といったものになってしまいます。
しかし、この対策は
- これまでも自分なりに「ちゃんとした文章」のつもりだったのでは?
- 「ちゃんとした文章」で無いことを、その時点で自覚することは可能なのか?
- そもそも「ちゃんとした文章」とはどういう文章のことなのか?
といった点で、如何に実質無策であるかがわかるのではないでしょうか?
世のビジネス書が「目標は明確に」と主張するのと同じように、失敗防止の対策を講じようとする場合、具体的でなければ意味がないのです。
しかしその一方で、「ちゃんとした文章を書く」という対策を具体化しようとすれば、あまりにも雲を掴む様な漠然とした話ですから、早晩行き詰るのが落ちです。
確かに「ちゃんとした文章」を定義することは非常に難しいですが、「駄目な文章」を定義することはそれほど難しくありません。なぜなら、今まさに問題点が指摘されている研修者自身の文章が、
紛れも無く駄目な文章の例なのですから、指摘された失敗の防止策を考えればよいのです。
局所最適に陥ってしまう可能性もありますので、このアプローチが常に妥当とは限りませんが、少なくともスキルレベルがあまり高くないうちは、比較的効果のある方法だと思います。
たとえば弊社では、研修者の文章に対して、以下のような問題点を徹底的に指摘するようにしています。
- 理解している単語で書かれているか?
- 理解している述語で書かれているか?
- 主語と述語の対応は整合性が取れているか?
- 修飾・披修飾の関係に紛らわしさは無いか?
- 直前までに書かれた内容との不整合は無いか?
こうやって列挙すると、極めて基本的なことですが、「ちゃんとした文章」が書けない人は、そもそもこの水準ですらクリアできていません。
しかし、上記のような点を繰り返し指摘されることで、「ちゃんとした文章」「駄目な文章」という漠然としたものではなく、具体的な問題点が見えてきますから、次第に「失敗」を防止するための対策が立てられるようになるわけです。
もちろん、必ずしもすべての人が「対策を立てて実践」できるようになるわけではありません。
たとえば「主語と述語の対応関係の不整合」を繰り返し指摘された際に、個別の指摘そのものは理解できても、それらの指摘を「主語と述語の対応関係の不整合」という一段抽象的なレベルで把握できるようになるまで、非常に時間を要する人もいます。
「駄目な文章(or ちゃんとした文章)」(抽象度:高)と、個々の具体的な指摘事項(抽象度:低)の両極端な抽象度でしか捉えられない人もいるかもしれません。
あるいは、あまりにも基本的な点を指摘されていることに対して、その事実を認めることができない人もいるでしょう。仮に指摘された事実は認めても、「そのうち自然に解消される」と(根拠無く)楽観している=過剰な想定達成率を期待しているような人もいると思われます。
このような場合、前回述べた心理的な問題を直視しない限りは、早々に過剰な落胆に見舞われてしまいます。
そういう意味では、基本的な点を指摘されていることを認めた上で、「ちゃんとした文章を書けなくても良い」という覚悟の元で「面倒な対策は実施しない」という判断を下す方が、幾分かはマシと言えるでしょう。
もっとも、大概の場合は「覚悟を決めている」のではなく、「そのうち自然に解消される」ことを期待している(あるいは起死回生の一発逆転策が無いか探している)場合の方が多いと思います。
このような状況において、どのように対処すればよいかは、正直なところ筆者もよくわかりません。
少なくとも、「ロジカルシンキング」のような思考方法を習得する、といった「技術的方向」と、前回述べたように「隠れた才能の発現願望」を捨てる、といった「心理的方向」の両方からのアプローチが必要なのではないか、と筆者は考えています。
実効性 ~ 確実な手段の選択
ある程度まで具体性のある対策を立てたなら、今度は対策の実効性を高める必要があります。
たとえば、前ページの「駄目な文章」防止策の中から、「主語と述語の対応の整合性が取れているかを確認」する防止策を選択したとします。
しかし大抵の場合、この防止策はあまり効果を発揮しません。
ここで「失敗学なんて役に立たない!」と言うのは簡単ですが、実は防止策が効果を発揮しないのは、「確認する」という方針ではなく、確認の方法に問題があることがほとんどです。
上記のような防止策が手抜かりだらけになるのは、多くの場合、確認が「目視」でしかなされないからです。
そもそもこのような防止策を立てる必要があるのは、主語と述語の対応の整合性を取る能力が不十分なためなのですから、そのような状況で「目視」確認をすれば、問題を見逃すのも当然です。
別な言い方をするなら、主語と述語の対応の整合性を取る能力が不十分な状況であるにもかかわらず、「目視で確認できる」という思い込みを持つのは、自分の能力に対する過信以外のなにものでもありません。
それでは、どうすれば確認を確実なものにできるでしょう?
確認しているのかしていないのか、本人にも判然としない「目視」という方法に依存しているのが問題なわけですから、確認していることが明らかになる方法を用いれば良いのです。たとえば、「主語と述語に下線を引き、更に矢印で結ぶ」という作業をしてみるのはどうでしょう?
この方法なら、「線が引かれていない」=「確認していない」ですから、防止策の実施状況も簡単にわかります。
筆者の経験では、整合性が取れていない旨の指摘を、指摘された当人が理解できないケースは滅多にありません。つまり、最初から主語と述語の対応に整合性を取ることができなくても、見直しの際の見落としを防げるならば、大抵の人が失敗を回避することが可能なのです。
失敗防止の対策を立てようと大上段に構えると、自分の頭の中だけで解決しようとしがちです。結果として、ついつい「良く見直す」といった精神論的な防止策に流れかねませんが、それでは失敗を防止することはできません。
頭の中だけでは解決しないなら
- 手を動かす(線を引く、塗りつぶす、図を描く)
- 声を出す(他人と話す)
- 時間で区切って行動する
といった選択肢も視野に入れる柔軟性が必要です。
失敗の原因とは?
ここまで述べてきた具体性・実効性を高めるアプローチで、失敗防止策を幾つか講じてみれば
それ1つだけを解決することで、全ての失敗を防止できるような、根源的な失敗原因などというものは無い
ということがわかると思います。
ひょっとすると哲学的な領域では既知のものなのかもしれませんが、少なくとも我々が日常的に利用可能な失敗防止策のレベルでは、そのようなものは存在しません(ご存知の方はコッソリと筆者にご教授ください)。
結局のところ、「小さな失敗」の積み重ねが「結果としての失敗」を招いている(失敗学ではこれを「失敗は成長する」と言っています)わけですから、「小さな失敗」を小さなうちに解決してしまうのが、最も確実な解決策なのです。
そういった意味でも、本稿冒頭で示した「防止策を考える(掘り下げる)ことから始める」というアプローチは、比較的取り組みやすいのではないでしょうか?
なお本稿では、失敗防止策の具体性・実効性を改善するアプローチの例を示しましたが、これはある意味で:
対策の具体性・実行性が高くなければ、対策実施者は失敗を防止することができない
という、非常に「悲観的」な発想に基づいています。
昨今はポジティブシンキングがもてはやされる風潮にあるようですが、楽観的に考えることと、現実から目を背ける・失敗の可能性を無視することは違います。
確かに「理由は無いが、全ては上手く行かないに違いない」といった「情緒的な悲観」は困りますが、「具体的・論理的な悲観」の能力は、事前に失敗を防止する上では欠かせません。
また、「楽しむことが重要」とか「一心不乱にやっていれば上達する」と主張する人も少なくないでしょう。
物事に取り組む際の心の持ち様はそれでよいと思いますが、初めて取り組む大抵のことは(多かれ少なかれ)「失敗」するのですから、最初から「楽しさ」を期待するような言説には、筆者個人としては少々違和感を感じます。
必ずしも成果を出さなくても良い(=失敗しても構わない)、たとえば完全に「趣味」に類することであれば、「楽しさ」優先でも良いでしょう。
しかし筆者個人としては、時間もお金も才能も持ち合わせていない身ながら、どうせやるなら趣味であっても上手くなりたいですから、効率を上げられるなら、せめて頭ぐらいは使いたいと思うのですが、皆さんはいかがでしょうか?
参考資料紹介
失敗原因の掘り下げには、ロジカルシンキング的なアプローチが有効なのでしょうが、残念ながら筆者はそちら方面の情報には疎いため、今回紹介するのは、事例で取り上げた「文章作成」での失敗原因の掘り下げに役立つ書籍です。
「理科系の作文技術」
「文章力」というと、誰もが情緒的な記述力を連想しますが、技術系文章に限るなら文章力は単なる技術である、という視点から、如何にして妥当な文章を書くかを解説したのが『理科系の作文技術』です。
前回も述べましたが、この書籍からも「才能の出番は案外少ない」ということがわかるのではないでしょうか。