『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第35話 『スーパー!』シンキングマシンズ社の漆黒の正六面体はマービン・ミンスキーを彷彿させ、TOYOTA2000GTがGPSハッキングによる時間攪乱攻撃を実現する。

現象学少女倉橋歪莉と日常ハカイ系アナーキスト篠田宰の戦いを前に、地下実験室では準備が進められていた。和田、堕姫縷、内山の三名が無言で正六面体の漆黒のマシンの前に立っている。今日搬入してきたマシンだ。

内山がタブレットを軽く叩くと漆黒の筐体が輝き始めた。無数のLEDが瞬き、遠い昔のSF映画に登場したスーパーコンピュータのように星を宿す。三人はしばし、その美しさに言葉を失った。内山は、ウルトラQに魅入られた幼子のように目を輝かせてタブレットを操作する手を止めた。

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  • 「こんなコンピュータは初めて見ました」

ややあって和田が口を開くと、内山は誇らしげにうなずく。だが、彼が説明を始めるよりも早く、堕姫縷が正体をつぶやいた。

  • 「まさか……これって、マービン・ミンスキー博士の……」

そのつぶやきを耳にした内山が目を見開いた。

  • 「なぜ、知っているんです?」
  • 「⁠⁠心の社会』を読みました」

その答えを聞いたとたん、内山の目がすっと元の大きさに戻った。マービン・ミンスキーはコンピュータ科学者でMITの人工知能研究所の創設者のひとりだ。⁠心の社会』は、彼が一般向けに書いた著作。他の専門書や論文ならともかく『心の社会』を読んだだけなら、驚くに値しないと内山は判断したようだ。

  • 「ああ、あなたはサブカルの人でしたね」

内山が冷ややかにつぶやくと、堕姫縷は不満そうに鼻を鳴らした。

  • 「で、これってなんなんです?」

和田にはまったく事情がわからない。

  • 「シンキングマシンズ社の機械。世界でもっとも美しいコンピュータです。この光の点のひとつひとつがCPUです。並列処理の状況を光の点で目にすることができます」

内山の陶酔した言葉を聞いても、和田にはその美しさがよくわからなかった。おそらく計算過程が光点になっているのが、ある種の機能美を醸し出しているのだろうが、門外漢の和田にはさっぱりよさがわからない。もしや堕姫縷はわかるのだろうか? と思って堕姫縷を見ると、やはりわからないようで、露骨につまらなそうな表情を浮かべている。

  • 「つまり……内山さんは、TOYOTA2000GTを現代の公道で走らせて悦に入ってるようなことをしてるってことですね」

和田がつぶやくと、

  • 「全然違います!」

内山は瞬間的に真っ赤になった。

  • 「ぼ、僕はアーキテクチャはそのままで、すべてのCPUを差し替え、処理速度に合わせた転送速度を実現し、メモリを……」

内山が甲高い声でましくたてると、和田があわてて止めた。実験はもうすぐ始まるのだ。こんなオタク談義をしているヒマはない。

  • 「それよりも、今日の準備は終わっているんですか?」
  • 「あ、ええと、GPSハッキングの対策機構を起動すれば終わりです」
  • 「GPS? なんでここにいるだけなのに、GPSが関係あるんです?」
  • 「ウェアラブルデバイスへの攻撃として、GPSハッキングは有効です」
  • 「だから、なんでです?」

内山は肝心なことをすっ飛ばして説明することがある。今がそうだ。一般人が自分のように発想しないということが、いまだに理解できていない。

  • 「時間管理が狂うと、新しいものと古いものの区別がつかなくなります。ファイルを始めとして、想像以上にたくさんのものが時間管理に依存しています」
  • 「GPSをハッキングされることと、時間管理を狂わされることに関係があるんですか?」
  • 「GPSをハッキングし、日付変更線の向こうにいると錯覚させれば時間管理は大幅に狂います。もちろん、グリニッジ標準時を使っている場合には影響を受けませんが、そうではないアプリも少なからずあるんです」
  • 「時差を利用した攻撃ですか? そんなものは聞いたことがありません」
  • 「僕もありません。しかし、可能性がある以上、対策しておかねばなりません。今回、対峙するのは篠田さん、平坦主義です。僕は今のところ、彼の能力を認めてはいませんが、平坦主義はあなどれないと考えています」

内山はそう言うと、輝く光点に視線を戻した。それから振り向かずに、和田に尋ねる。

  • 「ところで、倉橋さんと水野さんはなにをしているんでしょうか? もう来てもよい頃です」
  • 「ああ、さっき控え室を除いたら、イメージトレーニングをしていました」

和田の口調には苦笑いが混じっていた。堕姫縷は、おや? という表情を浮かべて和田の顔を見、内山は固まった。やはり、内山は水野と倉橋を要注意人物と考えているのだ、と和田はうなずいた。

  • 「イメージトレーニングとはなんでしょう?」

内山の声には、いささかいらついた響きがある。余計なことをするなと言いたいのだろう。

  • 「水野さんが自宅から持ってきたタブレットで、G-101の映像を倉橋さんに見せていました」

内山の肩がぴくりと動いた。和田は楽しくなってきた。心を乱した時の内山の反応はおもしろい。

  • 「……G-101、一ノ瀬はじめですね」

やはり知っていた、と和田はますます楽しくなった。知っていたなら、内山のようなタイプの人間は耐えられないだろう。

  • 「G-101? 一ノ瀬はじめ?」

堕姫縷が首をひねる。ずっと海外にいた堕姫縷が知りようもない日本文化の暗部だ。

  • 「2013年に放映されたガッチャマンクラウズというアニメの主人公の女子高生であり、旧作ファンに絶望と落胆をもたらした戦慄の小公女とも言われています」

内山が固い声で説明した。

「日本のアニメを勉強する必要がありますね」という堕姫縷の言葉を、⁠必要ないと思いますよ」内山は即座に否定した。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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