『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第32話 『アマルコルド』革命活動と温泉巡りに血道を上げる篠田は、NRJ47に反対し、歪莉はマルティン・ブーバーと対話し空中浮遊を試みる。

曇天にまみれた太陽が仄暗い街を支配する夜、座右の書である『最貧困女子』を傍らに篠田は瞑想に落ちていた。明鏡止水の如く澄み渡った彼の心に腐臭と汚濁に満ちた現の世が映し出される。

─⁠─現象学的還元など、ものの数ではない。

冴え冴えとした心はゆらぎなく、篠田の目は冥府魔道の闇に潜む現象学少女の姿をとらえていた。

─⁠─私は負けない。

知らずつぶやくと、横殴りの残照が狭い部屋を朱に染める。革命活動と温泉巡り(但、日本秘湯を守る会加盟旅館に限る)に金を注ぎ込むため、ワンルームマンションでぎりぎりまで切り詰めた生活を送っている。

平坦主義が標榜しているのは『日常ハカイ系』だ。普段の生き様そのものが革命であり、生きれば生きるほど革命成就に近づくという宗教にも似た発想によって立っている。

問題なのは、同時に富裕層を引きずり下ろそうとしている点である。貧困層が生き延びつつ、富裕層を貧困にすればすべてが平坦になると考えている。そのための方法論が破壊だ。日常ハカイ系アナーキストと呼ばれる由縁である。アナーキストゆえに、現代の⁠貧者の核兵器⁠であるサイバーテロを主体とした手段は問わない過激な活動が身上だ。

平坦主義がその脅威を世間に知らしめ、多数の同調者を集めたのは数年前YouTubeに投稿されたNRJ47(日常系革命女子高生)の一連の動画である。

アニメ声で、⁠かわいい~~~」と叫び、身体をくねらせながら手榴弾を霞ヶ関の大手企業ビルに投擲するする姿は、シュールを通り越して神がかっていた。その姿にインスパイアされたクエンティン・タランティーノが『投擲少女』という映画を撮ろうとしたという噂もある。

もっとも篠田は世間に迎合するような女子高生革命家を使ったプロモーションを、好ましく思っていない。絶対領域信奉者である彼は、ご神体ともいえる女子高生本尊を革命に引きずり出すのはいかがなものかと考えているのだ。

どこかから新しい総理の国威高揚の声が聞こえてきて、黒い霧を篠田は感じた。また霧が立ちこめているのだ、と篠田はつぶやいた。⁠日本の黒い霧』が、新しい姿で社会を覆い尽くそうとしている。払拭せねばならぬ、鉄槌を下さねばならぬという決意が、篠田の全身に満ちてくる。

ポストスノーデン時代に生きる革命家としての自覚と自信が、彼をして戦いへと誘うのだ。

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そのころ、倉橋歪莉は水野のマンションで呆然としていた。若い男女が同じ部屋にいて、なにもせずに呆然としているのもおかしな話だが、壮絶な現象学バトルの後とあってはいたしかたない。

放心状態だった歪莉を連れ帰った水野は、すぐにでも病院につれてゆきたかったが、頑なに拒否された。理由は単純勝つ明快で、⁠病気だと診断されるのが怖い」ということだ。以前から歪莉は、診断されたら終わりと考えていた節があるが、内山に完全に病気、精神崩壊状態と言われてからはますます拍車がかかった。

  • 「特別なことじゃないんです。大丈夫です」

歪莉はうわごとのように何度もつぶやいた。水野は、それでもちゃんと医師に診てもらった方がよいと勧めたのだが、歪莉は首を横に振るだけだった。

  • 「仕方がない。とりあえず、落ち着くまで待つしかないかな」

水野はため息をつき、歪莉は、

  • 「私もそう思ってたところなんです」

とすぐさま応えた。

  • 「あのですね。以前からちょくちょく歩けなくなったり、離れたところにいる人が私の悪口を言っているのが聞こえたり、神様の声みたいなものが頭に響いたりすることがあったんです。今日の実験では、変身して得たいのしれない怪物と戦いましたけど、そんなに珍しいことでもないんですよ」

安心したのか、歪莉が問わず語りに語り出す。

  • 「あのね。それは……」

充分危険な徴候だし、放置していてもよくはならない。なぜなら、それは立派な病気だから……と言おうとして口ごもった。

  • 「ある種の超常能力があると思うんです」

歪莉はほがらかに言い、水野の同意が得られないとわかると、天井を見上げて呆然とした。あまりにも当たり前の人間である水野は、どうしていいかわからなくなった。

  • 「えいっ! えいっ!」

歪莉が可愛らしい声で小さく叫びだした。なにかを試みているようだが、それがなんなのか水野は怖くて尋ねることができない。神様と会話しているなどと答えられたら、どうしよう? 学生時代に学んだはずのマルティン・ブーバーの教えが脳裏をよぎる。この世のすべては神との対話なのだ。だが、神学の徒ではない水野には荷が重すぎる。

  • 「なにしてるの?」

水野は意を決して尋ねてみた。

  • 「空中浮遊できないかと思って念じているの」

歪莉は童女のような笑みを水野に向けた。空中浮遊といえば、瞑想中に身体が物理法則を無視して浮かび上がるアレのことだ。水野の顔から血の気が引く。

  • 「いやだなあ。冗談ですよ、水野さん」

歪莉は青ざめた水野を見て笑った。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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