『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第18話 『ウルヴァリン』内部告発者は自己開発セミナーで人間改造。スノーデンさんもびっくり!? バージンシートを敷いた喪女は『バージンブルース』(戸川純バージョン)歌う

なぜ、こんなことになってしまっているのだろう? 倉橋歪莉は泣きそうになっていた。ここは歪莉の部屋。歪莉と水野は並んでベッドに腰掛け、テレビに映る映像を観ている。仲の良いカップルのように見える。しかし、テレビに映っているDVDの映像が進むにつれ、水野の表情は曇っていった。

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歪莉は水野の顔を横目で眺め、猛烈に後悔していた。会社のカフェで水野が総務に内部告発文書を送ったと聴いて、⁠良いDVDがあるんです。よかったら、今日一緒に観ませんか?」と言ってしまった。それを聞いた水野の顔が喜びに輝いたのを見て完璧に意図を誤解されたとわかった。だが、後の祭り。水野はロマンティックな映画を期待したに間違いない。だが、いまさらやっぱり止めましょうなどと言ったら、水野とロマンティックなときを過ごすのをいやがっているように思われそうだ。やれそうでやらせてくれないビッチキャラみたいで嫌だ。ビッチ呼ばわりされるのはネットの中だけで充分。それに歪莉だって水野とロマンティックな時間を過ごしたい。コミュ障乙女のアンビバレント。

後に引けなくなった歪莉は、会社を早退し塵ひとつないように部屋を掃除した。まんがいち陰毛でも落ちていたら即死級母艦ものだ。提督に陰毛を見られたら死ぬ。

歪莉は陰毛を生き物、虫のようなのだと考えていた。勝手にどこかからやってきて、いつの間にか居座っている。それも思いもかけないところに。冷蔵庫のミネラルウォーターのボトルの中に浮いているのを見つけた時は、なにかののろいではないかと思ったくらいだ。

掃除を終えると買い物に出た。そんなことにはらないと思いつつも、買ってきたビニールシートをベッドのシーツの下に敷いた。会社帰りに百円ショップに寄ったら売っていたのだ。⁠バージンシート 破瓜汚れを完全にシャットアウト」とでかでかとプリントされたシートを買うのは抵抗があったが、背に腹は替えられない。いやな汗を全身から垂れ流して買った。⁠私、この年になってもまだ処女なんです」とアピールするようなものを買わねばならない身の不幸を呪った。現実は無垢なものに残酷だ。

ベッドを整えると、シャワーを浴び、とっておきの勝負下着をつけた。あのDVDを見たら、そんなことにならないだろうと思ったが、乙女心は止められない。妄想と暴走を抑えられるようなら、とっくに喪女を卒業している。早く卒業して、⁠バージンブルース』を戸川純のキーで口ずさみたい。

そして……案の定、このざまだ、と歪莉は苦渋に満ちた思いで画面を見た。映っているのは、総務部が内部告発者を送り込んだセミナーの記録だ。社長の成田の肝入りで始まった自己開発セミナー事業……と言えば聞こえがいいが、要するに洗脳セミナー。社内の内部告発者や使い物にならない営業マンを送り込んでいる。秋葉原の駅前でプリキュアのテーマを大声で歌わされたり(たいてい大きなお友達が勝手にバックダンサーしてくれる⁠⁠、参加者全員から気に入らないところを罵られたり、参加者全員が納得するまで泣きながら命乞いの演技をしたりと精神攻撃の連続。さんざんサンドバックにした後で、不安定になった精神に社畜価値観を埋め込むのだ。日本企業はどこもかしかもネバーエンディング絶望ランド。

DVDが後半にさしかかると参加者の目つきが変わってきた。熱に浮かされたようになり、空回りする熱意を発散するようになる。やっている本人たちは盛り上がっているが、見ている方はひたすら寒くて怖い。内部告発者特有の、知的で少し斜に構えた雰囲気は失せている。それを観ている水野の顔から血の気が引く。知りたくなかったアメージング人間改造。

そしてクライマックスでは、内部告発者が自分の内部告発文書を参加者全員の前で破り捨て、⁠私は間違っていました」と懺悔するのである。CIAやNSAがこのセミナー導入していれば、スノーデンさんは内部告発しなかったかもしれない。

  • 「あ、あ、あのですね。ちょっと驚かせてしまったかもしれないですけど、どこの会社でも内部告発者ってこういう扱いなんです。私、総務にいたから少しだけ知っていて、それで、水野さんにもお知らせした方がいいかなあって」

歪莉はフォローのつもりで言ったが、水野は反応しなかった。未知なる恐怖にわしづかみされて、現実認識が逃避行動に入っている。

  • 「他社はもっとひどいんですよ」

歪莉はあせって他社の総務部からもらった内部告発者対策DVDを、テレビの横の棚から出した。DVDのパッケージは、いずれも禍々しい黒で塗られている。

  • 「ほら、この一部上場の会社さんなんか、家族を人質にとった上で本人にロボトミー手術受けろって言ってるんですよ。こっちなんか、水道水に覚醒剤をまぜて禁断症状おこさせてます。うちの自己開発セミナーなんか紳士的でしょう?」

歪莉の必死のフォローにもかかわらず、水野の顔色は悪くなるばかりだ。しかしなぜか、死にそうな表情の水野に歪莉はどきりとした。無個性で残念なイケメンの水野が、絶望という個性をまとって魅力的に見えた。

  • 「今年の春、内部告発した山崎さんが一家心中したのは、総務部に追い詰められたせいだったんだね」

水野は低い声でつぶやいた。

  • 「ち、違います。総務は自殺に追いやるなんてことはしないです」

歪莉はあわてて否定した。とんでもない勘違いだ。そんな事実はない。それを聞いた水野は、少し安心したように見えた。頬にわずかに血の気が戻る。

  • 「そんな面倒なことはしません。総務部全員で山崎さんたちを殺して一家心中に偽装したんです」

歪莉がそう言ったとたん、水野は、がたがたと震えだした。しまったと歪莉は唇を噛んだ。冗談のつもりだったのだが、滑ったようだ。

  • 「あの、私はやってませんよ。逃げてきた子供の頭を金属バットで叩いただけです」

これも冗談だったが、水野は目を大きく見開いて歪莉を見つめた。一瞬、ロマンティックな展開と誤解しそうになった歪莉だが、水野の瞳にありありと恐怖の色が浮かんでいたので、勘違いだとわかった。コメディホラーで磨いたユーモアセンスに問題があったようだ。なにがいけなかったんだろうと歪莉はへこみながら考えた。そもそも生まれてきたのが間違いだったような気がする。

  • 「でも、でも、軽く叩いただけなんですよ」

歪莉は、さらにフォローのつもりで付け加えたが、完全に逆効果だった。水野は悲鳴を上げた。

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1巻 こちら、網界辞典準備室!
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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