海外企業との提携は難しくない
1年後、米田の会社の平均月商は2,000万円近くになっていた。固定的にかかるコストは、人件費がもっとも大きく、次いで原稿料(海外機関との提携費用、翻訳費用含む)である。経常利益率は、30%前後。月によっては50%近くになることもある。購読料を前払いにしているため、キャッシュフローは健全どころか、常に現金が潤沢にある状態になっていた。
法人向けの需要は半年くらいで一巡して伸び悩んだが、個人向けサービスの顧客が予想外に拡大していた。もともと広報業務は、大手企業くらいしか専任の担当を置いていなかったが、ソーシャルネットワークの活用をはじめとする各種活動が盛んになってきたために、規模によらず重要性が増大してきた。その流れは、当然個人で活動している自営業者にも及んだ。企業向けの広報業務支援はすでにさまざまなものが存在していたが、個人向けの手軽なものはなかった。大手企業なら情報からサポートまで一括して依頼できるだろうが、個人では無理だ。有用な情報だけもらって、安価に自前でやりたいと思う。米田の情報サービスは、個人でも手軽に利用できる、唯一のものだった。
特に人気があったのは、海外情報だ。広報活動をサポートするWebサービス、効果測定サービスなど、海外の最新ツールの情報を米田のサービスを通じて入手して利用することができる。中には有料のサービスもあり、米田はそこにアフィリエイトを設定し、さらなる利益を確保した。
「海外企業との提携」というと難しそうに聞こえるが、そこが米田の付け目だった。メデューサデザインで海外と直接やりとりしたこともある米田は、考えられているよりもはるかにハードルが低いことを知っていた。特にネットサービスの企業は、話が楽だ。拙い英語で「そちらのサービスを翻訳して、日本で紹介したい」と伝え、「ライセンス料や利用規程が決まっていれば教えてほしい」とメールするだけである。多くの場合、すぐに返事が来る。自動翻訳を駆使して相手のメールを読み、返信する。数回やりとりすれば、それで契約成立になる。もちろん、返事が来ないこともある。数回催促し、それでも返事が来なければ諦める。条件交渉などタフそうなイメージがあるが、米田は交渉らしい交渉はしたことがなかった。相手が金額を提示し、自分の希望をカウンターで伝える。相手がそれを飲むか、さらにカウンターの提案を出してくる。たいていはそれで決定だ。べらぼうな金額をふっかけられて難航することなどなかった。
B2Bコンテンツ事業の3つの柱
米田の想定していたB2Bコンテンツ事業には、大きく3つの柱があった。法人向け販売、個人向け販売、そして付帯事業だ。投資型の経営スタイルであれば、全部いっぺんに立ち上げることも可能だっただろうが、米田は手堅く1つずつ立ち上げていった。
まず、法人向け販売を立ち上げた。この時点では大きな利益を上げることは考えておらず、事業の基盤を確立することに注力した。続いて、個人向けの販売を立ち上げた。当初から「法人向けの販売を補完するもの」と考えていたが、予想以上の成長を見せた。しかも、ほとんど同じコンテンツを使えるので、利益率は向上した。
法人向け販売と個人向け販売で十分な顧客ベースを確保した後に、米田が「利益率向上の切り札」として考えていたのが、付帯事業だ。セミナー事業、資料販売など、高付加価値の商品を限られた顧客に売る。コンシューマー向けの事業とは異なり、数千の顧客ベースがあれば、数十人のセミナー参加者、資料購入者を期待できる。単価が5万円から20万円の高付加価値商品ならば、その数で十分な利益が見込める。
米田は「最終段階の付帯事業を開始するまで、もう少し」という手応えを感じ始めていた。
予期せぬキャッシュ不足
毎月売上と利益は伸び、スタッフもさらに増員して8名になった。「順風満帆」という言葉がぴったりの状態だったが、そんな時、鳴瀬が突然「退社したい」と言い出した。体調を崩して、入院が必要になりそうなのだという。業務のことを知っている経理マンはなかなか見つからないので手放したくはなかったが、病気とあっては仕方がない。「精密検査のための入院が必要」と言う鳴瀬のために、すぐに退職を許可した。税理士の加藤の事務所から人を派遣してもらって当面をしのぎつつ、新しい経理担当の募集を始めた。
幸いに、すぐに適任者が見つかった。一般公募ではなく、税理士の加藤からの紹介だ。以前加藤の事務所にいて、出産と育児のために3年ほど休んでいた女性が、子供も手が離れてきたので、無理のない範囲で働きたいのだという。「米田さんの会社なら、さほど経理は忙しくないはずなので、ちょうどいいのではないか」と、加藤はその女性を紹介した。
その時、米田は嫌な感じがした。前任者である鳴瀬は、いつも忙しそうにしていた。残業も多かった。だが、加藤の話では、そこまでの業務量はないそうだ。加藤は現場の状況を把握していないから、煩雑さがわかっていないので、鳴瀬の忙しさが理解できないのかもしれない。働く時間に制限のある女性は不安ではあったが、一般公募でまったく知らない相手を雇うのと、すでに加藤の事務所で一定の力があることのわかっている人物を雇うのとでは、やはり後者のほうが安心だった。背に腹は代えられない。米田は、その女性、田村を雇うことにした。
田村は数日でネットコンテンツサービス社の経理の仕組みや処理方法をマスターし、必要な仕事を時間内に終わらせるようになった。米田はその優秀さに舌を巻いた。
「いつもよくやってくれてありがとう。でも、無理はしなくていいんですよ」
ある日、認印をもらいにやってきた田村に米田はそう言ってねぎらった。
「え? いや、もともと業務量が少ないですから、気にしていただくほどのことじゃないんですよ」
「加藤さんもそう言ってたけど、田村さんが優秀だからできてるんだと思ってた。業務量ってほんとに少ないの?」
もし加藤や田村の言うことが本当なら、鳴瀬はいったいなにをしていたのだろう?
「うーんと、あくまで加藤さんの事務所で働いてた経験で言うと、1人月ないです。7割くらいですかね」
「前任者は、かなり忙しくしていたんだけどね」
米田がそう言うと、田村は複雑な表情を浮かべた。
「……前任の方……あの……後でまとまったら相談しに行こうと思っていたんですが、いろいろおかしなことがあるんです」
「おかしなこと?」
「社長は、経理のことはわかりますよね?」
「ちょっとはね」
「ところどころ、ミスがあります。ポカミスではなくて、ちゃんとした仕分け方法を知らないために起きているようなミスです。そのミスをカバーするために、ほかのところでおかしな処理をしているんです。そのせいで業務量が増えていたんだと思います」
「具体的な例を教えてくれる?」
米田が言うと、田村は操作していたパソコンの画面を見せて、さまざまなミスを指摘した。最初は半信半疑だった米田も、実例を見せられて、ただならないこととすぐにわかった。
「最終的に、決算で加藤さんが手を入れてなんとかしていたと思うんです。でも加藤さんは、前任者の方に、おかしいって指摘はしてたはずです。何度も同じことされたら、手間がかかってしょうがないですもん」
「そうなのか。前任の鳴瀬さんからは、そんな話は全然なかった」
「話せない理由があったんです。だって問題はそれだけじゃないんですよ」
「どういう意味?」
「全部整理してからと思っていたんですが、この際だから話しちゃいます。200万円近くのキャッシュが不足しています。言いたくはないんですが、前任者が使い込んでしまった可能性が高いんです」
警察は相手にしてくれない
「な、なんだって?」
田村の言ってることが現実とは思えなかった。横領、使い込み……言葉は聞いたことがあるが、まさか自分の会社でそんなことが起きるなんて考えたことがなかった。「犯罪」「警察」という言葉が頭に浮かんだ。不安が頭をもたげてくる。
「あと2日ください。くわしい数字を整理してお渡しします」
「警察に届けないといけないのかな……」
「ムダだと思います」
田村は即座に答えた。こんなことは慣れっこという様子だ。使い込みにも動じる気配がない。
「200万円くらいだと、警察は相手にしてくれません。被害届は受理されるかもしれませんが、ちゃんと調べてくれないでしょうね」
「えっ?」
「せめて1,000万円くらいないと、人とお金をかけて捜査したがらないんだそうです。加藤さんの事務所のお客さんのところで、何回もこういうことがありましたよ。結局、泣き寝入りするか、自分で探すかのどっちかですね。経理担当者の横領って、やったもんがちみたいなところがあるんです」
「探しだしたら、200万円戻ってくるかな?」
「さあ……全部使ってたらダメでしょうね。紙を巻いて弁済させる手もありますけど……どうかなあ?」
「紙を巻く?」
「公正証書を作って弁済させるんです。知りません?」
「なにそれ?」
米田は田村から「紙を巻く」ことを教わった。弁済契約には弁済が滞った際に預金などを差し押さえる条項を入れるのだが、ただの契約では差し押さえるために裁判所命令が必要となり、手続きに時間がかかる。しかし、あらかじめ公証人役場で公正証書という書類を作っておけば、弁済が滞ったらすぐに差し押さえができるのだという。公正証書を作ることを「紙を巻く」と呼ぶ。
田村の説明を聞きながら、米田は妙にわくわくしてきている自分に気がついた。これはまさしく「知らなかったではすまない」知識だ。もしかしたら、新しいコンテンツになりうるかもしれない。自分で鳴瀬を見つけて「紙を巻いて」みたいと思ったが、探偵でもない自分にそんなことができるとは思えない。それにそんな時間もない。
企業は犯罪の宝庫
田村によれば、加藤なら失踪した社員の探し方も知っているというので、連絡してみた。だが、加藤は自分に訊くよりも、土屋に相談することを勧めた。土屋は「その筋」の情報に通じているし、なにより出資者なのだから知らせておくべきという意見だ。米田は気が進まなかったが、やむを得ず電話した。土屋は思いのほか鷹揚に応答してくれ、米田が全部話し終わるまで黙って聞いていた。
「その鳴瀬とかいう男を雇ったのは君だ。君が責任もって対処するんだ。いやまあ、実務は君の仕事だから、あくまでこれはオレのアドバイスだけどな」
土屋は話を聞き終わった後で、ゆっくりとそう言った。
「警察が対応してくれないそうですから、僕が探し出すか、僕がポケットマネーで弁償すればいいんでしょうか?」
「そんなこと、君が決めろ。君の会社なんだ。自分の頭で考えて、案を出せ。そしたら、反対か賛成か答える。安易に他人にアドバイスを求めるな」
「は、はい」
と言ったものの、鳴瀬の行方を見つける方法がわからない以上、打てる手は限られている。
「で、どう思ってるんだ?」
「僕の限られた時間をどう振り分けるべきかを考えると、この件は深追いしない方が得策と判断しました。この件でのマイナスを補ってあまりある利益を稼ぎ出せばいいわけでしょう」
米田がそう言うと、土屋はしばらく黙っていた。自分なりに正論だと思ったのだが、まちがっていたかもしれない、と不安になる。
「言ってることは正しいと思う。異論はない」
ややあって、土屋は答えた。
「ご理解いただき、ありがとうございます」
「でも、今回はダメだ」
「え?」
「君は『人を雇う』という意味がわかっていない。それを身にしみて理解してもらうために、鳴瀬を探し出して弁済させるんだ」
「僕が? そんなこと言われましても、どうやって探せばいいのか……そもそもそれは僕の専門ではないし、効率的でもありません。同じ時間を事業に振り向けたほうが会社にとってはプラスのはずです」
「さっきも言ったように、オレもそう思う。だが、一度はやっておかなきゃいけないことだ」
「なぜです?」
「企業に巣食う薄汚い連中とのケンカを体験しておくんだ。横領、詐欺からごね得を狙う社員まで、いろんな連中が君の足を引っ張るだろう。そういうやつらとケンカして勝たなきゃいけない。横領犯を探し出して、ケンカして、金を弁済させるんだ。ほんとに殴り合えと言ってるんじゃない。それくらいの気迫で追い詰めろってことだ」
「無茶です。いったいどうやって探せって言うんですか?」
「業者を紹介してやる。おそらく居場所は、たいして手間をかからずわかると思う。ただし、鳴瀬を締め上げて、金を返すように説得するのは君の仕事だ」
「ほんとうにケンカになったら、どうするんです? 相手は犯罪者ですよ」
「そんなはした金をねらうちんけな野郎とケンカして負けるようなヤツに金を預けた覚えはない」
「なんの根拠があって、そんなことを言うんです。ナイフで刺されるかもしれないのに」
「儲かってる会社、目立つ会社には、いろんなヤツが寄ってくる。いつナイフや拳銃を持ったヤツがやってくるかもわからないだろ。心の準備はしておけ」
「そんな……犯罪者とやり合うなんて、めったにないでしょ」
「おいおい、企業ってのは、犯罪の宝庫だ。どんな会社にも、必ず法律を犯しているヤツがいる。断言できる。いいからやってみろ。修羅場の数だけ強くなる。広報だって裏があるだろ。コンテンツのヒントにもなるぞ」
「刺されたらどうするんです?」
「刺されないようにしろ」
答えになってない。
「……」
冗談じゃない、というのが偽らざる感覚だった。こんなことで死ぬわけにはいかない。だが、その一方で土屋の言わんとしていることもわかる。不安な反面、やってみたいという好奇心も止められなくなくなってきた。殺されないように細心の注意を払って、追い詰めるしかない。
土屋は老舗の興信所の腕利きを紹介してくれた。そこに鳴瀬の資料一式を渡すと、いともかんたんに足取りや家族構成まで調べ上げてくれた。つかまえて「紙を巻く」なら勤務先にいる時がいい、とアドバイスされた。
紙を巻かせる
鳴瀬は秋葉原のパソコンショップで経理を担当していた。米田はある日の午後、その店を訪問し、鳴瀬を呼んでもらうように頼んだ。「手が離せないそうです」と応対してくれた店員は言ったが、会えるまで待つと米田が店頭で粘っていると、30分ほどして鳴瀬が現れた。
「ご無沙汰しております。あの、なにかご用なら、仕事が終わってからにしていただけませんか?」
鳴瀬は悪びれた様子もない。完全に開き直っている様子を見て、かっと頭に血が上ったが、ここで騒いでは負けだと思ってこらえた。
「鳴瀬さん、あなたのしたことはすべてわかっています。証拠は全部そろってます。今話をしてくれないなら、このまま警察に行って被害届を出します」
強い決意を込めて、低い声で言った。警察に行ってもムダなことはわかっているが、鳴瀬はそのことを知らない可能性もある。はったりをかましてみた。
「なんのことだかわかりません。なにか勘違いなさってるんだと思います。とにかく僕は、今はここの社員なんです。あなたの言うことを聞く必要はありません」
鳴瀬は、平然と答えた。ダメかと思ったが、ここで引くわけにはいかない。とにかく、相手にこちらが本気だということ、警察が動けば犯罪者として逮捕されることを思い知らせなければならない。
「それが鳴瀬さんの答えですか……わかりました。言っておきますが、これは犯罪ですよ。前科がつきます。それを承知で言っているんですよね」
「いやだなあ。そんなおおげさな話じゃなくて、単なる帳簿のつけまちがいでしょう。新しく来た経理の人がわかってないんだと思います。そんな風に言われたら、困りますよ」
鳴瀬は猫なで声を出すと、頭をかいてみせた。
「どちらの言っていることが本当なのかは、警察が判断して動くでしょう。鳴瀬さんは、そのまま仕事をしてていいですよ。後は警察にまかせます」
「困るなあ。痛くない腹を探られてもねえ。警察なんかがここに来たら、僕の信用がた落ちですよ」
「イヤなら、今話をしましょう」
「……わかりました」
鳴瀬がうつむいて答えた時、米田は勝ったと思った。なにか確証があったわけではないが、このまま鳴瀬に「紙を巻かせる」ことができると感じた。
喫茶店に鳴瀬を連れて行くと、鳴瀬は「勘違いです」「とにかく日程を調整してそちらにうかがいます」といったことを繰り返し、使い込みをしたことを認めようとはしなかった。
「わかりました。意図して使い込んだかどうかは別として。鳴瀬さんのために、わが社は200万円のキャッシュを失った。これは事実です。これから警察に行くか、それとも弁済するかを選んでください」
米田が強くそう言うと、鳴瀬はしばらく黙った。
「脅しですか? 弁済します、って約束すればいいんですか?」
鳴瀬は、ふてくされたようにそう言った。
「約束だけでなく、ちゃんと弁済してもらいます」
「お願いします。警察沙汰とか、横領とか、僕は新しい会社に移ったばかりなんですよ。これじゃ脅迫ですよ!」
「やましいことがなければ問題ないでしょう」
「問題ありますよ。あんたが来ただけでも、変な目で見られてるんだから」
「弁済してもらうまで、毎日でも来ますよ」
「……約束すればいいんでしょ」
鳴瀬は根負けした。さらに、公証人役場に同行させるよう説得できた。心の中で快哉を叫んでいたが、あくまでも顔は渋面のまま鳴瀬をにらみつけるようにしていた。
その時、米田はふと思った。いつの間に、自分は人の目を見ることが苦手でなくなったのだろう? 学生時代は人と目を合わせるのが苦手で、すぐに目をそらしていた。だが、今はじっと鳴瀬の目をにらみつけている。
横領事件は無事に解決をみた。終わってみると、土屋が言っていたように「犯罪」というものに対して、少し余裕を持って見られるようになった気がした。土屋の言ったひとこと、「企業ってのは、犯罪の宝庫だ」という言葉をヒントに、『広報マンのための、だれも教えてくれない悪魔の辞典』と題した記事のシリーズを開始した。さまざまな社内犯罪の実例を挙げ、解決方法と外部への告知方法を紹介する記事だ。広報の範疇を超えているかもしれないが、知っておいたほうがいい情報であることはたしかだ。
「転んでもただでは起きないヤツって好きだよ」
月次決算報告の時にそのことを報告すると、土屋は笑った。