- 「端的に表現すると、この種の攻撃に対して有効な対抗手段はないということです」
内山はあっさり負けを認めた。あまりにもあっさりしていたので、和田、堕姫縷、水野は、しばらくそれが敗北宣言だと気がつかなかった。
- 「妖精事務員たみこは、すでに崩壊を始めています。より正確に表現すれば、今回の現象学的還元された仮想空間全体が消えようとしています」
内山は言葉を続けるが、その意味するところは誰も理解できない。いわゆる「文法は合っているが意味不明」という状態に他ならない。
水野はいつのように歪莉を気遣う。何度同じことを訊けば気が済むのだろうと和田は思ったが、状況がかわるたびに確認したくなるのは神経質な日本人全般に見られる性のようなものだ。
- 「『傘をさしたパズル』、スーパードルフィーも消えるんですか?」
堕姫縷も声を上げる。それぞれもっとも関心を持っているものが気になるらしい。
和田は、闇のフレークを浴びて自らも粉末状に分裂しつつあるたみこと、スーパードルフィーを見た。たみこがフレークを払うたびに、身体のその部分が銀色の砂と化してさらさらと落ちる。『傘をさしたパズル』も同様だ。フレークを受けた箇所から砂がこぼれ落ちる。
落ちる? あの空間には重力はないはずだ。なぜ下に落ちるのだろう? 和田は、そんなことをぼんやりと考えながら、闇と銀砂の織りなす光景をじっと見つめていた。そういえば宇宙戦艦ヤマトで宇宙船が”墜落”する理由の論考を読んだことがある。内容はすでに忘却の彼方だが、赤穂浪士の討ち入りの前に大石内蔵助が食べたうどんの種類を生涯かけて研究するくらいどうでもいいことだと思った記憶がある。
ふたりの質問に答えない内山に、和田は質問を重ねる。
そこに至って和田は理解した。内山は自分の口から負けを認めたくないのだ。まんまと篠田の策にはまったのは間違いない。それも来ると予想していた攻撃で正面突破された。違っていたのは、パッシブかアクティブかだけだ。言い訳しようのない敗北。
- 「なぜ、相打ちではないんですか? 見たところ双方ともに消滅しようとしています」
和田の口から出た「消滅」という言葉に水野が反応して、「消滅したら倉橋さんの本体はどうなるんだ!?」と怒鳴るが、内山は一顧だにせずため息をもらす。
- 「彼女の身体にはなんの問題もありません。おそらく精神にも大きな影響はないでしょう。ただ、世界の終わりを体感した記憶は生涯消えないかもしれません」
内山の言葉に水野は首をひねる。
- 「相打ちではないと僕が言ったのは、まさしくその意味においてです。世界を終わらせた者と終わりを受け入れた者の差は大きい。篠田さんは“終わり”を始め、倉橋さんは“終わり”を受け入れた、望んだわけではないですが」
和田と堕姫縷は顔を見合わせた。
和田は努めて冷たい声を出した。自分のキャラとして威圧感を出すのは難しいが、要望を態度で示すことは重要だ。IT企業のプロジェクト打ち上げでセクハラにあった女子なら、みんな承知しているテクニック、顔で笑ってオーラで拒否。
- 「『傘をさしたパズル』というのは世界解釈モデルのひとつの通称です。このモデルは、チャイティンのメタ数学に基づいています。より正確に言えば、ゲーデルの不完全性定理、チューリングの停止性問題、チャイティンのオメガと続く知の限界に関する理解をベースに意味論として世界を解釈しなおしたものです」
堕姫縷と水野は顔を見合わせた。和田も同感だ。どう考えてもさっきより難解になっている。難解なことを説明するのに、さらに難解なことを持ってくるのは勝つまで、掛け金をつり上げて止めない博打打ちと同じだ。最後は破綻する。
和田は再度言葉に力を込めた。ふわっとリアルの和田の全身から香りが立つ。興奮や緊張したときに出る和田の特殊な香りだ。仮想空間には反映されず、リアルの和田の近くにいる内山にだけ認知される。和田の体臭は効果があった。内山の言葉がゆっくりと落ち着いた感じに変わる。
- 「篠田さんは世界を『傘をさしたパズル』で解釈し、破壊しました。『傘をさしたパズル』とは、ゲーデル、チューリング、チャイティンの提示した知の限界に対する回答であり、世界のモデルです。ある問題を解決するための再帰的解法で世界が再生産されているという理論です。ある問題とは、“真理”もしくは“統一理論”の構築です」
- 「つまり? どういうことなんです?」
どこが端的なんだ、と和田は怒鳴りたくなった。
- 「つまり、最初のビッグバンにおいて誕生した生命体が、知の限界を悟り、その問題を解決するために新しい世界を作りだし、その世界でも真理が見つからないので、その世界の科学者がさらに新しい世界を作り……という具合に入れ子構造で真理を見つける世界が誕生するまで再帰的に世界が再生産されるのです」
- 「なんですって? 世界を作れる科学力で解けない問題が、作られた世界で解けるんですか?」
堕姫縷がもっともな疑問を投げる。
- 「もちろん解ける可能性はあります。我々だって自分ではできない計算をコンピュータに任せ、持ち上げられないものを持ち上げるのに機械を作り出しました。それと同じです。世界は”真理”を抽出するための装置であるというのが『傘をさしたパズル』モデルです。それはとりもなおさず、人類が必要もないのにひたすら科学研究に血道をあげている理由づけにもなっています。もともと世界のDNAに組み込まれているからです。この世界に帰属するすべてのタンパク質は“真理”を探求するようにプログラムされています」
- 「……では、その“真理”が見つかった時、世界はどうなるのですか?」
和田と堕姫縷が同時に質問した。
- 「それが現在起きている現象です。再帰的に構成された世界のどれかで“真理”が構築されたとき、その世界は役割を終えて消滅します。そして、その“真理”を手にした世界もまた消滅し、数珠つなぎに“真理”が伝播し、最終的にすべての世界は消滅します。『傘をさしたパズル』モデルにおいて、“真理”を内包した世界は存在し得ません。世界は常に不完全で“真理”を希求するものなのです」
- 「じゃ、僕らはこれからどうなるんですか?」
水野がうめく。
- 「その仮想世界は崩壊しつつあります。まもなく消滅するでしょう」
- 「だから! 消滅するとどうなるんです?」
- 「なにもありません。ゲームオーバーになってシステムは停止し、みなさんはリアルの世界に戻ります。そもそもみなさんはいつでもオキュラスをはずせば仮想世界から離れられるんですよ」
- 「彼女と篠田さんはどうなるんです!」
- 「ふたりとも問題なく戻ってくるはずです。仮想世界に浸っていたので、数時間はリアルの世界に慣れないかもしれませんが、その程度です」
- 「で、結局、辞典は入手できるんですか?」
内山の答えをある程度予想していた和田は、もっとも大事な質問を投げた。解説が手に入らなければこの戦いの意味がない。
- 「僕の計算ではできるはずです。きわめて哲学的な解説が出てくるでしょう」
今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!
- 『ヘルタースケルター』
- チャイティン
- メタ数学
- ゲーデル
- チューリング
- 停止性問題
- 再帰的解法で世界が再生産されている
- 和田安里香(わだありか)
- 網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、自分の趣味のプロジェクトを開始した。
- 倉橋歪莉(くらはしわいり)
- 法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、フラストレーションがたまりすぎると、爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では『裸の王様成田くん繁盛記』というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」。
- 水野ヒロ(みずのひろ)
- 網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、最近自分の人生に疑問を持つようになり、奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に「そんなことは誰でも思いつきますけどね」などと口走るようになり、打ち合わせに出席できなくなった。
- 内山計算(うちやまけいさん)
- 網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
- 篠田宰(しのだつかさ)
- 実例担当
年齢44歳、身長165センチ、体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
- 古里舞夢(ふるさとまいむ)
- 年齢36歳。身長165センチ、体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
- 綴喜堕姫縷(つづきだきる)
- 容姿は女性、性別は男性。身長172センチ、体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、本社には詳細な人事情報がない。