仮想世界が幾重もの闇に包まれた。闇が重なるということを和田たちは初めて体験した。漆黒の空間だからなにも見えない。見えないのに、
- 「ご自身の手でオキュラスをはずしてください。すべて終わりました」
内山の声で一同はオキュラスを外した。まばゆい光
- 「首尾はいかがでした?」
和田は胸ポケットから眼鏡を取り出してかけながら、
- 「予想通りでした。システム哲学とでも言うべきものの用語解説を入手できました。おそらく日本のシステム関係者、
とくにインターネット界隈のみなさんに欠けているもの。ネットワークの思想的背景です。非常に有用と僕は考えます」 - 「サイバーパンクのようなものですか?」
堕姫縷が髪を整えながら尋ねる。
- 「違います! 中野や高円寺の怪しい店のミニコミではなく、
きちんと学会発表できるレベルの内容と申し上げてよいでしょう。チューリングの業績やミンスキーをご覧なさい。システムは、 それ自身が思想につながる。正直申し上げて、 篠田さん、 いや、 平坦主義の本質がこんな哲学的な背景を持っているとは思いませんでした。脱帽です」
内山はメインディスプレイに映し出された用語解説から目を離さずに説明した。脱帽という言葉が出たことで和田はいささか驚いた。負けず嫌いのはずの内山に、
- 「お褒めにあずかり光栄です。そもそも私は大学で、
コンピュータ言語学とメタ数学を専攻していました」
予想もしていなかった寝台からの声に一同はぎょっとした。
- 「信じられない。すぐに覚醒するなんて……」
内山が目をむく。確かに前回の結果を見る限り、
- 「これほど完成度の高いものではありませんが、
類似のシステムを我々は持っています。私はそこで修行しました」 - 「うかつでした。当然、
この手のシステムへの習熟度も予想しておくべきでした」
内山が唇を噛む。おおかたの予想に反して、
不思議なことにふたりの間には友情が芽生えたようで、
といっても、
- 「倉橋さん、
しっかりして!」
一方、
- 「で、
次は誰に用語を紡いでもらうのですか?」
内山は早くも次の実験に備えているようだ。和田は心を決めた。一気にメインディッシュだ。
- 「水野さん、
お願いします」
歪莉のことを憎からず思っている水野との戦いは、
- 「ぼ、
ぼぼぼぼ僕ですか?」 - 「全員やるんです。あなたも例外ではありません」
- 「し、
しかし、 倉橋さんと戦うことなんかできませんよ」 - 「戦うのではありません。協力して用語辞典を作るのだと考えてください」
和田がびしりと言うと、
翌週から残りの全室員が用語集を作った。
水野からは童話でわかるIT用語というコラム風の文章が大量に抽出された。すべてのIT関連用語が童話の登場人物に擬人化されている。
- 「まるで
『憂鬱なヴィランズ』 みたいですね」
和田はカミツキレイニーの不朽の名作ラノベのタイトルを挙げたが誰もわからなかった。
和田からは、
堕姫縷からは性的IT用語。フロイト理論に基づき、
翌週の週末、
他に客のいないとある中洲のビルの最上階にある古いバー。窓から見える景色が和田になにかを想起させる。
- 「あら? この景色って……」
和田がそこまで口にすると、
- 「ブレードランナー、
愛のテーマ」
無意識のうちに、
- 「わかっていらっしゃる。オープニングやエンディングのテーマはすぐにわかっても、
このテーマをすぐにわかる方はそんなにいません」
堕姫縷は、
ここから見る博多中洲はブレードランナーのあの景色に似ているんだ。和田は胸をしめつけられるような思いに囚われた。ある時代を過ごした人々にとって、
- 「僕のできることは終わりました」
内山がビールを呑みながら和田に言った。仕事に引き戻された和田の胸がすっと軽くなる。
- 「あとは室長代理におまかせします。使えそうですか?」
すべての室員から用語を抽出し終わった内山は、
- 「編集して、
それっぽく見せれば使えると思います」
株主総会の資料は和田の業務範囲ではないし、
- 「問題ないでしょう。投資家の腐った脳みそには充分すぎるくらいのできばえです」
堕姫縷は自信たっぷりに微笑んだ。
- 「ちゃんと読みました?」
こいつは絶対読んでいないと和田は確信を持って尋ねた。
- 「投資家が読むであろうくらいは読みましたよ」
- 「つまり?」
- 「目次を見て、
あとは拾い読み」
堕姫縷は笑い、
翌朝、
- 「あ、
あの、 みんなで私のことを噂してるの知ってるんです」
三人がオフィスに入ると、
- 「私のことを頭がおかしいと思っているんでしょう。いい年して妖精事務員とか言ってるババアって笑ってるんでしょう」
歪莉の目は完全に据わっている。瞳孔も、
- 「死んでやる!」
歪莉は甲高い声で叫んだ。
- 「止めたほうがいいですよ」
とっさに和田の口から間の抜けた言葉が出た。この一触即発狂の状況で、
- 「……私もそう思っていたところなんです」
歪莉は簡単に前言を撤回した。口癖というのは怖いものだと和田は思った。
今回登場したキーワード 気になったらネットで調べて報告しよう!
- 『キャリー』
- 星飛雄馬と伴宙太を結びつけた星一徹
- 『憂鬱なヴィランズ』
- カミツキレイニー
- ワインバーグ
- 『ライトついてますか?』
- レイプ目
- フロイト理論
- 全てのIT企業は、
マゾの雌豚の支配するSMアニマルファーム - 博多中洲 ドラム
- ブレードランナー 愛のテーマ
- 双極性障害
- 統合失調症
- 和田安里香
(わだありか) - 網界辞典準備室長代行 ネット系不思議ちゃん
年齢26歳、身長162センチ、 体重46キロ。グラマー眼鏡美人。
社長室。頭はきれるし、カンもいいが、 どこかが天然。宮内から好き勝手にやっていいと言われたので、 自分の趣味のプロジェクトを開始した。
- 倉橋歪莉
(くらはしわいり) - 法則担当
広報室。表向き人当たりがよく愛されるキャラクターだが、人から嫌われることを極端に恐れており、 誰かが自分の悪口を言っていないか常に気にしている。だが、 フラストレーションがたまりすぎると、 爆発暴走し呪いの言葉をかくつらねた文書を社内掲示板やブログにアップする。最近では 『裸の王様成田くん繁盛記』 というでっちあげの告発文書を顔見知りの雑誌記者に送りつける問題を起こした。
口癖は「私もそう思ってたところなんです」。
- 水野ヒロ
(みずのひろ) - 網界辞典準備室 寓話担当
年齢28歳、身長178センチ、 体重65キロ。イケメン。
受託開発部のシステムエンジニアだった。子供の頃からあたりさわりのない、優等生人生を送ってきた。だが、 最近自分の人生に疑問を持つようになり、 奇妙な言動が目立つようになってきた。優等生的な回答を話した後に 「そんなことは誰でも思いつきますけどね」 などと口走るようになり、 打ち合わせに出席できなくなった。
- 内山計算
(うちやまけいさん) - 網界辞典準備室 処理系担当
年齢32歳、身長167センチ、 体重73キロ。大福のように白いもち肌が特徴。
ブログ事業部の異端児で、なにかというと新しい言語を開発しようとするので扱いに困っていたのを宮内が連れてきた。
コンピュータ言語オタク。趣味は新しい言語のインタプリタ開発。
- 篠田宰
(しのだつかさ) - 実例担当
年齢44歳、身長165センチ、 体重48キロ。薄い毛髪が悲哀を感じさせる。
社長室。影が非常に薄く、やる気もない。幽霊のよう人物。ただし脅威の記憶力を持っている。温泉とコーヒーに異常な執着がある。
- 古里舞夢
(ふるさとまいむ) - 年齢36歳。身長165センチ、
体重80キロ。
受託開発部のエンジニア。極端な無口で人見知り。
和田のファン。何かというと和田に近づき、パントマイムを始める。どうやら彼なりの好意の表現らしいが、 和田を含め周囲の全員がどんな反応をすべきかわからなくなる。
- 綴喜堕姫縷
(つづきだきる) - 容姿は女性、
性別は男性。身長172センチ、 体重52キロ。
年齢不詳。カナダ、UBC大学卒業。文化人類学専攻。英語とロシア語が堪能。宮内専務の秘書。その前は、 バンクーバー支店長の秘書をしていた。
妖艶な美女。独特の雰囲気で見る者を魅了する。サブカル、特に昔のマンガにくわしい。バンクーバー支店で採用したため、 本社には詳細な人事情報がない。