最近、「国民ID制度」やら「番号制度」というキーワードが世間を賑やかせている。この制度の導入によって、年間1兆円の特需が恒久的に続くなどといって、株価が上がる企業まで出る始末だ。
この「番号制度」、番号を人に振って行政効率をあげると共に、必要な人に必要な援助を差し伸べようという大変結構な話だ。IT戦略本部の電子行政に関するタスクフォースなどを見ている限りでは、分野別の利用番号と、名寄せのキーとして使う番号を峻別して、後者は見えない番号にするというような妥当な形で進んでいる。ところが、それを取り巻く報道などを見ると、そうではなくて「見える不変の汎用番号」を人に振ろうという話が散見される。
私自身、業務効率化のために「不変の番号」を導入するのにはやぶさかではない。だが、名寄せによるプライバシー侵害などの副作用を生むから、それは見えてはいけないし、必要ならば変更も可能でなければならないと思っている。
しかし、この名寄せの脅威、なかなか一般にはご理解いただけないようだ。
曰く「名寄せがプライバシーの脅威と批判されても……。番号制がもたらす脅威とは具体的にどのようなものか?」
この名寄せ問題、なにも「番号制度」に限ったものではない。普段私たちが使っているようなある種の「番号」や「アドレス」に関しても共通だ。
「プライバシーとは何か」から説き起こした情報モデル的解説は、2010年12月19日(日)の堀部シンポ 資料に詳しく書いたのでそちらをご覧いただくとして、ここでは直感的にわかるような話をしたい。
まずはじめに言っておくが、名寄せ全部がプライバシーの侵害ではない。「本人がしてほしくない(意図しない)名寄せ」がいけないと言っている。
実は、この「本人がしてほしくない名寄せ」、ヴィクトル・ユーゴーの「ああ無情(Les Miserables)」を始め、文学の主要テーマの一つなのだが、気付かない人が多い。
ジャン・ヴァルジャンとジャヴェル警視
「ああ無情」は2人の主人公を持っている。「ジャン・ヴァルジャン」と「ジャヴェル警視」だ。
ジャン・ヴァルジャンは、若き日に飢えから一切れのパンを盗み投獄され、出所後神父の赦しと愛に触れ更正し、聖人のようになって行きながらも、何度も何度もジャヴェルにより過去の犯罪に結び付けられ奈落に落とされてゆく。この不条理、無情がこの大河小説のテーマのひとつだ。
そして、対するジャヴェルは、人並み優れた正義感と能力を持った超人だ。その超人的能力を書いてみよう。
- 何十年たっても絶対に忘れない。
- 超人的な探索能力を持っている。
人は忘却する動物だ。だが、ジャヴェルは忘れない。
人は時と場所を越え情報を探索し、二つの一見関係ないものを結びつけるような能力は通常持っていない。それを持っているのは、シャーロック・ホームズとか、一部の超人だ。ジャヴェルもその超人の一人である。
この2つの超人的能力をもって、ジャヴェルは「法の正義」に基いて、繰り返しジャン・ヴァルジャンを奈落に落としてゆく。彼は社会に貢献し、人々を救い、まるで聖人のような行いをしているのにもかかわらず、名を変えて過ごしている彼を容赦なく「名寄せ」して奈落に落としてゆく。それによって、彼だけでなく周りも、場合によっては一地方全体を不幸に落としながら。
そう、ここでおきているのは、「ジャン・ヴァルジャン」と「市長のマドレーヌ氏」、はたまた「ジャン・ヴァルジャン」と「フォーシュルヴァン氏」の、ジャヴェルの「忘れない能力」と「探索能力」による「名寄せ」なのだ。
さて、察しのよい読者はすでにお分かりだろう。このジャヴェル警視の超能力、
- 何十年たっても絶対に忘れない。
- 超人的な探索能力を持っている。
は、実はインターネットの特性そのものなのだ。インターネット上にひとたび出た情報はどんどんコピーされて完全に削除されてしまうことは稀だ。そして、Googleなどのインターネット検索エンジンは、それらの情報を探索し、きわめて短時間に見つけ出すことを可能にする。つまり、インターネットによって、好む好まざるにかかわらず、普通の人もジャヴェルを上回る「超能力」を手に入れてしまったのだ。これに、
- 「見える不変の汎用番号」の配布と使用
を加えてみよう。これによって、「過去の私」と「現在の私」、「職場の私」と「プライベートの私」などの名寄せがごく簡単になってしまう。まさに、だれでもジャヴェル化計画の完成である。
人は忘却する動物。それが許しにつながる。人はそれを前提に行動する。だがインターネットは忘れない。「ああ無情」のジャヴェル警視のように忘れない人を非情といい、その被害を無情という。インターネットへの、「汎用不変番号」に代表される識別子の不注意な導入・利用はインターネットを誰でもジャヴェル化する。そして、そこに現れるのは、「無情社会」なのである。
断片的な情報の脅威
さて、ここにもう一人の主要人物にご登場願おう。ジャン・ヴァルジャンの「娘」であるコゼットの夫となるマリウスだ。マリウスとコゼットが結婚した後、ジャン・ヴァルジャンは、実は自分はコゼットの親ではなく育てただけで、しかも自分は元徒刑囚であることを打ち明ける。その結果、ジャン・ヴァルジャンはマリウスに打ち捨てられる。そして、マリウスはコゼットの持参金の出所にも疑いを持ち、それを調べ始める。もちろん、断片的な情報しか手に入らない。が、それらをつなぎあわせて彼はある「事実」を手にする。それは以下のようなものであった。
財産は、昔微罪を犯したが更生し、ビジネスで大成功し、病院を建て学校を開き、病人を見舞い、孤児を引きとって育てるなど、その地方の守り神となり、市長にまでなったマドレーヌ氏のものであった。
ところが、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏の旧悪の秘密を知っていて、その人を告発し捕縛させ、その捕縛に乗じてマドレーヌ氏のものである50万フラン以上の金を引き出した。この引き出し事件は、銀行員から直接聞いているので確かだ。
さらに、ジャン・ヴァルジャンは私怨によって、ジャヴェル警視もピストルで殺害した。これは、自分がピストルの音を聞いているので確かだ。
もちろん事実は違う。マドレーヌ氏=ジャン・ヴァルジャンだから、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ氏の財産を奪ったわけではないし、ジャヴェル警視も殺害されそうになっていたところを、ジャン・ヴァルジャンの機転によって命を救われている。しかし、マリウスの集めた断片的な「事実」では、真実とはまるで異なる結果しか出てこなかったわけだ。
再び、賢明な読者はもうお気づきだろう。調べたときに断片的な「事実」が出てくるというのもまたインターネットの特徴なのである。真実とはすべての事実の総体であり、部分的に抜き出すと、真実とはかけ離れたものになることは少なくない。インターネットは常にその危険性をはらんでいる。
「ああ無情」では、これらの「間違い」は、ジャン・ヴァルジャンが若い金持ちそうな青年を殺害したと告発しに来たテナルディエによって明らかにされる。その上、「殺害された青年」はマリウス自身であり、ジャン・ヴァルジャンはマリウスを命がけで救助していたのだということが、マリウスがとってあった上着と、テナルディエが殺人の証拠として持ってきた切れ端が符合することによって完全に証明されてしまう。ここに至り、ようやくジャン・ヴァルジャンはすべての名誉を回復する。マリウスはコゼットを連れて馬車を駆り、ジャン・ヴァルジャンのもとに駆けつける。が、ジャン・ヴァルジャンは、コゼットに会えなくなった落胆から、無情にも臨終の時を迎えていた…。
極度の闇、極度の曙
このことが示唆することはもはや明らかであろう。物語は物語らしく、偶然にも真実を伝える使者が、テナルディエという変装した悪魔の姿形をして現れ曙をもたらした。しかし、現実では、そんな都合のよいことは期待できない。
であれば、無情社会を産まないためには、必要に応じてすべての事実を明らかにし、名誉回復する手段を備えなければならない。現在のインターネットはこれを欠いている。
こうした名誉回復の手段や、名寄せの被害を抑える仕組みなどは、技術的手段だけでは実現できないし、制度的な手段や、人々の教育を通じた社会的な手段だけでも実現できない。技術・制度・教育がそれぞれ手を携えて、バランスよく進めることのみで実現できる。そうすることによってのみ、皆が安心して便利に使える環境が手に入るのである。
今年は日本では「国民ID制度」が、アメリカではNS-TIC(信頼できるサイバースペース上のアイデンティティに関する国家戦略)が大きな進展を見せそうである。これらの制度が、技術・制度・教育の対策をバランスよく進め、われわれに曙をもたらしてくれることを祈念してやまない。