『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第23話 『ワールドウォーZ』天啓を受けた和田は、現象学的プログラミングを施したOculus Riftで倉橋歪莉を現象学的に還元し、現象学少女に変身させて言語視野にダイブさせる

  • 「なにか手を打たなければなりませんね」

網界辞典準備室に向かう道すがら、堕姫縷が和田に話しかけた。行き交う社員は、いつもと変わりないブラックな営業を続けているというのに、なぜ自分にはシュールな業務が降ってくるのだろうと和田はぼんやり思った。

  • 「適当にでっちあげるとしても、なにを作るかで株主の印象が変わるので責任重大かもしれません」

和田がため息をつく。

  • 「投資家は、金勘定しか頭にない低脳です。それっぽいはりぼてを見せれば充分です」

堕姫縷がさらっと言ってのけた。堕姫縷のことを性的嗜好以外では有能で常識人と思っていた和田は、いささか驚いた。

  • 「彼らに専門的な内容を理解する知能はありませんし、する気もないでしょう。儲かりそう、株価があがりそうだ、と他の投資家が考えそうだなと思わせればいいんです」
  • 「みんなが美人だと思う女性を当てる美人コンテストというヤツですね。本当に美人であるかどうかではなく、他の人間がどう思うかを当てる。つまり、他のヤツも投資しそうだなと思わせればいい」
  • 「金融資本主義は、そういうゲームです。低脳なほど勝率があがる」
  • 「低脳なんでしょうか? 高度な推理力を必要とすると思いますけど」
  • 「他人の考えていることを当てて金を儲けることに人生を賭けるなんて、私の価値基準から言うと最低の人生で、最低の人生を送りながらも自らを成功者と名乗る人物は低脳です。偏っているのは承知しています。失礼しました」

堕姫縷はぺこりと頭を下げた。この男の娘は、時々いじらしいと和田は思う。その時、天啓が降りてきた。

  • 「私に腹案があります」

和田は毅然と胸を張った。

  • 「えっ?」

堕姫縷が内容を確認しようとした時、部屋についた。

和田がドアを開けると、室員がどんよりした目つきを向けた。本来なら今日は次の発表者が「テイクダウン」の解説をプレゼンする日だ。

  • 「みなさん、そのままでよく聞いてください」

和田は背筋を伸ばし、凛として声を張った。いつもより少し声が高くなり、アニメ声に近づく。オタサーの姫もかくやという吸引力は、張った胸の巨乳さ加減と相まって室員の視線は和田に集中する。紅一点の倉橋歪莉だけは、目を伏せておびえている。この世の中で起きる全ての変化は自分に害なすものと信じ込んでいる。被害妄想のかまってちゃんオーラは今日も健在で、手元のスマホで「なんだか怖い……」とツイッターでつぶやいてフォロワーさんの関心を引こうとする。

  • 「当社は、中間決算の発表を9月に行います。その際、当室の中間成果物を配布することになりました」

室員がざわめき出す。これといった成果物などない。あるのは悲惨な事故と事件の記憶だけだ。いったいなにを配布するのだという戸惑いが広がる。

  • 「お静かに!」

和田が声を張ると、一同は静まった。

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  • 「あの……」

おずおずと歪莉が、顔を伏せたまま手をあげた。

  • 「なんです?」

わざとらしい不機嫌な顔を作った和田が言うと、歪莉はびくっと縮こまった。

  • 「あ、あの、あたしたち、首になるんでしょうか? みんなであの世に転職しなければならないんでしょうか? 閻魔大王に裁かれて、白澤さまに弄ばれるんですね」
  • 「誰も鬼徹の話なんかしていません。それに神獣である白澤さまが、いちいち亡者の相手なんかしないと思いますよ」
  • 「も、亡者……」
  • 「地獄に堕ちたら、そうなるんでしょう? よく知らないけど。とにかく急いで冊子を作らなければなりません」
  • 「具体的な方法は?」

大福のように白くぽっちゃりした体型の内山が、タブレットに視線を落としたまま質問した。

  • 「Oculus Riftで各人の脳内の言語視野を探索し、その実況を文字に起こして辞典とします」

和田の言葉に、内山の手が止まる。

  • 「それはバーチャルリアリティを介した現象学的還元を行うという意味ですね」

内山の言葉に、和田が得たりとうなずく。他のメンバーは、なにを話しているのか理解できない。

  • 「その通りです。インデックス性や相互反映性といった文脈依存を排した世界を、Oculus Riftを使って他者の言語視野を探索することで実現します」
  • 「そのシステムを作れというんですね」
  • 「内山さんならできると思います」

できるかどうか確信はなかったが、とりあえずそう言っておいた。内山の技術力は、底が知れない。

  • 「コーディングは可能ですが、実況に当たっては他の方の手を借りる必要があります。現象学的プログラミングは、まだ確立されていません」
  • 「世界記述言語TOUCHがあります」
  • 「あれは、⁠電脳コイル』にかぶれた開発者が作ったトンデモです。僕ならもっといいものを作れます」
  • 「では、お願いします」
  • 「……わかりました。5日以内に稼働させます。ただし、実況者はセンシティブでナイーブな方がいいと思います」

内山はタブレットに目を向けたまま、無言で倉橋歪莉を指さした。この世の不幸を頭からかぶった漆黒の黒髪の美女は、思い切り大きな口を開けて驚愕の表情を作って見せた。その姿がムンクの『叫び』に似すぎていたため、和田は写メを撮りたくなる。

  • 「な、な、な、な、な、なんであたしなんですか?」
  • 「あなたが一番異世界に近いから」

内山に変わって和田が答えた。キチガイと言いそうになるのを必死にこらえる。

  • 「わけがわかりません。あたしは一介の会社員ですよ。現象学的還元なんかされたら、ハムスターになってしまいます。ヒマワリの種なんか食べられません」

混乱した歪莉は意味不明なことを言い出した。

  • 「一介の会社員は、特攻服着て押忍なんて言いません。内山さんに現象学的還元してもらって、現象学少女として辞典作りに邁進してください」
  • 「げ、げ、げ、現象学少女?」

歪莉は頭を抱えてしゃがみ込んだ。

  • 「現象学的還元によって特異点となった倉橋さんが探索することで、エスノメソドロジー的実験の様相をなすわけですね」

内山が補足したが、もちろん誰も理解できない。

  • 「あははははは、この人なにを言ってるんですか?」
  • 「現象学少女に記憶しておいてほしいことをお話ししています」
  • 「お母さん、この人怖い」

倉橋歪莉は、床にうずくまると頭を抱えてすすり泣き始めた。イケメン水野が、⁠ひどいじゃないですか」と言いながら歪莉を慰める。

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1巻 こちら、網界辞典準備室!
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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