今回は、会社がどう生まれどう変化してきたか、日本の雇用のしくみがなぜ独特なのかを見てみます。
雇用が生まれるきっかけ
今のような大勢の人が集まって仕事をする雇用のしくみが生まれたのには、イギリスを中心とした産業革命が関係しています。
スコットランドのエンジニア、James Wattが、1769年に従来のものよりも使い勝手の良い蒸気機関を発明しました。これに代表されるいろいろな技術の発展によって、家庭内で手作業で製品を作るよりも、製造のための「装置」がある工場に集まって仕事をするほうが生産効率が良い状態が生まれたのです。
イギリスはゆっくり大企業化
イギリスは1850年ごろには「世界の工場」と呼ばれるようになりました。しかし意外なことに、大部分の企業は従業員が200人程度で、1~2個の工場があるだけ。1,000人を超えるような大企業は一握りにすぎませんでした[1]。イギリスでは100年以上かけてゆっくりと大企業化が進みました。
日本は一気に大企業化
一方日本では、1,000人を超える大企業が1920年の時点で57社もありました[2]。日本の大企業化は、1853年のペリー来航からたったの70年で進んだわけです。
速い大企業化は人材不足を生む
そのことで日本に発生した問題が、採用コストの高騰です。イギリスでは、都市部への人口の集中や、交通網の発達、人材市場の整備などが並行して起こりました。しかし日本ではそれらの変化が追いつきませんでした。
都市部への人口集積が進むよりも速く工場の規模が大きくなり、何十社もの大企業が労働力を奪い合いました。都市周辺の人だけでは足りません。そこで都市から遠く離れた地域へ出向いて、労働者を集めるようになりました。
年々採用コストは高くなっていきました。もっと効率良く採用する方法が必要です。この時期、小学校の卒業と同時に採用し社内で教育する、今の「新卒採用」のようなことが行われるようになりました。
人材の奪い合いが起きた
新しい労働力を見つけるコストが高いと、何が起こるでしょう? 新しく見つけるのではなく、他社で働いている人を転職させるようになります。今でも、高い給与を提示して他社からエンジニアを引き抜く話はよく耳にしますね。
1904年の農商務省の調査で、紡績工のおよそ半分の人が1年未満しか勤続していないという結果が出ています[3]。また、のちにカネボウとなる鐘淵紡績の1912~1919年の報告書によると労働移動率が60~100%と高く、たとえば1912年上期だと、前期末に1万6,695人いた紡績工のうち6,226人もが会社を辞めています[4]。雇っても雇ってもすぐやめてしまったわけです。
転職させないしくみ
企業の側としては、コストをかけて採用や教育をした人が辞めてしまうのは損失です。
そこで、企業はいろいろな施策を打ち出しました。逃げられないようにバス停に見張りを置くなどの、今の感覚ではどうかと思うものもありました。また鐘淵紡績では、1910年までに今で言う託児所や病院、花嫁修業の場、生活品を安く供給する共済組合などが作られました[5]。
この時期に発明されたのが、勤め続けると給料が上がるしくみです。当時の紡績女工の給料は出来高制でしたが、作った糸の量ではなく、そこに品質係数をかけて出来高が決められるようになりました。この品質係数は、長く勤めると上がっていくしくみでした。今で言う年功序列ですね。
日本企業は、雇用の流動性を下げるために知恵を絞ってきたと言えるでしょう。
欧米での雇用流動性
一方、ヨーロッパやアメリカでは日本ほどの急激な人材不足が起こらず、雇用の流動性を下げる必要も生まれず、労働市場が発展しました。
その結果、欧米では雇用の流動性は高くなりました。しかし、すべてが高かったわけではありません。専門性を必要としない「非熟練」、専門性が必要な「熟練」、どちらでもない「半熟練」の3つの層に分けてみましょう。
熟練が必要ない「非熟練」の場合、企業が労働力を欲しいと思ったときには労働市場で容易に入手できます。そのため、いらなくなったらすぐに解雇します。専門性が必要な「熟練」の場合は、その貴重な専門性を多くの企業が欲しがるため、労働者が働き先を欲しいと思ったときには労働市場で容易に入手できます。そのため、辞めたくなったらすぐに辞めます。この2つの雇用流動性は高いわけです。
一方「半熟練」の場合は、流動性が低いです。半熟練層の仕事では、特定の企業でしか通用しない「文脈」を習得することが必要です[6]。そのため、企業は労働力が必要になっても容易に入手できません。また労働者の側も、転職すると習得した「文脈」が無価値になるので、容易に転職できません。お互いにとって長期的雇用を続けることが有用なわけです。
1867年『資本論』
ここで少し時代をさかのぼってみましょう。イギリスが世界の工場になった少しあと、1867年にKarl Marxは「資本主義を続けると、格差が拡大して労働者による革命が起こる」と『資本論』で主張しました。なぜでしょう?
この時代、工場の「装置」を買うことがとても大きな生産性向上の手段でした。今まで家庭内手工業をしていた人が工場に働きに来るのはなぜかと言うと、そちらのほうが稼ぎが良いからで、それはなぜかと言うと、工場で働くほうが単位時間で製造できる製品の量が多いからです。
ところが、この装置はとても高価で、お金をたくさん持っている「資本家」しか買うことができません。資本家はお金で装置を買い、それを労働者に貸し出すことで、労働なしにお金を得ることができます。Marxはこれが搾取であり、これを続けると資本家と労働者の格差が広がると考えたわけです。
1991年「ソビエト連邦崩壊」
このMarxの意見が正しいと考えたロシアでは、1917年に革命が起き、資本主義をやめてソビエト連邦が作られました。資本主義を継続したアメリカと、どちらのアプローチが成功するか、世界中の多くの人が注目しました。
そして1991年、アメリカで暴力革命が起きるより先に、ソビエト連邦は崩壊してしまいました。Marxの主張のどこに穴があったのでしょう?[7]
知識という新しい資本
この問題に一つの解答を出したのが、アメリカの経営学者Peter Druckerです。
Marxの考えた「資本」は、市場で商品として取引できるモノのことでした。これはたしかに格差が拡大しています[8]。しかし「知識」は、市場取引ができないので資本には含みません。
労働によって得られたお金は資本家に蓄積されますが、知識は労働者に蓄積されます。お金で装置を買うことで生産性が向上するのと同様に、知識を得ることでも生産性が向上します。知識による生産性向上の効果が大きくなると、相対的にお金の価値が下がります。
Druckerは、これがMarxの予想が外れた理由だと考えました[9]。彼は知識を新しい資本だと考え「知識資本」と呼んでいます。
知識資本が促す雇用流動性
具体的に考えてみましょう。あなたが仕事に使っているPCなどの装置と、あなたの頭の中にあるプログラミングに関する知識と、どちらがあなたの仕事の生産性を上げる効果が大きいでしょうか? 多くの人は後者だと思います。
お金で買える「資本」より、時間をかけて学んだ「知識資本」のほうが、多くの人にとって価値が高いわけです[10]。
ソフトウェア技術者は、企業で働くことによって自分の中に知識資本を蓄積し、市場価値を高め、転職に有利な立場を得ます。企業の側からすると、成長した技術者が辞めてしまうのは損失です。長く勤め続けてくれるしくみづくりが必要です。
おや、これはどこかで聞いたような話ですね。まるで一昔前の日本の紡績業界のような状況です。
社会資本を重視する企業経営
イギリスの経営学者Lynda Grattonは、雇用の流動性が高いことは労働者の間の「社会的つながり」を失わせると指摘しました[11]。
この「社会的つながり」は、お金でも知識でもないけれど、それらと同じように生産性向上の効果を持っています。チームワークによる生産性向上です。彼女はこれを「社会資本」と呼んでいます。
彼女は、企業は社会資本の構築に努めることが重要だと主張しました。社会資本は、お金や知識と違って、企業や労働者が自分のものにできない資本だからです。
労働者は転職すると社会資本を失い生産性が下がるので、転職に消極的になります。また、企業も労働者を解雇すると社会資本を失い生産性が下がるので、解雇に消極的になります。関係を切ると壊れる資本なので、どちらかがどちらかを搾取できないというわけです。半熟練の雇用流動性が下がる構図とよく似ていますね。
たとえば、クラブ活動を推奨する企業があります。これはなぜなのでしょう?クラブ活動を通じて異なる部署間に社会的なつながりが作られます。これが会社にとって有用なのです。
日本的経営への回帰
社会資本重視への流れは、日本人にとってみれば日本型の「社員は家族」という経営に戻ろうとしているようにも見えます。一方で、似てはいるけれども周囲の状況は変わっており、過去の形に戻るのとは違うようにも見えます。らせん階段のように、似たパターンを行き来しながら進んでいるのかもしれませんね。