今回のゲストは、「 Fine Software Writings ソフトウェア開発に関する文章の翻訳 」で多数の海外ブログなどの英語文献の翻訳をしている青木靖さん。『 Joel on Software』などの翻訳書とともに、その名訳が人気です。
左:青木靖氏、右:小飼弾氏(撮影:武田康宏)
FizzBuzz問題
弾: それではぼちぼちとお聞きしていきましょう。まず、青木さんに会って、やっぱり外せない質問は「どうしてプログラマに…プログラムが書けないのか? 」
青: あー、はい(笑) 。
弾: FizzBuzz問題[1] 。青木さん自身が出したものではなくて、翻訳ではあるんですけど、最初にどこで見つけたんですか?
青: 「Coding Horror」っていうJeAtwoodのブログ をいつも読んでいて。そんなにすごいことになるとは思ってなくて、軽い気持ちで訳しただけなんです。
弾: すごく流行りましたよね。このFizzBuzzが書けないというのは。
青: あれに火をつけたのは弾さんですよね、実は。
弾: 僕というよりはてなブックマークではないでしょうかね。僕がブックマークの中に納まるFizzBuzzの実装を書いて。
[1] 「1から100までの数をプリントするプログラムを書け。ただし3の倍数のときは数の代わりに『Fizz』と、5の倍数のときは『Buzz』とプリントし、3と5両方の倍数の場合には『FizzBuzz』とプリントすること」という問題で、プログラマの採用面接を受けに来る人の多くがこの簡単なプログラムを書けないというのが記事の内容。この記事の後、FizzBuzz問題をさまざまな言語で実装してブログで公開するのが流行った。
翻訳ネタの選び方
弾: 翻訳する記事はどういう基準で選んでるんですか? 青木さんが翻訳した記事は本当に質が高いじゃないですか。それに、出せばブクマが3桁でつくという。
青: 読んで自分でおもしろいと思ったっていうことが一番で、あと、一時的な流行りじゃなく、できるだけ普遍性のある、長く読まれるようなものを選ぶようにはしてます。日本の技術系ブログにも、弾さんのをはじめ、おもしろいものはたくさんありますが、向こうのものはそのまま堅めの本に載せられるような、完成度の高いものをよく目にします。コメント欄にも長文を書く人がいて読み応えがあります。
普段の仕事
弾: 青木さんのファンは、僕も含めてほとんどWebを通してしか青木さんのことを知らないと思うんですけど、普段は何をしてらっしゃいますか?
青: ソフトウェア会社で、生産計画系のパッケージソフトの開発に携わってます。パッケージっていってもだいたいがそのまま売るものじゃなく、さらにカスタマイズして使うものです。
弾: 顧客ごとに合わせて。
青: そうですね。
弾: 普段、FizzBuzzはどんな言語で書いてらっしゃる?(笑)
青: 書くのはC#が多いです。
弾: 普段、仕事以外ではプログラムをされるんですか?
青: 言語を覚えることやアルゴリズムは好きで、趣味的にやることはありますけど、あまり大きいものはやってないです。
弾: あるいはコードを人に見せるとか。青木さんはご自身のコードはほとんど載せてらっしゃいませんよね。www.aoky.netにあるのは、ほぼ全部翻訳で。あまり表に出たがるタイプではない?
青: 今、実はインタビュー受けてること自体、かなり場違いな気がしてます…(笑) 。翻訳をするようになったのは、2002年にWebでJoel on Softwareの記事[2] を訳したのが実質的に最初です。JoelがWebサイトの各国語版を作ることにして、翻訳する人を募っていました。Joel on Softwareは以前から楽しんで読んでいたので、協力することにしました。やってみたら存外、翻訳が自分に合っているのに気付いたという感じです。
英語の習得
弾: 青木さんはどこで英語を習ったんですか?
青: あまり英語を意識して勉強したことはなくて、大学で情報科学、コンピュータサイエンス専攻だったんですけど、文献はだいたい英語になっちゃうんで読まざるをえなくて、読んでるうちに読めるようになったっていうくらいです。
弾: 僕、日本の大学に通ったことがないのでいまいちピンと来ないんですけど、SICP[3] ってあるじゃないですか。Schemeの典型的な教科書。K&R[4] もそうですけど、この辺の本は軒並み翻訳されていて、英語に一切触れずに学べちゃうと思うんですよ。失礼ですけど、青木さんておいくつですか?
青: 僕は弾さんの2つ上くらいですね[5] 。
弾: あー、そうなんだ。確かにそれであれば、大学でコンピュータサイエンスを学ぶのに日本語だけで完結する状況ではないはずですね。
青: (当時は)翻訳されたとしても結構、間がありました。
[3] 「Structure and Interpretation of Computer Programs」の略。翻訳書は、『 計算機プログラムの構造と解釈 第二版』( ピアソン・エデュケーション、2002年) 。
自然な日本語
弾: 青木さんはなぜあんな自然な日本語に訳せるかというのが、僕から見ると不思議でしようがないんです。あんまり脚注も付けないじゃないですか。脚注って付けると、正確な訳にはなりますけど、読みにくくはなりますよね。
青: 読者としては、結構うざったいというか、めんどくさいですよね。本文で示せるのであればできるだけ本文で(と思っています) 。
弾: 1つの文章訳すのにどれくらい時間かけてますか?
青: ……1ページ30分くらいですかね。
弾: おー、やっぱスピード重要なんだな。それであのクオリティ。たぶん、英語だけじゃなくてそのバックグラウンドになる知識もよくご存知だからそのスピードで訳せると思うんです。たとえば「スタートアップを殺す18の誤り 」注9って記事なんかはプログラムの知識だけでは訳せない。Paul Graham[6] の文章って、経済用語も出てくるし。あと、わりと英語圏では日常的な言い回しを、さらにもじった言い方をするじゃないですか。なんでこんなに自然な日本語になるのかなって不思議に思うんですけど。
青: …………。特に特別なことって何もしてないですね。辞書は引きます。いろいろ何種類か使ってるのと、あと、普通にWebで調べたりしますけど。特別な方法っていうのはない。
すごいと思う翻訳者
弾: この翻訳者はすごいなっていう翻訳者はいらっしゃいますか?
青: 学生の頃、ワインバーグの『コンサルタントの秘密』などを訳された木村泉先生に接する機会がありました。翻訳のスタイルとか、影響を受けている部分があるかもしれません。あと、ロールモデルっていうんじゃないですけど、かなわないと思うのが、村上春樹です。
弾: 村上春樹は翻訳者である以前に作家でもあって、著名な翻訳者っていうのは自らも本を著す人っていうイメージが僕は強くあるんですね。翻訳もするけど、自分でも書く。サイエンスフィクションでは、今は亡き、矢野徹[7] とか。これも故人になっちゃったんですけど、米原万里さん[8] も自分でもおもしろいエッセイをいっぱい書いてらっしゃいましたよね。青木さんはそっちの方向には進まないの?
青: 今のところは、自分で書いたものより人のものを訳したほうが、結果的に、貢献できるかなという感じがありますね。
弾: 翻訳したほうが自己満足度は高いと。
青: …………。ある意味そうですね。
[7] 翻訳書としては、『 宇宙の戦士』( ロバート・A・ハインライン、ハヤカワ文庫、1979年) 、『 デューン砂の惑星(1~4) 』 ( フランク・ハーバート、ハヤカワ文庫、改訂版、1985~2000年)など、著作に『カムイの剣』( ハルキ文庫、1999年)などがある。
自分から意見を言うタイプではない人
弾: 実は青木さんのような、あまり表には出てこないタイプの方は多いと思うんですけど、そういった人たちに対するメッセージってあります? 何か貢献はしたいんだけれども、でも声を荒立てて自己主張するみたいで恥ずかしいというのかな。
青: …………。コミュニティとか社会に貢献していくやり方もいろいろあって、たとえば良いプログラムなりサービスなりを書いて公開するというのもあるし…。
弾: 黙ってコードを書け(笑) 。
青: そうですね(笑) 。あとは、ニコニコ動画でおもしろいのを作るというのもあるし、いろいろやり方はあるので、自分で納得できるものが作れるやり方でやればいいんじゃないかと思います。
青木さんのサイトがなかったら
弾: 青木さんのページがなかったら、今の日本のWebというかblogsphereはどうなってたでしょう?
青: いやー、そこまで影響力あるとは思ってない…。
弾: 実はたいへんに影響力があるんですよ。自らの影響力をなるべく加えないがゆえに影響力がある。僕みたいに余計な一言を言わずにすまないタイプであれば、たとえば青木が紹介する何々のコーナーになっちゃったと思うんです。でも、青木さん自身があくまでも翻訳者として控えてることによって、原文の影響力がよりダイレクトにしかし日本語でわかりやすく伝わるわけです。
青: 翻訳者としては自分が見えなくなるのが理想なので、そうなれているのであればうれしいです。
優れたエンジニアとは
弾: 優れたソフトウェアエンジニアというのは青木さんの目から見るとどんな人ですか?
青: うーん。やっぱり第一は、プログラミングが好きということ。これは翻訳とかほかのことについても言えることだと思います。ほかの人に何か言われようが、理不尽な状況だろうが関係なく、とにかく学び続け、いい仕事をしようとする姿勢は、好きでないと難しい気がします。
弾: 青木さん自身はどうですか? プログラミング好きですか?
青: 自分がアルファギークかどうかは別として好きですね。
弾: で、優れたエンジニアにとって、言葉ってなんでしょう? よくいるじゃないですか、黙ってコード書けの人。青木さんの紹介している文章って、黙ってコード書けの対極にあるものばかりですよね。エンジニアにとって語りってなんでしょう?
青: …………。コードでしか表現できないことがありますが、コードではうまく表現できないこともあります。たとえば意図だとか考えた過程のようなこと。それからどう考えるかについて考えるとか、そのプログラムはそもそも作る意味があるのかを考えるようなメタレベルでの思考は重要だと思いますが、そういったことは言葉でしかできない。言葉は人に伝える以前に、自分自身(の思考)にとって重要なものだと思います。
エンジニアの素養
弾: SEやソフトウェアエンジニアの素養として何を身につけておくべきですか?
青: 月並みですが、コミュニケーションスキルでしょうか。人からでないと得られない情報があるし、プロジェクトなどでは技術系の問題より人間系の問題のほうがインパクトが大きい場合があります。コミュニケーションはスキルというより姿勢の問題かもしれませんが。どっちかというと、僕自身があまり得意でない部分があって。コミュニケーションを取ろうという気持ちがあれば下手なりにできると思うし、コミュニケーションを取ろうという態度は重要じゃないかなと。
弾: コミュニケーションスキルって、聞かれたことにスパーンと答えるというのも当てはまるかというとそれは違うと思います。実は今回の対談では、長考モード[9] がたくさん登場したんですけど、これどうやって誌面に反映させられたらいいのかなって。
青: はは(笑) 。
弾: でも実はそれもメッセージなんですよ。青木さんの沈黙のありようというのがすごく饒舌だったんです。全部違ったんですよ。これはどういうふうに言えばいいのかなあと考えあぐねている沈黙もあれば、うーん、これは答えづらいなの沈黙もあって、とても饒舌なんですね。でも、僕はここにいるからわかるけど、読者にどうやって伝えたらいい? 翻訳もそれに似てるといえば似てる気がするんです。青木さんの話法を紙にそのまま転写することはできません。寡黙であることそのものもメッセージではあるんですけど、確かに現代はわりと饒舌な人がうける世の中だと思うんです。平たく言うと口がうまいやつです。が、僕はそれがコミュニケーションだとは思ってないんです。寡黙な人にとってはどういうコミュニケーションスキルを磨いたらいいと思いますか?
青: それは僕が知りたい…(笑) 。
弾: (笑) 。でも少なくとも青木さんは英語で書かれた別の人のメッセージを日本語でほかの人に伝えるというのに、ものすごい成功されてるわけじゃないですか。だから前の質問に対する答えを持ち合わせてるのかなぁと。翻訳者は透明なほうがいいとおっしゃいましたよね。でも、透明というのは没コミュニケーションではないと思います。その2つの違いはなんでしょう? まだ青木さん自身は自分のことはわからない? 青木さんすごい上手に見えるんですけど。少なくともWebを通して見たり、こうしてお話を伺う限りはすごい上手だと思うんです。どうするとそうなれるのかは説明できない?
青: …………。自分自身であまりわかってるか自信ないんですけど、重要なのは、誠実さと伝えたいと思う意志、だという気がします。
弾: 翻訳の場合は伝えたい意志というのが2つありますよね。原著者の意志と、翻訳者の意志。たぶん透過的であるというのは、あたかも原著者が直接語っているように見せるということだと思うんです。ですが、この文章を翻訳したいということそのものがメッセージですよね。だから世の中にある英語で書かれていることをそれこそGoogleみたいなしくみで自動翻訳してない以上は、実際に何を訳すかっていうのは意志なわけです。実は青木さんの意志に触れるためには青木さんの訳した文章、1個1個見てもわかんないんですよね。www.aoky.netを全部見てみると、こういうことを伝えたいっていうのが伝わってくるような気がします。そういった形で何も語らずして自分の意志を伝えるというのはものすごい魅力を感じますね。自分にはない才能なんで。
今後の翻訳予定
弾: 最後に、最近翻訳されている本について、ちょっと紹介を。
青: 最近出たのは、『 Eric Sink on the Business of Software 革新的ソフトウェア企業の作り方』( 翔泳社)という本。原著者はSourceGearというソース管理ツールを作っている会社を創業したプログラマで、ソフトウェア会社の経営に関するさまざまなことについて書いたエッセイ集になっています。あと、『 Joel on Software』の続編も、来年の早い時期に翔泳社から刊行予定です。