『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第10話 『THE TOXIC AVENGER』“倉橋ちゃんのごきげんよう”~倉橋歪莉の自爆プレゼン、着ぐるみは平成の“ええじゃないか”

倉橋歪莉は、この数日というものほとんど眠ることができなかった。プレゼンの準備のためだ。作業で時間を取られているのではない。それ以前に、不安で怖くて何も手につかない。まだ全く準備できていないというのに、プレゼンは明日である。

いっそのこと窓から飛び降りて事故で欠勤しようかとすら思うほどだ。パソコンのフォルダはムダにたくさんできている。⁠プレゼン1」⁠プレゼン2」⁠プレゼン3」……いずれも途中まで書いて、これではダメだとやめたものばかり。

歪莉には和田の求めているものがわからない。篠田の発表には好意的に見えたが、同じことをやる知識が自分にはない。そもそもあれは危険思想だ。かといって当たり前の解説などしたら、どんな罵詈雑言を浴びせかけられるかわからない。

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考えれば考えるほど、自分を追い詰めるだけだ。すでに深夜3時、カチカチという時計の音が妙に耳に響く。

─⁠─ 時計の音? 秒針のある時計なんてないのに……

不思議に思った歪莉が音のしている方向に目を向けると、右手でシャープペンシルをノックしていた。何時間も気づかずにノックしていたようで、机の上には押し出された芯が何本も転がっている。そして、ノートには「小堺一機」という意味不明の文字が……。

─⁠─ なぜあたしは小堺一機なんて書いたんだろう?

小堺一機……『ライオンのごきげんよう』にはトラウマしかない。小学校のとき、あのライオンの着ぐるみを学校に持ってきた男子がいた。みんなでおもしろがって、⁠ごきげんよう』ごっこをやることになり、なぜか歪莉が着ぐるみを着せられた。小堺一機役の男子の後について教室に入ると、突然みんなに囲まれてぼこぼこに殴られた。⁠ライオンって殴ってみたかったんだよな」みんなそう言いながら逃げ惑う歪莉を捕まえて、ゲラゲラ笑いながら腹パンした。今でもあの時のことを思い出すと、苦痛と怯えで全身が震えだす。着ぐるみを見るとリンチを連想するおかげで、千葉の埋め立て地にあるネズミの巣窟にも行けない。もっとも誰にも誘われたことはないが……人生は儚い。しょせんは邯鄲の夢。

翌朝、曇天。歪莉は季節外れの黒いロングコートを羽織り、大きなボストンバッグを持って出社した。寝不足で顔色は死人のごとく蒼白。化粧はしておらず、血のように赤いルージュを唇に引いただけ。クマを隠すためか、狙撃手のように黒いスミを目の下に塗っている。ビアズリーの絵のような禍々しいオーラが漂う。雷神を斬って捨てたという、立花道雪もかくやと思うばかりの迫力だ。

毎朝歪莉に何か言うことにしている和田だが、その日は歪莉の周囲に漂う緊張感と殺気に声をかけることができなかった。他の室員も同様に見て見ぬ振りだ。空気を読めない水野が「おはようございます、倉橋さん」と声をかけたが、歪莉は何も言わずに壮絶な笑みを浮かべただけだった。見た者の感受性メーターを振り切る邪悪な笑顔。子供なら一生夢でうなされること請け合い。幸いに水野の鈍い感受性は、それすらスルーした。

果たして今日のプレゼンはどうなるのだろうと全員が不安と期待でいっぱいだった。

  • 「さて、時間になりました。本日のプレゼンは倉橋さんです。準備はよろしいですか?」

和田はつとめて事務的な口調で歪莉に話しかけた。

  • 「はい」

歪莉は答えると同時に立ち上がり、促されてもいないのに会場の会議室に向かった。あわてて他のメンバーも後を追う。

会議室に入ると歪莉は部屋の隅に自分のiPhoneを置き、何か操作した。突如、会議室のスピーカーから『エマージェンシー清水さん』が流れ出す。この会社の会議室はBluetoothでスピーカーと接続できるようになっている。

歪莉は羽織っていた黒いコートを脱ぎ捨て、会議室の正面、プレゼン位置に踊り出た。水着だか新体操のユニフォームだかわからない身体に密着したきわどい白のコスチュームが現れる。むき出しの白い両脚は、すらりと美しい。細いがバランスのとれた歪莉の肢体を目にした一同はどきりとした。

長い髪をまとめ、コスチュームにつながるフードをかぶると髪の毛は隠れ、顔だけが見えるようになった。

  • 「よい子のみんなは、元気かな? 今日も元気にソーシャルネットワークについてお勉強しようねえ」

病的に明るい声で歪莉が叫びながら踊り出した。完全にアドリブだが、サマになっている。キレキレのオリジナルダンスを披露する岡村靖幸を彷彿させる。

  • 「フェイスブックはY」

歪莉はそう言うと、両腕を斜め上に向けて伸ばし、両脚をぴたりと閉じ、全身でYの形を作って見せた。

  • 「グーグルプラスもY」

そのままの姿勢で続ける。

  • 「でも、ツイッターはT」

そう言うと、突如逆立ちして両脚を水平に広げた。突然のアクロバットに一同は息を呑む。見るからに運動音痴の歪莉にこんなことがでできるとは誰も思っていなかった。見ようによってはひどくエロティックでもある。下着をつけていないことを見て取った和田は危険なアングルを危惧したが、幸いすぐに歪莉は逆立ちをやめて普通に立った。

  • 「じゃあ、LINEは、何かな?」

異常なハイテンションを撒き散らす歪莉の笑顔の前に、誰も答えるものはいない。

  • 「みんな、わからないの? LINEはTなんだよ」

そう言うと再び逆立ちして両脚を広げる。見ている方は、わけのわからなさと、転倒するんじゃないかという恐れと、ぽろりがあるかもしれないという期待ではらはらどきどきだ。

気がつくと、いつの間にか古里舞夢が歪莉のうしろで踊っていた。いや、舞夢だけではない。見たことのない老人たちもよろよろしながら踊っている。よく見ると、老人ではなく開発現場に長年いたため若くして腰が曲がり、白髪になり、痛風を煩ってしまったSEたちだ。歪莉の踊りには、なんらかの思いを胸に秘めた人々を奮い立たせる力があるのかもしれない、と和田は思った。

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  • 「いったい、何が起きてるの?」

  • 「平成版⁠ええじゃないか⁠⁠?」

  • 「あれ、倉橋さんでしょ? 危なくない? ってか、すでにそういうレベルじゃないかも」

  • 「倉橋さんなの? 出雲の阿国かと思った」

会議室の扉が開けられ、廊下からたくさんの社員が歪莉のプレゼン(それはもはやプレゼンではなく、新手の暗黒舞踏と化していたが)を眺めていた。

普段の歪莉ならこんなにたくさんの人間に見られたら、臆して何もできなくなってしまう。だが、今日はむしろ喜んでいる。ノリノリだ。

和田はBGMの向こうに世界がきしむ音を聴いた。ここはすでに彼岸なのだと思う。今年のお盆休み、墓参りに行けなさそうだ。

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  • 岡村靖幸
  • ええじゃないか”
  • 「出雲の阿国」
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。

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