『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第21話  『Insidious』音響兵器LRADがOculus Riftと同期し⁠必要以上の臨場感が人々を致命的に圧倒する⁠選ばれし354人がヒューマンサインを回す時⁠悪意のファネルは崩壊し⁠謡の調べとともに世界が出産する

全世界から参加者を募ったOculus Rift仮想空間でのプレゼンが続いていた。頭の中に響き渡る『脳内乱舞スパイラル⁠⁠。

  • 「私たちは、ネットのよどみに生まれた存在。生まれながらにして、魂がソーシャルネットやクラウドなしでは生きていけないんです。ネットにどんどん魂を吸い取られる。吸われすぎて薄くなった魂を補うために、ネットにアクセスして『なにか』を分けてもらっているんです。堂々巡りのサドンデス。これぞ、ボットクライアント人生」

歪莉はそう言うと、向かい合っている参加者の腹部に手を差し込んだ。全参加者354名、ひとりずつに歪莉のアバターがひとりずつ付いている。VRだから腹部に手を突っ込まれても痛みはない。だが、ほとんどの参加者は反射的に身体をくの字に曲げた。歪莉が腹部から手を抜くと、そこにはピンク色のなめくじのようなものが付着していた。

  • 「VRグローブ以外の体感については、低周波を使いました。シーンによって音圧を代えています。効果に個人差があるのが難点ですが……」

透明ゼリー状の内山がさらりと言うと、ガイフォークスの篠田が目をむいた。

  • 「LRADを使ったのか?」

LRADとは長距離音響発生装置のことだ。長距離で音声を伝えることができる。人間の聴覚には聞こえない低周波を発生させることで、音響兵器として利用されている。日本でもすでに導入、利用され、効果をあげている。

  • 「……ご存じでしたか、VRグローブの外装に小型の低周波発生装置をつけています。会場にはLRADも設置しています。会場にいる我々は臨場感たっぷりでしょう? あくまで実験です」
  • 「ばかな! LRADで低周波を発生させたら立派な兵器だぞ」

篠田が血相を変えた。

  • 「致命傷にはなりません。そのための音響兵器なんですから」

内山はうそぶき、篠田はため息をついた。

354人の歪莉が手を空に向かって掲げると、ピンク色のなめくじが空に舞い上がり、中天で結合し、遊園地に変化した。

  • 「見なさい! あれはTwitterです。みんなの心のピンク色のよどみをすくって集積したろくでもない仮想空間なんです。薄っぺらな言葉だけのやりとりでできた見せかけのパラダイス、嘘つきの遊園地。全俺があきれました」

歪莉は叫んだが、意味はいまひとつわからない。

続いて、全歪莉が参加者の右目に人差し指と親指を突っ込んだ。参加者が思わず、のけぞる。歪莉はそのまま眼球を引き釣り出した。仮想空間とわかっていても、自分の眼球が引っ張り出される様を、もう片方の目で見るのは刺激が強すぎる。あちこちで悲鳴が上がる。歪莉はかまわず、えぐり出した眼球を空に向かって投げる。

眼球は空で集まり、巨大な目玉になった。同時に世界が暗転し、眼球から発せられるぼんやりした光がストーンヘンジを照らす。心臓をわしづかみされるような不安が会場に広がる。音響兵器LRADの効果だ。

  • 「まるでバックベアードだ」

篠田がうめいたが、バックベアードを知っているものはいなかった。

  • 「あれがC&Cサーバです! ネットにつながる私たちの醜い心が生み出した化け物が、ハッカーに憑依してボットネットを顕現させたのです」

そう叫ぶ全歪莉は、いつの間にか巫女姿に変わっていた。ストーンヘンジの中央に巨大な護摩壇が置かれ、紅蓮の炎が吹き上がり、点を焦がした。さしものC&Cサーバも、驚いてまばたきする。

  • 「テイクダウンとは、私たちの昏いよどみが集積してできた悪意のファネル=ボットネットとC&Cサーバを実力を持って撃破すること!」

全歪莉は叫ぶと同時に護摩壇に向かって飛び上がる。空中で、まぶゆい光が輝き、レディースの白い特攻服に身を包んだ歪莉に合体、護摩壇の前に結加趺坐した。背中には『空海上等』と荒々しい字体で書いてある。

誰もなにも言えない。なにが起きているのかわからないのだ。イギリス南部にあるストーンヘンジ。その中央で結加趺坐したOLが護摩を焚いてボットネットをお祓いするなどとは誰も予想していなかった。

  • 「みなさんも、己の心に巣くう悪しき魂、ボットネットを駆逐するために、⁠ヒューマンサイン』を回してください」

汗びっしょりになりながら理趣経を唱えていた歪莉が、参加者全員叫ぶ、気がつくと全員が『ヒューマンサイン』なる円盤を持っている。わけがわからないまま、それを回し出す。

堕姫縷の横で、和田が腹を抱えて笑いだした。どうやら装置をはずして会場の様子を見たらしい。なにもない会場で全員が必死に手を回している光景は、さぞかし滑稽なのだろう。和田には、音響兵器も効かないらしい。

  • 「ダメです! まだ足りない。もっと回して!」

歪莉が叫ぶ。全員が必死に回すが、さらに歪莉が煽る。

  • 「死ぬ気で回せ!」

その時、全員の心がひとつになった(という演出効果らしい⁠⁠。ストーンヘンジ全体が光に包まれ、なにも見えなくなる。しゃんと音が響く。

  • 「川井憲次の『謡』です」

どこからか内山の声が聞こえた。謡の曲が流れると、護摩壇の前にいた歪莉は消え、代わりに深紅のチャイナドレスに身を包んだ歪莉が、空から舞い降りてきた。

  • 「テイクダウンは、終わりました。しかし、これからも戦いは続きます。ボットネットとの戦いは、私たち自身の醜さと対峙することでもあるのです」

歪莉は中空で止まるとそう言って両手を広げた。ストーンヘンジ全体が青い炎に包まれた。

  • 「ラストのサードインパクト」

再び内山がつぶやくと、⁠残酷な天使のテーゼ』とともに足下の地面が割れ、参加者全員が地下深くで燃えるマグマに向かって落下する。圧倒的な映像効果で、本当に落ちているかのように錯覚したものが悲鳴を上げて泣きながら暴れ出した。

マグマに触れそうになった瞬間、全員は宇宙空間にいた。暗黒の宇宙に太陽、と地球、そして月が見える。上下の感覚もなく、ゆっくりと漂う。どこかで赤ん坊の泣き声がする。参加者全員が、性別を問わず宇宙空間で出産した。産み落とされた子供は泣きながら宇宙を漂ってゆく。遠くから『花の首飾り』が流れる。なぜか全員が涙を流していた。

そしてプレゼンは終わった。

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ネイキッドロフトに集まった参加者がOculus Riftをはずすと、会場の真ん中に特攻服の歪莉が仁王立ちしていた。参加者はもちろん準備室の面々も、不思議そうに歪莉を見る。Oculus Riftを使ったプレゼンは終わったはずだが、あまりにも現実感のない光景だ。まさか、これも仮想空間なのか? という疑問が全員の頭をかすめる。

  • 「押忍!」

歪莉が声を張り上げると、なぜか全員が同時に、

  • 「押忍!」

と応えた。歪莉は満足そうに微笑み、そのまま前のめりに倒れた。もろに床に顔をぶつけたらしく、ごつと鈍い音がして血だまりが広がる。水野があわてて駆け寄る。

  • 「本物には、かないません」

和田が嘆息すると、堕姫縷が笑った。

  • 「テイクダウンの説明にはなっていませんでしたが、おそらく和田さんはまっとうな解説など求めていないのでしょう」

内山がつぶやく。

  • 「これだけの計算処理をどうやったんだ?」

篠田が内山に訊ねた。

  • 「NSAのデータセンターが使えなくなったので、20万台のボットネットを作って、事前の計算はそこで処理しました。リアルタイム処理は、Amazonのクラウドです」

内山が応えると、篠田は肩をすくめて見せた。

その頃、内山のボットネットを他国からの攻撃と誤認した自衛隊サイバー空間防衛隊が、実態調査と迎撃準備を要請されていた。

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1巻 こちら、網界辞典準備室!
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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