『電網恢々疎にして漏らさず網界辞典』準備室!

第39話 『遊星より愛をこめて』感情防壁に対するアクティブ攻撃により、オキュラスは自縄の檻と化し、五感に基づくインタフェースを無効化される。

  • 「僕は篠田さんの攻撃は、パッシブなものを想定していましたが、これは完全にアクティブです。オペレータ依存型のシステムに対する攻撃は、パッシブの方がカウンターになるので心理的インパクトも大きいと考えていましたが、先行して不安を募らせて攻撃効果を上げる方法もあったんですね。これは気がつきませんでした」

内山が感心したように漏らした。

  • 「ちょ、待て! 僕らは大丈夫なのか? 予想外の危険にさらされているんじゃないのか?」

和田と堕姫縷が落ち着いている横で、水野が取り乱す。

  • 「水野さん、ご安心ください。心配には及びません」
  • 「よかった。なにか手を打ってあるんですね」
  • 「僕の計算では、オキュラスのインターフェースを介して受けるダメージでは、あなたの精神状態は今より悪くなることはありません」
  • 「なにを言ってるんだ?」
  • 「数日、起き上がれなくなるくらいの精神的ショックはあるかもしれませんが、すぐに元に戻ります。そもそもあなたは、以前の部署でもちょくちょく欠勤していたそうですから、平常運転とも言えます」
  • 「どこが安心できるんだ!」

水野は両手両足をばたつかせて、⁠出してくれ」と叫ぶ。自分の手でオキュラスをはずせばいいだけなのだが、そのことにすら思い至らないようだ。

  • 「水野さん、落ち着いてください。我々はオキュラスで見ているだけなんです。篠田さんや倉橋さんのようなインターフェースは装着していないんです。そんなひどいことになるはずはありません」

和田が見かねて声をかけるが、すでに軽いパニック状態に陥った水野には聞こえない。

妖精事務員たみこは、篠田=傘をさしたパズルにどう対処すればよいか考えあぐねているようだった。手を伸ばせば届くほどの近さに接近しながら、なにもできないでいる。

  • 「私の謎を解いてください」

胸がしめつけられるような切ない声でパズルがささやくと、たみこは大根を虚空に放り出し、小さな両手でその身体を抱きしめた。その時、みしりと世界が壊れる音がした。

  • 「世界が崩壊する……」

内山はうめくと、漆黒の闇がガラスが砕けるようにぱらぱらと割れた。だが、割れた向こうにあるのも闇だ。何度も何度も崩壊を繰り返す。闇のフレークが、蒙昧な空間に満ちてくる。

  • 「なにが起きてるんです?」

舞い落ちてくる闇の破片を手で払いながら和田が質問した。

  • 「反応しないでください。破片のひとつひとつにフィードバック機構が内蔵されていて幾何級数的に破壊速度が上がります。現象学的シェイクハンドプロセスでプロファイルして、もっとも効果のあるフィードバックを行うようにプログラムされているようです。反応すればするほど攻撃の威力は増大。エンドレスのデススパイラルに陥っていまいます。訓練をしていないみなさんには難しいと思いますが、心を無にしてください。色即是空、空即是色です」
画像

内山が淡々と3人に語りかけた。だが、降り注いでくる暗闇の破片を目にしたら、払い落としたくなるのは人情だ。

水野が身体全体を振り回して払い落とす様子は、未開の種族のダンスのように見える。堕姫縷も時々我慢しきれなくなると手で軽く払い落とした。かろうじて和田は、黒い雪のように舞い落ちる闇のかけらをじっと受けていた。

  • 「説明しましょう。篠田さんが仕掛けているのは、世界観喪失の攻撃です。頭の中に存在する世界の感覚を奪い取り、正常な反応をできなくするつもりでしょう。わかりやすく言うと人間の五感を狂わすような体感を与え、五感に基づくインターフェースを無効にしているのです」
  • 「内山さん、もう少しわかりやすい表現で説明してください。それに私たちがどうすればよいかも指示してください。このまま闇のフレークに埋もれているわけにもいきません」
  • 「人間の五感には基準感覚があります。リアルな世界を基準として経験的に構築されたもので、これが失われることは現象学的還元にも近いことですが、他者によって奪い取られる点が違います。基準感覚を守っている感情防壁(論理的に正しくても常識外れのものを排除し、基準感覚を維持するための心的装置)が破られ、突然無謀に超越論的主観の支配する世界に放り出させるのはオペレータの正常な反応を阻害します。オペレータ依存型のシステムの脆弱性を、感情防壁に対するアクティブ攻撃によって突いたのです」

内山は陶然としている。堕姫縷は諦めてため息をついた。困ったものだと和田も思う。

  • 「ウェアラブルデバイスやVRデバイスはオペレータの心理学的脆弱性から切り離せない。なぜ、誰もその脆弱性をカバーしようとしない。このままでは、歩行者や運転者、あらゆる場面でサイバー攻撃による致命的な事故を起こすことができるようになる」

内山の語りは続く、こうなると意思疎通は難しい。それでも、この場を打開するために和田は質問した。

  • 「フェールセーフ機構はないんでしょうか?」
  • 「あります。感情防壁そのものが心理的ファイアウォールです。しかし、これはまだ研究が始まったばかりで、決め手はありません。方法論もオーディオビジュアルの帯域制限と、パターンマッチングによるフィルタリングを組み合わせただけの初歩的なものです。帯域制限でインパクトのある音域や音量を遮断し、パターンマッチングにより必要以上に刺激的なビジュアルや音声をカットします」
  • 「内山さんの言ってることはようするに、大音量やひどい言葉、目を背けたくなるような画像を見せば相手の気持ちを動揺させることができるってことですよね」

堕姫縷がやっとわかったという顔で言う。

  • 「若干語弊がありますが、おおよそ、その通りです」

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  • 『遊星より愛をこめて』
  • 色即是空、空即是色
  • 超越論的主観
  • 心理学的脆弱性
  • 感情防壁
  • 心理的ファイアウォール
  • オーディオビジュアルの帯域制限
  • パターンマッチングによるフィルタリング
和田安里香(わだありか)
網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
倉橋歪莉(くらはしわいり)
法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです⁠⁠。
水野ヒロ(みずのひろ)
網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
内山計算(うちやまけいさん)
網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
篠田宰(しのだつかさ)
実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
古里舞夢(ふるさとまいむ)
年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
綴喜堕姫縷(つづきだきる)
容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。

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