前田:
たぶんそこの間って、植物を持ち歩くというような“習慣”じゃないですかね。たとえば今、犬を連れて歩くというのも1つの単位みたいな社会もあるじゃないですか。あれがプロトコルになっていて、そういう生活スタイルの中でほとんど表裏一体で。家族って皆呼んでいるわけですよね。あれが植物に置き換わったらとか、モバイルになったらとか、そういったイメージですか?
田中:
そうです、そうです。
前田:
ここ(胸ポケット)に土を挿しても不自然ではないという状況があったときに、そこでさらにネットワークにつながっていても変わらないでしょ、とか。
田中:
ええ、実はペット型の植物というのは2年前に開発していて[1]。将来的には携帯電話のアンテナのもう一方に好きな植物を挿して生活するということがあると思っていて、それは先ほどの犬の話に近いですね。
前田:
ちょうど今『関心空間』とコラボしている『PLANTED』(注2)のいとうせいこう編集長と話したら、彼は行動力があるからすぐやっちゃいそう。
田中:
僕もそれはもうできてくると思っています。ITコミュニティと植物好きコミュニティ・動物好きコミュニティがまだリンクしていませんが、そこはたぶん自然とリンクするものかと。そうなったときに今度はネットワークシステムとしてあらかじめどんなものを用意したら良いのかと少し先回りして考えていく、それが今のスタンスですね。
以前、植物の生態電位をBGMに代えながら持ち歩くというデバイスを開発する実験を学生がやっていて。植物の電位がなんらかの音に変わってずーっと再生されているんですよ。そもそも植物の生態電位って、環境のあらゆるパラメータ、温度や周囲の電磁波とかに反応して変わるんですが。その環境に対する敏感さというのは人間の何万倍もあるので、それを聞いているとものすごい解像度で環境に対する感覚がくる。
こういう人間の知覚を書き換える効果を、植物や動物には託しています。その先に生態系をシフトしたりとかということに自然とつながっていく感じでしょうね。
前田:
たとえば大地震の前にカエルの大移動があった、とかいうことは、そのセンサーが働くということですよね。
田中:
そうですね。自然の中の生き物のほうが、人間よりも高い解像度で環境を意識しているので、情報システムを通じて間接的にそういうインテリジェンスを人間社会にも取り込もうという発想です。
前田:
植物ほどでは敏感ではないにせよ、我々の電位も変化はありますか?
田中:
人間の皮膚にも植物のように生体電位があって、そこで感情の変化などを調べることができるそうで、そういうことを研究している方もたくさんいます。でも、僕は人間とペットがワンセットで1つのモジュールとか、人間と植物がワンセットで1つのモジュールとか、そういうふうに捉えるほうが面白いと思っていますので。
前田:
モジュールといっても社会関係なんですよね。犬とかだと、お互いの認識でちょっとずつ1つの社会関係が個性化していくというか、お互いの新密度が上がっていく気がするんですが。植物は想像しにくい…(笑)。
田中:
植物は意思を持っているかどうかの議論になってしまうので…、擬人化という欲望は、結局人間の片思いなんですよね。心のメカニズムとしては真だけど、科学的なメカニズムとしては証明する方法がない。
前田:
確かにそのエコというのを人格化して近付いていくという点では、1個だと難しいかもしれない。でも、実社会だと盆栽や蘭なんかをたくさん温室で作っている人というのは、かなり植物に対して愛情があるというか。
田中:
そうですね。どちらかというと植物は、単体で扱うのではなくて、ある量を扱って確率統計をとってみたりすると、「群としての知性」が立ち上がってきて、生態系らしさが出てくるのかなという感じはしますね。
前田:
屋久島まるごとIT化という記事があって。実際はそうじゃないんだけど, 屋久島中の葉っぱ1個1個がつながっていて、それがすべてネットワークに可視化されるとかイメージしちゃいました。
田中:
森が1つのインテリジェンスだという機能は昔からありますよね。たとえば天然の森に人間が一歩足を踏み入れると、「人間がやってきた」という情報が出て森全体に広がるらしいですよ。樹木の根っこどうしの間で微弱な電磁波を出し合って伝達して。それで森中が人間がやってきたことを認識するみたいです。
前田:
『風の谷のナウシカ』の森(腐海)と蟲がシンクロしているということを想起させる話しですね。
個々にネットワーク生態系を
前田:
こういった研究は、ずーっと先にいくと何になっちゃうんですか?陳腐な未来予測だと、ターミネーターのスカイネットじゃないですが、ネットワークが意識を持ってしまう。それは人間が持っている意識とは違うものかもしれないけど、そう振舞ってしまって、大いなる意思になってしまう。そういうところから人間との力関係が変わってしまう世界の話がよくSFで取り上げられますが。
田中:
そうじゃない未来を描こうとしているんです。鵜飼いあるいは羊飼いのようなイメージですね。植物や動物がネットワークごしに人間の周辺でなんらかの活動をしていて、それがいろんな情報を拾ってきてくれるような環境です。
ユーザ個々が自分のためのミニ生態系を確保するというイメージなんですよ。たとえば僕はNYの蛍と日本の自宅の植物とどこかの鵜飼とアザラシを自分のネットワークに入れると考えて、で集まってくる環境情報の中で生活しますよ、と。前田さんは別のシェアを、別の植物を従えていますよ、と。そういうパーソナライズされたネットワーク生態系を持ちつつ、環境とインタラクトしながら生活するイメージです。
前田:
なるほど、わかります。
田中:
それを僕は庭、マイガーデンやクリーチャ・ネットワークと言っても良いんじゃないかなと思います。世界中に遍在して活動している植物や動物がまずあって、生命的な情報や環境の情報をWebに送り込んでいる。そして、各自が自分で選んだ、その部分集合=セットが、仮想的につながれた「わたしの庭」として、バイオリズムやダイナミズムを手元まで届けてくれる、というイメージです。
技術の進化と息苦しさ
“神”でありたいか?
前田:
抽象度の高いことをお聞きしたいのですが…我々は作り手として何者か? ということを。自分がそのネットワークを作って、当初は“神”としてあったのに、だんだん“神”は無関係になっていく。
田中:
僕のやり方だと、最初のお膳立ての部分は自分で介入するわけですよね、生き物と人間がインタラクションするような関係を作る。その後いったん自分は離れて成り行きを見ている。見ているうちにどちらかというとそちらが環境になって育って行って、逆に自分のほうが変わってくる……というようなことを確かに思ってますね。
前田:
たとえば『関心空間』でも、雑誌の紹介なんかでは、前田が作ったとか初めて書き込んだとか世界観を作ったと書かれているけれど、ユーザにとっては「誰それ?」「俺が作ったもので人とつながっているのであって、前田からは何の恩恵も受けていない」とか「どちらかというとユーザーである俺の方が貢献しているくらいだろう」と。そうなったときに、“神”というか作り手として、何を成功とみるか。
田中:
それは面白い疑問ですね。前田さん、“神”でありたいですか?
前田:
神というより場(状況空間)の提供者になりたいだけですね. 僕は複雑ではあるけれどもその複雑さが有効性を持って人に伝わるアルゴリズムを作ることに意義を感じているのであって、そのアルゴリズムがユーザや社会に有効なアルゴリズムだったとしたらそれで良い、というスタンスです。
田中:
たぶんこの話というのは、ネットワークシステムを作る人特有の世界観かもしれないですね。たとえば今日僕が作っても、明日には別の者が作ったものに変わっているかもしれない、あるいは主客の逆転。僕はその主客の逆転する感じが大好きで。最初の種を蒔いたときの自分と、少し状況が変わったときの自分というのがある。その2重性――観測するフェーズと生成するフェーズ――を、行ったり来たりし続けることが創造性の源だと思う。
前田:
完全に“一致してない”ということは第三者から見るとないというか。確かに20歳くらいから性格変わったよねって言われることはあるかもしれないけど、連続的な存在だと思うんですよ、第三者には。
僕にとってアルゴリズムが有効に働いたなというのは、自分が作りたかった世界観に変容しつつも中心を貫いているコンテクストが変わらない、ということ。自分の子供みたいなもんですよ。明らかに顔も性格も似ているけど、どんどん自立的になっていくわけじゃないですか。それを見ているから反抗しても愛おしい、というのもあるし。大きくなったから無関係というのではなくて、関係性はときおり確認するというか。そういう意味では逆転したことに快感を覚えるというよりは、底辺ではつながっていてそれが近似した世界観の中で成長していくということです。
田中:
第三者とか、メタ自己を導入するなら、それもすごくよくわかりますね。
淡さの確保
前田:
人間と人間のSNSの先の話は僕も目指しているところで。どうも皆はソーシャルメディアを人間と人間の関係で捉えすぎているというか、嫌なんですよね,僕も。派閥だったりステイタスだったり…もっと違う要素で豊かになりたい。
僕は茶道が好きなんだけど、あれもすごく微妙な世界ですよね。一見, ハイクラスな人間交流をしているように見えるけど、あれもモノとかコンセプトの関係性が上位で、人間上位の世界ではない、豊かで淡い交わり, 淡交(たんこう)ですね。淡交というのは人間の交わりは, 駆け引きや利益に遠い関係ほど美しい, という茶道の言葉ですが。これもそういう淡い交わりですよね、植物とかって。
田中:
ええ。コミュニケーションが非対称だということが良くて。相手の持っているコミュニケーションチャンネルと相手の持っているのは同じではない。という状況があえて。
前田:
それ良いですね。コミュニケーションの単位が小さくなるというのは、確かにこのWeb 2.0の先にあると思うんだけど、Twitterみたいな世界はクールだったり、ハッピーではあるけど、侘びさびとか淡交とは違うもんね。
田中:
基本的にはある同一の平面の上にあらゆるコミュニケーションを置いてしまっているから、奥行きとか深さが出てこないですね。
前田:
僕がボトルメール(注3を良いと思うのは、さっきの片思いじゃないけど、コミュニケーションする結果を求めるんじゃなくて、自分の思いを投じてそれが返ってくるまでが良いからなんですよね。
田中:
まったくそうですよ、結果じゃなくてアクションそのものを楽しんでいるということが大事ですよね。「交換」という事実性よりもむしろ、「交歓」というそれ自体を楽しむセンスを確保しないといけないと思いますね。
『不可能性の時代』(注4)という本が最近出たんですが、その中でコミュニケーションできたかどうかの結果をネットワーク社会によって独自に観察できる世の中になったという部分がありまして。今は自分のアクションに対する何らかの結果がかなり直にわかる状態じゃないですか。それ自体は、不可視のしがらみの増幅に陥るリスクがあって、結構息苦しさにつながっているんじゃないかなと。最初のころは淡かったじゃないですか、技術的にも淡かったけど。
前田:
メールなんかも昔は手紙をもらったように喜んでもらえましたよね。
田中:
そこまでしかできなかった技術の時代があったんですよね。今の技術だとできるようになってしまった。できるものをやらないという選択肢はないので、別のベクトルに、横に流れを変えていくしかないと思って、そのきっかけがこういう研究なのかなと。
前田:
ふむふむ、それは今日また別の理解が進みました。固定電話の技術者の方は、携帯電話に“圏外”が存在することに最初驚いたらしいですよ。つながらないというのは、ユーザに故障していると思われるという固定概念があったから、「圏外って表示していいんだ!」と(笑)。結局インフラストラクチャーってそういうふうに振舞ってきたわけですよね。たとえば電力会社の人というのは、風力発電とかを“汚い電気”って呼ぶんですよ。定常的に同じ質のものを出せないのは技術的に劣っていることだから。
それってどんどんその息苦しい話になっている気がして。つながらなくてもいい、たまにつながらなくても仕方がないって思っている心の余裕が携帯にあったのに、これが完璧に全部つながったときに、失われるものがやはりあって。おそらくネットワークでもそうして淡い付き合いが減っていったんですね。
田中:
ええ。そこで頼りになるのが人間以外の生物かと。サイバネティックスというのを人間社会のみで閉じて捉えているなら、その延長上にある未来はもう作っても仕方ないと僕は考えていて。その局地に近付いているからこそ、淡さみたいなもの、有機性を確保するために逆のベクトルにいったんアテンドする。「サイボーグ」=サイバネティックオーガニズムではなく、オーガニックなサイバネティックス、具体的に言うと「生物の参加するWeb」、というトライアルをやりたいと思っています。
前田:
ようやく、本棚に置かれていたジャック・モノー「偶然と必然」(注5)のコンテクストが見えてきました。モノーは、生物学が形而上学的な言葉を使わなくても宇宙の真理にもっとも近づけるサイエンスだと言っていましたが、さらにその先を行くわけですね。つまり、言葉を持たない生物間をネットワークさせて、言語化しないまま世界を描写するインターフェースがWeb上に実現できないか、それも人間中心的な視野を可能な限り排除し、自らもそこに一体化して世界を見ようということですね。非常に奥深いお話し、ありがとうございました。