『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第36話 『ミックマック』バイタライトの光が堕姫縷の横顔を照らす時、曲芸士以上にレアで強力な歪莉というキャラはプラグスーツを身につけて出征し、水野はメンヘラ蟻地獄の講義を受ける。

地下にしつらえられた会議室。運命に翻弄されるふたりのうたかたの小部屋だ。優しいバイタライトの光が部屋を包んでいる。水野がアーロンチェアに腰掛けて、タブレットの小さな画面でG-101の躍動するさまに見入っている。

  • 「お邪魔だったかしら」

水野と歪莉がイメージトレーニングにいそしんでいる控え室に、堕姫縷が内山に頼まれて迎えにきた。どこから見ても完璧な長身の美女だが、その実態は男であることをふたりは知っている。堕姫縷が高い目線からふたりを冷ややかに見下ろすと、なごやかだった雰囲気が瞬時にして固いものに変わった。同時に、部屋のスピーカーからワルキューレの騎行が流れる。NFC搭載の社員IDによる自動BGM演奏システムだ。堕姫縷が苦笑いしながら、軽く手を振るとジェスチャーを感知したシステムが演奏を止めた。

  • 「戦いの前の静謐な会話を邪魔して失礼。でも、そろそろ時間よ」

堕姫縷がふたりの顔を交互に見ながらつぶやく。ふたりは顔を見合わせ、どちらともなくうなずき合った。

  • 「わかりました」
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歪莉は固い表情で答えると立ち上がった。その姿を見た堕姫縷は絶句したが、かまわず歪莉はそのまま部屋を出た。座っていた時には気づかなかったが、立ち上がると露骨にわかる。

  • 「なんで彼女はプラグスーツを着てるんですか?」

思わず、残った水野に尋ねる。

  • 「そのほうが気分が高揚するかと思いまして……よくなかったですか?」
  • 「いえ」

堕姫縷は水野という男の凡庸なマニアックさに嘆息した。この男は絵に描いたようなこと、予想できることしかしない。この世には冗長性の高い人生ばかりが溢れているが、その典型が彼なのだ。何回ガチャを回しても手に入らないけど手に入れたら最強という曲芸士のごときレアキャラの歪莉が惚れた男とは思えない。ネットの世界なら炎上しているはずだ。堕姫縷は水野から視線を外し、部屋の出口に向かって歩き出した。

  • 「彼女はクリニックに行くべきなんでしょうか?」

堕姫縷の背に水野が声をかけた。世界最先端のバーチャルリアリティ、脳科学の新しい地平とも言うべき実験的なバトルフィールドに恋人が向かうというのに、クリニックに行くべきでしょうか? などという質問をよくできたものだ。宇宙飛行に向かう飛行士に向かって、乗り物酔いしませんか? と聞くくらい意味のないことだ。なぜそんなことを訊く? と言いかけたが、歪莉のために答えることにした。

  • 「私はお勧めしません。メンタルクリニックには3つのリスクがあり、それをすべて回避することは困難です」
  • 「リスク? なにをおっしゃってるのかわかりません。クリニックはそんなに危ないんですか?」

堕姫縷は、うんざりした。ありきたりの人々のありきたりの反応そのままだ。部屋の扉を押して、廊下に出る。凡庸イケメン水野も後に続く。

  • 「日本のメンタルクリニックにおける3つのリスクとは、医師、待合室、薬剤師です。金儲けしか考えていない医師や腕の悪い医師、待合室で友達あるいは恋人という名の共依存を探している患者、依存体質のカモを引っかけようとしている薬剤師。このいずれかあるいはすべてにひっかかるリスクが存在し、その可能性は看過できない高さです」

仄暗い廊下は、内山の趣味なのかもしれないと思う堕姫縷は、3Dプリンタで作られた継ぎ目のない強化プラスチックの通路を進む。

  • 「どういうことです?」
  • 「まず、日本の多くの医師と同様にメンタルクリックの医師の多くも、患者を薬漬けにしがちです。薬をたくさん出したほうが儲かりますからね。向精神薬漬けになったら、まともな人間だって異常をきたしますよ。次に、普通ではおつきあいできないような女の子や、セフレになんかできない可愛い子でも、病んだ子なら簡単にモノにできるので、つい手を出す医師がいます。いったんどちらかの罠にはまったら、あなたが止めようとしても、彼女はすでに薬か医師に依存しきっているので、逆にあなたを排除しようとします。これが第1のリスク」

堕姫縷がさらりと言うと、水野は顔を青くして立ち止まった。堕姫縷は、かまわず歩き続け、話し続ける。壁面から放射されるコバルトブルーの淡い光が、堕姫縷の端正な横顔をアバターのように浮かび上がらせる。

  • 「次のリスクは待合室の出会い。待合室はいろんな問題のある人たちであふれています。内科ではインフルエンザにかかったおそれのある患者は来ないように指導していますが、メンタルクリニックでは誰でも待合室に入れて話しかけられます。メンタルクリックをはしごして薬をためて薬遊びをする連中や、お手軽に共依存相手を見つけようとしている連中……そんなのが話しかけてきます。前者と友達になれば、気持ちいい薬で現実逃避する術を身につけて薬中毒の無間地獄に落ちます。後者にひっかかれば、生まれて初めてできた親友という幻想の中で、まずは未遂、いずれは死というお約束のルートをまっしぐらです」
  • 「未遂?」

水野はあわてて堕姫縷に駆け寄る。

  • 「自殺未遂のことです。ああいう人たちは、ワンショットワンキルというわけにはいかないことが常です。数回未遂騒ぎを起こしてからやっと死に至ります」
  • 「信じられない……」
  • 「第3のリスクの薬剤師は、処方箋を持ってゆく薬局にいる薬剤師です。あの人たちは処方箋を見れば、相手が簡単にひっかけて依存させられる相手だとわかります。カモがネギ背負ってくるようなもの。とりあえず親身に話を聞き(たいていのメンヘラは自分のことを話したがります⁠⁠、自分にも君くらいの娘がいるから心配だよとか言って安心させます。家庭を持っている相手を無条件に信用するメンヘラが多いのは不思議です。その後ドライブや食事に誘う。まっとうな判断能力がある人間なら、本当に心配しているなら話を聞くだけで充分で、ドライブや食事は下心があるからに他ならないとわかりますが、おそらく彼女にはそういう判断能力はないでしょう」
  • 「なぜです?」
  • 「依存欲求と承認欲求の虜になっているからです。誰かに受け入れてほしいんですよ。私の知人は大学時代に薬剤師に引っかかって、リタリン(ほとんど覚醒剤)で薬漬けにされ、薬欲しさに言いなりになり、客を取らされて、2度堕胎してからやっと逃げ出しました」
  • 「そんな、だって僕が……」

いるじゃないですか、僕が依存欲求と承認欲求も満たしてあげられます、と水野が誰でも言いそうなことを言いそうになった。堕姫縷は、首を横に振る。

  • 「受け入れてくれれば、誰でもいいんです。1人より2人のほうがいいし、たくさんのほうが安心する。なので、たいていのメンヘラはビッチです。依存欲求と承認欲求を満たしてくれる相手に簡単に股を開く。彼女がそうならなかったのは奇跡としか言いようがありません。クリニックに行ったら、その奇跡も終わります」

堕姫縷は、ため息をついた。

  • 「にわかには信じられません。じゃあ、なんのためのメンタルクリニックなんですか!」
  • 「相変わらず、凡庸な反応ですね。少なくとも日本においては、多数の医療機関は大量かつ継続的に薬品を販売するために存在しています。それは病院経営者、医師、薬品業界の利益と発展に寄与するわけです」
  • 「なんということだ」
  • 「本当に彼女のことが心配なら、じっくり考えてください。あたりまえなことをしていると、彼女はあたりまえに薬漬けのビッチになってメンヘラ蟻地獄にはまります」

度しがたい凡庸さと冗長さ。悪貨は良貨を駆逐するというのは、その通りだ。コンピュータにMicrosoftのWindowsとIntelがあふれているように、凡庸な男が世界を跋扈し蹂躙している。悲しいことだ。

  • 「さあ、彼女の戦いが始まります」

堕姫縷は、内山たちの待つ部屋の扉を押した。

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和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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