『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第29話  『コントラクト・キラー』 システム屋の絶望再生産工場がITプロレタリアートを大量生産し、『昔ヒロポン、今デパス』再収奪過程を加速する常習薬となる

世界を回収した内山は、さっそく本の解読を開始した。一同は固唾を呑んでその作業を見守る。

  • 「で、役に立ちそうな用語解説を得られたんですか?」

堕姫縷がいささか飽いた声で訊ねた。トンデモお化け屋敷は、もう充分だという響きがある。

  • 「はたして、お望み通りのものかはわかりませんが、回収した本の解読は終わりました」

内山は淡々と返し、ホログラフを手で示した。そこには、延々と文字が羅列されていた。

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  • 「⁠⁠ITプロレタリアート システム屋の絶望再生産工場』と題された解説ですね。機械に読み上げさせましょう」

オレたちには思い出すような過去はない。楽しい思い出のない過去は、ただの記録だ。専門学校で上っ面を撫でるような教育を受け、社会に出たら使い捨てのコーディングばかりやらされる。新しい知識を学ぶ余裕などない。そのうち、新しい技術が出てきたら終わりだ。そうでなくても、年を取ったら、つぶしがきかなくなる。

今の世の中は、オレたちを使い捨てる前提でできている。どこかの社長が二十四時間三百六十五日働けと言ったそうだが、それがオレたちを雇っている連中の本音だ。働かせられるだけ働かせ、死んだら代わりを入れる。そのために、底辺には誰でもすぐにできるようになる技術しか教えない。自分で勉強しようにも金も時間もない。

どうせ自分は底辺だ。安い給料でこき使われて、そのうち首になって路頭に迷うだろう。その頃には、自分の知識や技術は陳腐化している。のたれ死にだ。運良く会社に残れても、オレの収入なんかたかがしれてる。家庭など持てるはずもない。死ぬまで他人のために働くだけの人生だ。オレがなにか悪いことをしたのか? なにかが間違っている。いや、全部間違ってる。

でも、だからってなにかができるわけじゃない。ただ、ぶつぶつ文句を言っているうちに、捨てられて死ぬ。そんなのはいやだ。

だからオレは営業になった。でも、そんなの無理に決まってる。他人とうまく話できないコミュ障のオレが、たいした特徴のないうちの商品を売れるわけがない。でも、やらなきゃいけないんだ。だって、他に生き延びる方法がない。

  • 「もしかして彼は『平坦主義者』ですか?」
  • 「シンパシーを覚える箇所はありますが、原則として『平坦主義』は強者の集まりです。彼のような負け犬根性ではやっていけない」

篠田は、ため息をついた。

  • 「だが、ITプロレタリアートの典型のような彼は、救われてしかるべきです。立て! 万国の底辺IT労働者!」

篠田は拳を突き上げたが、もちろん同調する者はいない。堕姫縷が早く家に帰りたいという顔で篠田を見る。水野と歪莉は、篠田の言葉を聞いてすらいなかった。なにやら、小声でささやきあってふたりの世界に没入している。

和田は腕を組み、ふんと鼻を鳴らした。

  • 「とりあえず、用語解説がひとつできましたね。これは使えます」

一歩前に出て、ホログラフを撫でる。

  • 「こんなのでいいんですか? だって、単なるモノローグですよ。この手のものが二十九話、あの本にはありました」

内山が首をかしげる。

  • 「モノローグといえばモノローグなんですけど……綴喜さんはどう思います?」

堕姫縷は軽くため息をついて肩をすくめた。

  • 「使えると思います。見せ方を工夫すれば、株主も喜ぶでしょう。音声合成で朗読させるとよいでしょう」
  • 「そんな安っぽい工夫でいいんですか?」
  • 「何度もお話しているように投資家はバカで皮相的です。彼らには、それくらいで充分です。難しくなると、話が通じません」

その時、ざらざらとなにかがこぼれる音がした。音のした方に目をやると、被験者の男性が拘束衣から逃れようともがいている。音は拘束衣の中からだ。内山があわてて駆け寄り、拘束衣を脱がせると無数の白い錠剤が床に落ちた。

  • 「む……」

不吉なサインを感じた和田が錠剤を拾い上げ、堕姫縷がそれをのぞき込む。

  • 「これは……」

堕姫縷がうめく。

  • 「ご存じですか?」
  • 「デパス」
  • 「なんです?」
  • 「⁠⁠昔ヒロポン、今デパス』と言われてます」

篠田がふたりの会話に割って入った。

  • 「ヒロポンくんとデパスちゃん? どっかの田舎のゆるキャラですか?」
  • 「……覚醒剤です。戦前、戦中それに戦後すぐの頃は合法だったんです。みんな、国民は覚醒剤を打って戦争してたんです」
  • 「はあ? 篠田さん、いつもトンデモな話をしますけど、今日はとくにひどくありませんか? いくらなんでも覚醒剤が合法だったなんて、そんなことあるわけないでしょ」

堕姫縷が笑って和田を見る。

  • 「本当です。私も知っています。綴喜さんは日本にいなかったからご存じないかもしれませんが」

和田の言葉に堕姫縷は絶句した。

  • 「日本ってほんとに奥が深いというか、怖い国ですね。それで、デパスっていうのは、なんなんですか?」
  • 「向精神薬の一種です。精神をリラックスさせる効果があり、鬱、睡眠障害、肩こりなどに処方されます。副作用もほとんどなく、多量に服用しても死ぬことは滅多にない。非常によい薬とされています。しかし、たったひとつ無視できない問題がある」
  • 「なんです?」
  • 「常習性があるってことです」

和田と堕姫縷は顔を見合わせる。

  • 「ITプロレタリアートをこき使い、彼らが精神的に参って働けなくなると、今度は向精神薬漬けにして金を巻き上げるんです。IT資本家の策略だ!」

今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!

  • 悪魔の辞典
  • 乱調文学大辞典
  • 絶望再生産工場
  • IT時代のプロレタリアート/底辺IT労働者
  • 『平坦主義』
  • 投資家はバカで皮相的
  • デパス
  • 『昔ヒロポン、今デパス』
  • 向精神薬
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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