『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第2話 The Human Centipede 2

和田は、宮内から内示を受けた日の午後に網界辞典準備室に荷物を持って移動した。フロアの北の隅にあるムダに広い部屋だ。半分が打ち合わせスペースで、ほとんどガラ空き状態。この場所は、社長のきまぐれではじまった萌えグッズ開発室があった場所。在庫を置くためにムダに広い部屋なのだ。

窓は広く渋谷の街を一望できる。ただし、円山町に面しているために、あまり景色がいいとは言えない。見たくもない修羅場や顔を伏せて歩くカップル、窓にシートを貼ったワンボックスカー、猥雑な渋谷の本性が垣間見える。

荷物を載せた台車を押して和田が部屋に入ると、3人がそこで荷物の整理をしていた。長身の美人、イケメン風の男性、それに白くぽっちゃりした大福だ。大福の性別は判然としないが、おそらく男性だろうと和田は思った。

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  • 「こんにちは」

和田は、大きくもなく小さくもない声でそう言うと、Tの字型に並んでいる机の一番えらい人が座る席に荷物を運び出した。それを見た3人が無言で顔を合わせる。ラノベから抜け出てきたようなメガネっ子キャラの和田が、自分たちの上司というリアルが、すぐには飲み込めないようだ。

  • 「室長代理の和田です。詳細は明日、ご説明しますね。あたしもさっき宮内さんから言われたばかりなんです」

和田は明るく笑顔で言おうかと思ったが、あまりそういう雰囲気でもないような気がしたので事務的な口調にした。

  • 「はあ……」

3人は気の抜けたような声を出すと、再び自分たちの荷物の整理をはじめた。

静かな人たちだな……社会適応能力は低そうだけど、と和田は思った。その時、どこかで小鳥の鳴き声のような音が響いた。iPadなどからツイートした時に出る音だと和田は気づいた。この微妙な空気をつぶやいたに違いない。

  • 「どなたか、ツイッターをお使いですか……鍵付きアカウントの中身やDMを見られてしまう脆弱性があるのでご注意になった方がいいと思います」

むやみやたらとソーシャルネットワークを使うんじゃない、とさりげなく警告する。

  • 「えっ……」

長髪の女性が声を上げた。和田は、ちらりとその女性の顔をながめる。iPadがちらりと見えた。ビンゴ。

  • 「私もそう思ってたところなんです……やっぱりそうでしたか……」

女性はそう言うと、聞き取れない小声でぼそぼそなにかをつぶやいた。Wi-Fiを脳で直接受信してしまう系の危うさがある。残りの2人の男性社員は聞こえないふりをした。

その日は、全員ほとんど言葉を交わすことなく、荷物の整理だけで終わった。⁠ヘイセイカタクリズム』をヘッドフォンで聴きながら、荷物を片付ける人たちを見るのは少しだけ異世界だな、と和田は思った。

翌朝、和田が少し早めに出勤すると、すでに女子社員が来ていた。長い黒髪の美しい細身の美人だ。昨日の挙動不審な女性と同一人物のはずだが、静かにしていると別人だ。

入り口に背を向けて腰掛けているせいか、和田が部屋に入ってきたことに気づいていない。挨拶しようとうすると、突然声をあげた。

  • 「誰も知っている人間がいないなんて素敵じゃないか。自由だ」

一瞬、どのような反応をすべきか和田は逡巡したが、あえて内容には突っ込まないことにした。

  • 「おはようございます。朝から独り言ですか?」

言ってから、これは皮肉っぽかったかな? と少し反省した。声をかけられた女性は、びくんとはねるように腰を浮かした。

  • 「お、お、おはようございます。聞かれていただなんて……私の好きな言葉です。私には言えないセリフですけど。しかたがないじゃないですか、他に人がいなかったんですもん」

この人はちょっと面倒な人かもしれない、と和田は思った。ごたごた言っているのはスルーしよう。

  • 「初めまして、和田です」

  • 「あ……倉橋です。おはようございます」

それから和田は席に腰掛けると、パソコンを立ち上げ、仕事の準備を始めた。

  • 「倉橋さんは、気を遣う性質ですよね」

和田がキーボードを叩きながら、話しかけると倉橋は落ち着きなく周囲を見回し、それからおもむろに口を開いた。

  • 「はあ。あまり遣いたくないんですけど……人に嫌われるのが怖いんです」

  • 「あまり気にしないほうがいいですよ」

  • 「私もそう思ってたところなんです……でも、時々気になって仕方がなくなるんです。そうなると自分でも止められなくなって、ハッキングしてしまうんです」

  • 「え? どういうことですか?」

和田が驚いて手を止めた。

  • 「私の悪口を言いいそうな人のパソコンにあらかじめバックドアを仕込んであるんです。メールの内容をチェックします」

  • 「そんなことしてるの?」

  • 「就職した時からやってます。今年で4年目になります」

  • 「レッドオクトーバー作戦みたいね。でも、誰も悪口なんか言ってないでしょ」

レッドオクトーバー作戦とは、2013年1月14日にロシアのカスペルスキーラボが暴露した秘密作戦だ。2007年から始まったこの作戦は、世界各国の政府機関、民間研究機関、エネルギー事業者、航空宇宙業界など重要分野の重要人物をターゲットとして情報を詐取。日本もターゲットとなっていた。

  • 「……表向きはそうです。きっと私に盗聴されていることに気づいて、こっそりどこか別のところでしてるに違いありません」

  • 「みんな、そんなに倉橋さんのこと気にしてないと思いますよ」

  • 「ネグレクトですか!? それは一番ひどいイジメです」

  • 「気にしすぎですってば。でも、あたしにハッキングのこととか話してよかったの? 秘密なんでしょ」

  • 「和田さんは、私の悪口言わないそうだから……裏切らないでくださいね」

そう言うと倉橋は、昏い目で和田を見つめた。軽く頭を振った拍子にばさりと前髪が落ち、顔が漆黒の髪に覆われた。貞子が生きていたら、こんな感じだったのかもしれないと和田は思った。だが、髪の隙間からのぞく大きな目は、和田にさらに危険なものを連想させた。伝説のカルト映画『ムカデ人間2』の主人公マーティンだ。12人の人間の口とお尻を連結して、ムカデ人間を作り上げた。発想はファンタスティックだが、ビジュアルは正視に耐えなかった。特にラストで下剤を飲ませて……そしたら妊婦が……

和田は連想を断ち切った。ここは神聖な職場だ。

  • 「そうありたいものです」

和田は目をディスプレイに戻した。その後も倉橋は黙ってじっと和田の横顔を見つめていたが、和田は気がついていないふりで仕事を始めたが、5分過ぎ、10分過ぎてもそのままなので、さすがにおかしいと思い始めた。和田が倉橋の方に目を向けると、視線は自分に向かっているわけでなかった。自分を通り抜けて、その向こうのなにかを見ている。

  • 「和田さんの横に、なにか見えるんですけど、もしかして私だけにしか見えていないんでしょうか?」

来た! と和田は思った。この人には私たちとは違うものが見えているに違いない。それでもいちおう和田は、倉橋の話をまともに聞いている風を装うために、振り向いてみた。後頭部を殴りつけられないかと不安を感じつつ。下手に逆らうと危険なことはコミケで学習済みだ。

  • 「見えてますよ」

倉橋の言う⁠なにか⁠を確認した和田は、少しほっとした。

  • 「……見えているのに平気なんですか?」

  • 「いつものことなので」

  • 「いつもなんですか?」

  • 「1日に1回か2回くらいですね。それぞれ十分くらいです」

  • 「毎日、あんなことしてるんですか?」

  • 「はい」

  • 「なぜ平気なんですか?」

  • 「実害ありませんから」

和田は、そう言うとパントマイムをしている舞夢に視線を移し、軽く微笑んで見せた。

  • 「わからない……私には和田さんがわからない。私なら怖くて発狂してしまいます」

  • 「そっちのほうが怖いです」

この人は自分の狂気にまだ気がついていない。和田はパソコンの業務日誌に「倉橋さんは、自覚なき問題児」と書いた。ほんとうは「きょうじん」と書きたかったのだが、変換できないのであきらめた。

(つづく)

今週登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • 「誰も知ってる人間がいないなんて素敵じゃないか。自由だ」
  • 「ツイッターの脆弱性 鍵付きアカウント DM 中身丸見え」
  • 「ヘイセイカタクリズム」
  • 「レッドオクトーバー作戦 日本もターゲット」
  • 「ムカデ人間2 マーティ」
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

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