- 「なにか手を打たなければなりませんね」
網界辞典準備室に向かう道すがら、
- 「適当にでっちあげるとしても、
なにを作るかで株主の印象が変わるので責任重大かもしれません」
和田がため息をつく。
- 「投資家は、
金勘定しか頭にない低脳です。それっぽいはりぼてを見せれば充分です」
堕姫縷がさらっと言ってのけた。堕姫縷のことを性的嗜好以外では有能で常識人と思っていた和田は、
- 「彼らに専門的な内容を理解する知能はありませんし、
する気もないでしょう。儲かりそう、 株価があがりそうだ、 と他の投資家が考えそうだなと思わせればいいんです」 - 「みんなが美人だと思う女性を当てる美人コンテストというヤツですね。本当に美人であるかどうかではなく、
他の人間がどう思うかを当てる。つまり、 他のヤツも投資しそうだなと思わせればいい」 - 「金融資本主義は、
そういうゲームです。低脳なほど勝率があがる」 - 「低脳なんでしょうか? 高度な推理力を必要とすると思いますけど」
- 「他人の考えていることを当てて金を儲けることに人生を賭けるなんて、
私の価値基準から言うと最低の人生で、 最低の人生を送りながらも自らを成功者と名乗る人物は低脳です。偏っているのは承知しています。失礼しました」
堕姫縷はぺこりと頭を下げた。この男の娘は、
- 「私に腹案があります」
和田は毅然と胸を張った。
- 「えっ?」
堕姫縷が内容を確認しようとした時、
和田がドアを開けると、
- 「みなさん、
そのままでよく聞いてください」
和田は背筋を伸ばし、
- 「当社は、
中間決算の発表を9月に行います。その際、 当室の中間成果物を配布することになりました」
室員がざわめき出す。これといった成果物などない。あるのは悲惨な事故と事件の記憶だけだ。いったいなにを配布するのだという戸惑いが広がる。
- 「お静かに!」
和田が声を張ると、
- 「あの……」
おずおずと歪莉が、
- 「なんです?」
わざとらしい不機嫌な顔を作った和田が言うと、
- 「あ、
あの、 あたしたち、 首になるんでしょうか? みんなであの世に転職しなければならないんでしょうか? 閻魔大王に裁かれて、 白澤さまに弄ばれるんですね」 - 「誰も鬼徹の話なんかしていません。それに神獣である白澤さまが、
いちいち亡者の相手なんかしないと思いますよ」 - 「も、
亡者……」 - 「地獄に堕ちたら、
そうなるんでしょう? よく知らないけど。とにかく急いで冊子を作らなければなりません」 - 「具体的な方法は?」
大福のように白くぽっちゃりした体型の内山が、
- 「Oculus Riftで各人の脳内の言語視野を探索し、
その実況を文字に起こして辞典とします」
和田の言葉に、
- 「それはバーチャルリアリティを介した現象学的還元を行うという意味ですね」
内山の言葉に、
- 「その通りです。インデックス性や相互反映性といった文脈依存を排した世界を、
Oculus Riftを使って他者の言語視野を探索することで実現します」 - 「そのシステムを作れというんですね」
- 「内山さんならできると思います」
できるかどうか確信はなかったが、
- 「コーディングは可能ですが、
実況に当たっては他の方の手を借りる必要があります。現象学的プログラミングは、 まだ確立されていません」 - 「世界記述言語TOUCHがあります」
- 「あれは、
『電脳コイル』 にかぶれた開発者が作ったトンデモです。僕ならもっといいものを作れます」 - 「では、
お願いします」 - 「……わかりました。5日以内に稼働させます。ただし、
実況者はセンシティブでナイーブな方がいいと思います」
内山はタブレットに目を向けたまま、
- 「な、
な、 な、 な、 な、 なんであたしなんですか?」 - 「あなたが一番異世界に近いから」
内山に変わって和田が答えた。キチガイと言いそうになるのを必死にこらえる。
- 「わけがわかりません。あたしは一介の会社員ですよ。現象学的還元なんかされたら、
ハムスターになってしまいます。ヒマワリの種なんか食べられません」
混乱した歪莉は意味不明なことを言い出した。
- 「一介の会社員は、
特攻服着て押忍なんて言いません。内山さんに現象学的還元してもらって、 現象学少女として辞典作りに邁進してください」 - 「げ、
げ、 げ、 現象学少女?」
歪莉は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
- 「現象学的還元によって特異点となった倉橋さんが探索することで、
エスノメソドロジー的実験の様相をなすわけですね」
内山が補足したが、
- 「あははははは、
この人なにを言ってるんですか?」 - 「現象学少女に記憶しておいてほしいことをお話ししています」
- 「お母さん、
この人怖い」
倉橋歪莉は、
今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!
- 『ワールドウォーZ』
- 投資家は低脳 他人の考えていることを当てて金を儲けることに人生を賭ける
- オタサーの姫
- 鬼徹
- 言語視野
- 現象学的還元
- 現象学的プログラミング
- 『電脳コイル』
- 現象学的世界記述言語TOUCH
- 現象学少女
- ムンクの
『叫び』 - エスノメソドロジー的実験
『『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!』電子書籍がついに発売!
Gihyo Digital Publishing
- 和田安里香
(わだありか) - 網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、 体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、 どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、 自分の趣味のプロジェクトを開始した。
- 倉橋歪莉
(くらはしわいり) - 法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、 誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、 フラストレーションがたまりすぎると、 爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では 『裸の王様成田くん繁盛記』 というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」。
- 水野ヒロ
(みずのひろ) - 網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、 体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、 最近自分の人生に疑問を持つようになり、 奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に 「そんなことは誰でも思いつきますけどね」 などと口走るようになり、 打ち合わせに出席できなくなった。
- 内山計算
(うちやまけいさん) - 網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、 体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
- 篠田宰
(しのだつかさ) - 実例担当
年齢44歳、身長165センチ、 体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
- 古里舞夢
(ふるさとまいむ) - 年齢36歳。身長165センチ、
体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、 和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
- 綴喜堕姫縷
(つづきだきる) - 容姿は女性、
性別は男性。身長172センチ、 体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、 バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、 本社には詳細な人事情報がない。