『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第31話  『世界の涯て』ウェアラブルデバイスに対するオペレータ依存型防御機構について内山が解説し、パントマイムの王子様はフィリップ・ジャンティに憑依されたパフォーマンスを見せる。

その後、室員は網界辞典準備室に戻ったが、和田と堕姫縷はそのまま実験室に残り、内山の解説を聞いていた。

  • 「一般的にウェアラブルデバイスは、攻撃に対して脆弱な運用を強いられます。マンマシンインターフェース部分がより深く結合しているものほど、その傾向があります。理由は簡単で、⁠純粋なオペレータ⁠が不在だからです」

仄暗い実験室に立った白衣の内山は、ふたりの視線を避けながらタブレットを叩いた。

  • 「⁠⁠純粋なオペレータ⁠とはなんですか?」

和田が質問する。

  • 「インプットに対して直接感情の刺激を受けない観察者、操作者です。五感に直結されたウェアラブルデバイスは、五感を通して感情に影響を与えやすくなります。そのため、マルウェアの侵入に対して検知や対処が遅れる傾向があります」
  • 「彼はなにを言っているんですか?」

堕姫縷は首をひねる。

  • 「私にもわかりかねます。内山さん、どういう意味ですか?」
  • 「⁠⁠大音量』という文字を見るのと、実際に『大音量』を耳にするのでは全く反応が異なります。従来型のインターフェースは前者で、ウェアラブルデバイスの場合は後者です」
  • 「ああ、なるほど」
  • 「オペレータの感情を揺さぶることで、正常な反応を遅延させ、攻撃を容易にします。極端な話、音声を用いた攻撃だけで、一定時間パニックに陥れることも可能でしょう」
  • 「つまり、この場合、攻撃者であるこちらが有利というわけですね」
  • 「そうとばかりは言えません。今回に関しては、相手の情報がほとんどありません。ないものを正確に評価することはできません」

内山がぼそっとつぶやく。

  • 「ある程度、想定できるでしょう?」
  • 「その答えはYESであり、NOでもあります。防御機構および迎撃機構としては、大きくデバイス依存型とオペレータ依存型があります。前者はウェアラブルデバイスのハードウェアとソフトウェアによる防御と迎撃。後者は、オペレータ、つまり人間の精神的な耐性や柔軟性を高めることによって防御と迎撃を実現するものです」
  • 「内山さん、精神的な耐性や柔軟性とは、外部から侵入があった時に気合いで耐えて迎撃するという意味ですか?」
  • 「端的に言えばその通りです。僕は知りませんが適切な精神的なメソッドがあるのかもしれません。どのようなインプットに対しても平常心を保てれば、純粋なオペレータは実現できますからね。マインドフルネス・トレーニングでもやるのかもしれません」
  • 「マインドフルネス・トレーニング?」
  • 「瞑想のことです。デバイス依存型の防御と迎撃については僕にもわかりますが、精神修養の世界はわかりません」
  • 「現象学的還元とは違うんですか?」
  • 「現象学の根底には西欧合理主義に基づく論理があります。瞑想や精神修養は、アジア的なマジックリアリズムのようなものです。全く違います」
  • 「篠田さんがオペレータ依存型の防御と迎撃をマスターしていると思いますか?」
  • 「その可能性は否定できません」
  • 「もし、そうだとすると面倒なことになりますか?」
  • 「一般的に未知のものを評価することはできませんが、ベイジアン的アプローチとゲームの理論の考え方を援用することで解を得ることは可能です。解を知りたいですか?」
  • 「……ベイジアン的アプローチって、実用に耐えられるものなんでしょうか?」
  • 「あらゆるモデルは、対象がもともと持っている要素をそぎ落として成立しています。そこで捨象した要素がどれくらいの影響力を持つかは推測不能です。したがって、今の質問の答えはありません。わかるのは、このアプローチを用いた際にどのような評価になるかだけです」
  • 「わかりました。じゃあ、その評価は?」

正確さを期するために、もって回りすぎた言い回しする内山に、和田はいささかもやもやしてきた。

内山が口を開きかけた時、小太りの白装束の男性が一同の前に現れた。ぽっちゃりした体型ながらも軽い身のこなしで、両手に持ったバトンで新体操のような動きを見せて踊り出す。仄暗い実験室に舞う白い妖精に一同は目を奪われる。

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  • 「ええと、私はなにかの幻覚を見ているのでしょうか? それともこれは実験の一環ですか?」

堕姫縷がうめいた。

  • 「いえ、彼はれっきとした当社の社員古里舞夢(ふるさとまいむ)さんです。パントマイムの王子様と呼ばれることもあります」
  • 「パントマイムが仕事なんですか?」
  • 「本来業務は受託開発のはずです」
  • 「では、なぜ踊っているのです? わけがわかりません」
  • 「それは……一種の求愛行動と私は理解しています」
  • 「はい?」
  • 「彼は、言葉でなくパフォーマンスで私への好意を表現しているのでしょう」
  • 「わかったようなわからないような……それにしても」

と堕姫縷はあらためて古里舞夢のパフォーマンスに目をやる。

  • 「彼のパントマイムは、もはやパントマイムではありませんね」
  • 「じゃあ、なんと呼べばいいんでしょう?」
  • 「……あえて言うなら、日本版フィリップ・ジャンティ・カンパニー」
  • 「そこまでのものですか?」
  • 「私には、⁠世界の涯て』のように見えます。彼のパフォーマンスは、私には祈りのように見えるのです……ファーストネーションの人たちの踊りに通じるものがあります」

堕姫縷の言葉に和田は、なにかを言いかけて口をつぐんだ。一緒にいると忘れてしまうが、綴喜堕姫縷もまた異世界の住人なのだ。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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