『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第5話 Fido

最後の室員、篠田宰(しのだつかさ)が現れると部屋が静まりかえった。篠田は他のメンバーの反応に全く気づいていない様子で自分の席に向かって歩いてくる。どこからともなく、⁠恋は1970』のメロディーが出囃子のように流れる。体内にアドレナリンが分泌され、自分の身体が匂い立つのを和田は感じた。

  • 「ゴーストバスターズの方ですか?」

歪莉が篠田にナイスな突っ込みを入れた。

  • 「は?」

篠田はわけがわからないという表情を浮かべ、背中に背負った巨大な銀色の背嚢を床に下ろす。ゴーストバスターズの備品にしては、銃がついていない。

  • 「篠田さん、遅刻ですよ」

和田が冷静な声で言うと、篠田は頭をかいて人なつっこい笑顔を見せた。

  • 「通信装置を外すの手間取りまして、すみません」

そう言うと、床に置いた銀色の背嚢を指さす。

  • 「通信装置?」

全員が同時にオウム返しした。

  • 「ええ、MIT HackFestでジェイコブ・アペルバウムがお披露目したものをブラッシュアップした衛星通信装置と匿名化サーバです。私はこれしか使いません。日本のプロバイダの回線なんて怖くて使えません。アメリカと日本政府に盗聴されてるに決まってます」

和田は篠田が、陰謀大好き人間だったことを思い出した。篠田は和田と同じく社長室の人間だ。

  • 「じゃあ、社長室にいた時もそれで通信してたんですか?」

  • 「ええ、ロッカーに隠してました」

  • 「通信費用が大変でしょう」

  • 水野が言うと篠田はにやりと笑った。数年間、篠田と同じ部署にいた和田も見たことのない笑顔だ。

    • 「海底油田基地の回線を借りています。2013年2月13日にHouston Chronicleにスクープされてしまいましたから、もう秘密ではないでお話ししましょう。海底油田基地は海上にありますから、必然的に衛星回線を利用してすべての通信を行っています。ここのシステムはマルウェアに対して無防備です。アンチウィルスソフトすら導入していませんでした。暴露記事が掲載されたので、今はアンチウィルスソフトが導入されていますが、それくらいでは防げません。多くの海底油田基地は今でもマルウェアに感染しており、クローンの通信装置を使って数多くの人間が衛星回線を無償で利用しています」

    • 画像

      立派な犯罪だ。きょうじんと死人と犯罪者……スリーカードがそろった。これに舞夢と内山のシュールなぽっちゃりコンビを足すとフルハウスになる。和田は心の中でため息をついた。他のメンバーは全員、あっけにとられて篠田を見つめている。人の良さそうな中年男性と今の衛星回線の話が重ならないのだ。

      • 「几帳面な篠田さんらしい素敵なエピソードですね。新しい部門の発足に当たり、みんなで自己紹介していたんです。お願いできますか?」

      • 和田は篠田の話をまるまるスルーした。篠田は一瞬不服そうな眼差しを和田に向けたが、すぐに気を取り直して咳払いした。

        • 「ごほん。和田さんと同じ社長室にいた、篠田宰です。とくに言うべきことはありません。よろしくお願いします」

        • 「篠田さんは、社内随一の温泉好きで、⁠日本秘湯を守る会』の加盟温泉をほとんど回ってらっしゃるんですよね」

        • 和田はわざと陰謀論とは結びつかない話を振った。

          • 「ほとんどではありません。加盟温泉188のうち、101を回っただけです」

          • 「それでも十分すごいです」

          • 和田が言うと、歪莉が首が折れそうになるくらいの勢いでうなずいた。

            • 「私もそう思ってたところなんです」

            • 「⁠⁠私もそう思ってたところなんです⁠というのは、倉橋さんの口癖ですね。私の観察では1日に10回以上、その言葉を口にする。強迫観念の一種だと思いますので、注意したほうがよろしいですよ」

            • 「えっ……やっぱり、おかしいですね。私もそう思ってたところなんです……また言ってしまいました。てへぺろ」

            歪莉がそう言って舌を出した。フォローのつもりらしいが、あまりの痛々しさに誰も笑えない。しばしの沈黙は、歪莉にとって針のむしろ。歪莉は不安で泣きそうになった。妄想と絶望の淵を映す瞳に、昏い涙が浮かんでいる。

            • 「ははははは」

            しかたがないので和田が乾いた声で笑うと、他の室員も渋々乾いた声で笑った。もちろん逆効果だった。

            • 「……生まれて、すみません」

            歪莉はそう言うと、立ったまましくしくと泣き出した。辛気くさい。メンバー全員、あきれた表情になる。

            • 「それは、昭和12年に発表された太宰治の『二十世紀旗手』の副題ですね」

            篠田が歪莉のセリフを解説した。それが合図だったかのように、みなが勝手な行動を始めた。内山計算は、またタブレットを叩き始め、水野は物憂げなイケメンポーズを決めた。歪莉は、⁠お母さん、ごめんなさい」とつぶやきだし、自分の世界に入ってしまった。

            壊れた社会人の見本市。IT業界には壊れた人間が多い。まともな人間も数年業界にいれば、笑いや服のセンスが一般社会と大幅に乖離してくる。とはいえ欠陥見本市のような業界でも、ここまでしょうもない人間は珍しいと和田は感心した。来た甲斐があった。

            • 「皆さんは社内有数の異能者として選ばれました。他の人にはない特殊な感性とそれを形にする能力をお持ちだと宮内が見込んだんです。その異能力を生かして網界辞典を完成させましょう」

            和田の凛とした声が、空々しく響いた。誰も反応しない。歪莉は、おそるおそる涙に濡れた顔を上げて和田を見た。化粧の崩れたその顔は、昏い森から抜け出してきた妖怪のようだ。

            • 「まったくピンと来ていないようですね。具体的な業務内容をお知らせします。辞典に掲載する言葉について、その能力を生かした解説を作っていただきます。ひとりひとつ解説を作ってください。それを持ち寄って発表し、最も優秀な解説を辞典に採択します」

            和田が続けて言うと、水野がニヒルな笑いを浮かべた。

            • 「そんなことだろろうと思いました」

            水野が前髪を書き上げながら、アンニュイな雰囲気でつぶやいた。

            • 「水野さん、来週あなたが解説を発表してください。他の方も準備をしておいてくださいね」

            和田は、水野に人差し指をつきつけた。和田の大きな目が水野にぴたりと向けられる。同時にもわっと甘酸っぱい匂いが部屋いっぱいに広がった。もはや香水の効果はない。

            • 「は、はい」

            なんぴとも和田の目の威力からは逃れられない。水野は、気を呑まれた。はっとしたように他のメンバーも和田を見つめる。

            • 「詳細は追ってイントラネットに掲示します。個別の質問は、その後受け付けます。各人すぐに仕事にかかってください」

            和田は、そこでいったん言葉を止めた。

            • 「最初のテーマは、⁠ソーシャルネットワーク⁠です」

            (つづく)

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            • 『恋は1970』
            • Houston Chronicleが暴露した海底油田基地の脆弱性 邦訳記事はありません。海外では話題になりました。
            • 『日本秘湯を守る会』
            • 「生まれて、すみません」
            和田安里香(わだありか)
            網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
            年齢26歳、身長162センチ。グラマー眼鏡美人。
            社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
            倉橋歪莉(くらはしわいり)
            法則担当
            広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
            口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
            水野ヒロ(みずのひろ)
            網界辞典準備室 寓話担当
            年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
            受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
            内山計算(うちやまけいさん)
            網界辞典準備室 処理系担当
            年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
            ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
            コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
            篠田宰(しのだつかさ)
            実例担当
            年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
            社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。

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