本来ならば2020東京オリンピックの開会式が行われたはずの7月24日は「スポーツの日」の祝日でした。
この祝日は、元々「体育の日」という名称で1964東京オリンピックの開会式が行われた10月10日だったものの、「ハッピーマンデー」運動の影響で「10月第2週の月曜」という移動祝日に変わり、さらには2020年1月からは「スポーツの日」と改称されて、2020年に限ってオリンピックの開幕日である7月24日に移動した、という変遷を経ています。
学校教育的なニュアンスが強い「体育」から、より多くの人が自発的に楽しむことを含意する「スポーツ」への名称変更は、祝日名以外にも広まっており、各都道府県が持ち回りで行っている「国民体育大会(国体)」も、2023年からは「国民スポーツ大会」と改称されるそうです。
運動オンチで体育の授業が苦手だった筆者には、苦い記憶を想起する「体育」よりも「スポーツ」の方が耳あたりはいいものの、コンピュータゲームを「eスポーツ」と称して運動競技と同一視し、オリンピック等の競技種目の一部にしようとする風潮には違和感を感じてしまいます。今回は、その違和感について考えてみます。
スポーツの意味
「スポーツの日」が示すように「スポーツ」という言葉は、"sports"のカタカナ表記のまま、日本語の一部になっています。
それでは"sport(s)"とは元々どういう意味なのかをオンライン語源辞典等で調べてみると、元々は古代フランス語の"disport"に由来し、"dis-"という接頭辞は「逸らすこと」、"port"は「荷物等を運ぶ」という意味で、"disport"は「荷運び等の労働から気を逸らすこと」を意味し、それから転じて「楽しい娯楽」や「娯楽や息抜きを提供する活動やゲーム」という意味になったそうです。
さらにWikipedia等を見ると、17~18世紀ごろは"sport(s)"と言うと、貴族や上流階級の遊びである狩猟や競馬、弁論(ディベート)、カードゲームやボードゲームなどを広く意味したものの、労働者階級が主流となる19世紀になると運動競技を用いた人格形成が重視されるようになり、整備されたルールに則って試合結果を記録として比較するような運動競技を"sport(s)"と言うようになり、そのような形で整備された陸上競技や野球、サッカーなどが明治から大正時代にかけて「スポーツ」として日本に輸入された、という経緯があるそうです。"sport(s)"という語がもつこのような重層的な歴史が、「スポーツ」に「運動競技」的な意味と「娯楽」的な意味の双方を与えているのでしょう。
そういう視点から「コンピュータゲームはスポーツか」と考えると、「娯楽」という意味ではスポーツだが、「運動競技」的な意味ではスポーツと言い難い、ということになりそうです。コンピュータゲームが「運動」にならないことは言うまでもないものの、筆者はコンピュータゲームは「競技」にも成り得ないだろうと考えています。
コンピュータゲームと競技
なぜコンピュータゲームが「競技」に成り得ないのかと言うと、「技」を「競う」ためには技以外の条件は全参加者に平等でなければならないものの、コンピュータゲームではその前提が成立しづらいと思うからです。
いわゆるネットワークゲームの類いでは、「チート」と呼ばれるツールの使用は論外としても、参加者それぞれが使っているPCの性能が違いますし、ネットワーク環境やそのゲーム専用のゲームパッド等によって有利不利が生じます。
それらを平等にするために、全参加者を1つの会場に集めて、PC環境やネットワーク環境を平等にしたとしても、「コードに関する知識」の不平等は残ります。
陸上競技やサッカー、野球等においては、自然法則は全ての参加者にとって平等です。すなわち重力の法則は全ての参加者に等しく作用しますし、摩擦係数や反発係数等の物理定数も同じです。
一方、コンピュータゲームの世界では、これら全ての法則がソフトウェアによって定義されるため、全ての参加者に等しく作用するわけではありません。
F1やサッカー、野球といったゲームでは、可能な限り自然法則を模倣していると思うものの、格闘ゲームなどではキャラクターごとに重力や摩擦係数が異なっているのがあたりまえです。それを設定するのがソフトウェア、すなわちコードであり、コードに関する知識を持つ人は、いわばゲーム世界の法則を知っているわけで、そうでない人に対して絶対的な優位性を持つことになります。
もちろん、大規模なeスポーツ大会においては、採用しているゲームの関係者の参加等はチェックされると思うものの、直接的な関係者ではなく、関係者から内部情報を教えてもらった参加者までをチェックすることは不可能でしょう。
また、ゲーム世界に関する知識には、ソースコードそのものを知っているか否かだけでなく、いわゆる「裏技」や「バグ技」といったノウハウも含まれます。もちろん、eスポーツのトップ選手になれば、それらは「知っていてあたり前」の知識でしょうが、全参加者が等しく知っていなければ、「競技」の前提となる平等性は保証できないでしょう。
そう考えていくと、コンピュータゲームを、選手の才能や長年に渡って積み重ねてきた技術を競う「競技」の場にするには、ソースコードを公開し、バグや仕様も含めたゲーム世界の構成原理を参加者全てに明らかにする必要がある、ということになりそうです。
最近では、さまざまな企業が協賛し、莫大な優勝賞金が懸けられた「eスポーツ」イベントが開催されてはいるものの、そこで採用されているゲームは特定の企業が開発したproprietaryなソフトウェアばかりです。そのようなソフトウェアを使う「eスポーツ」は、「娯楽」としてのスポーツではあり得るものの、「競技」としてのスポーツには成り得ない、というのが筆者の考えです。
IOCは「暴力的なゲームはオリンピック精神にそぐわない」として「eスポーツ」をオリンピック競技に採用することに否定的な見解を出しています。この見解は「暴力的でないゲームならば競技種目に採用することもあり得る」とも読めるものの、本稿で論じたように、オリンピック等で競う「競技」になりうるかはゲームの種類ではなく、「平等性」を保証するためのソースコード公開の有無だと思います。
また、どんな人気のあるゲームでも、ソースコードを公開しないproprietaryである限り、せいぜい10年弱の寿命しかないでしょう。それに対し、OSSとして開発されているLinuxはすでに30年弱(1991年公開)、Emacsに至っては40年以上(1976年公開)の歴史を誇ります。このあたりを考えても、「eスポーツ」が「競技」として歴史を刻んで行くためには、ソースコードを公開し、proprietaryな縛りを無くすことが必要でしょう。