続・玩式草子 ―戯れせんとや生まれけん―

第26回intrusion of inclusive terminology

激動の2020年も残り2週間を切りました。COVID-19の世界的な大流行は従来の生活を大きく変化させ、新しい生活様式の模索があらゆるところで続いています。

一方、Linusさんを代表とするLinuxの開発者たちは、すでにリモート開発の仕組みを完成していることもあり、COVID-19騒動とは無関係にカーネルの開発を続け、12月には5.4系以来のLTS(Long Term Support)となる5.10がリリースされました。

もっとも、⁠技術的な正しさ(right thing⁠⁠」のみを追求し、社会の動向とは無関係に見えるlinuxにも時代の潮流は確実に影響しています。その一例が今回紹介する"inclusive terminology"の採用です。

coding-style.rstとinclusive terminology

Linuxのソースコードには多数のドキュメントが付属しています。そのうちのひとつcoding-style.rst(Documents/process/coding-style.rst)という文書には、カーネルコードを読み易くするために守るべきスタイルについて記載されています。

この文書には「TABはスペース8つ分だから、インデントもスペース8つ。ネストが3段以上になって読みづらいなら設計が悪いのでswitchやcaseを使って書き直すべし⁠⁠、⁠1行は80文字以内で⁠⁠、⁠{}の位置はK&Rスタイル⁠⁠、⁠ローカル変数の名前は短かくわかりやすく、グローバル変数の名前は説明的に⁠⁠、⁠関数は短く簡潔に、1つの機能のみを果すべし⁠⁠、等々、カーネルコードを書く際の注意点が、Linusさんお得意のユーモアと皮肉の効いた文体で列挙されています。

この文書はかなり古く(少なくともLinux-2.0のころ)から存在し、適宜、加筆や修正を繰り返しながら引き継がれていて、2020年7月にはこんな項目が追加されました。

シンボル名やドキュメントでは'master/slave'や'blacklist/whitelist'
という語を新たに使うことを避けること。

'master/slave' の置き換えには以下のような語を推奨する。
    {primary,main} / {secondary,replica,subordinate}
    {initiator,requester} / {target,responder}
    {controller,host} / {device,worker,proxy}
    leader / follower
    director / performer

'whitelist/blacklist' の代わりには以下の通り。
    denylist / allowlist
    blocklist / passlist 

これを読んだ時、筆者は「いよいよカーネルのソースコードにもinclusive terminologyが適用される時代が来たのか」暗澹あんたんたる気分になりました。

もちろん、これらの語は新たに使うことを避ける(avoid introducing new usage⁠⁠」となっていて、既存のコードやドキュメントからすぐに追放されるわけではないものの、⁠マスター」⁠スレーブ」という単語はサーバ/クライアントモデルのソフトウェアや送受信を随時切り替えるネットワーク系のソフトウェアでは技術用語として定着しているし、⁠ブラックリスト」は既に日本語として経済や金融の分野でも広く使われているので、⁠奴隷制」「人種差別」を連想させるから使うべきではない、と言われても、何だかなぁ……という気になってしまいます。

この動きは「ポリ・コレ(political correctness)運動」の一環、⁠性や人種、年齢、障害の有無等で人々を差別しない」ためのinclusive terminology(包括的用語法)という名で広まっていて、日本でも「看護婦」「看護士」「看護師」に改めたり、⁠スチュワーデス」「キャビン・アテンダント」に言い換えたりする例が知られています。

似たような動きは、いわゆる「放送禁止用語」としても広く知られ、身体に障害のあることを表現する類いの言葉を「○○の不自由な人」と言い換えたり、古い映画を放送する際にそれらの言葉をマスクしたりする例がよくあります。

同種の問題は分類学の世界でも起っていて、日本魚類学会では「メクラウナギ」「ヌタウナギ⁠⁠、⁠オシザメ」「チヒロザメ⁠⁠、⁠イザリウオ」「カエルアンコウ」等、いわゆる「差別用語」を使った標準和名を改名することにしたそうです。

もちろん、聞く人を傷つけるような言葉は使うべきではないものの、だからと言って、単純に「差別用語」を無くせばそれで済むのか、と言うと、大いに疑問が残るところです。

というのも、⁠差別を無くす」ことと「差別用語を無くす」ことはイコールではなく、単に「差別用語を無くせばいい」という短絡的な考えは、さらに深刻な問題を引き起している気がしてならないからです。

意識の網の目としての「ことば」

東洋思想や言語哲学の泰斗、故井筒俊彦先生によると、我々は「世界そのもの」を直接認識することは不可能で、⁠言語」というフィルターで「世界そのもの」を文節化して初めて、外界としての「世界」を認識できるようになるそうです。

言い換えると、混沌たる「世界そのもの」「言語」という網を掛け、その網に引っかかった部分だけが我々の認識できる「世界」である、と考えることができるでしょう。

この「言語」が作るネットワークの結節点、すなわち網の目にあたるものを「ことば」と呼ぶことにしましょう。

「ことば」の粒度(細かさ)は文化や対象によって異なり、たとえば日本語には五月雨さみだれ時雨しぐれみぞれ⁠、あられ⁠梅雨」⁠夕立」⁠霧雨」⁠春雨」⁠秋雨」小糠雨こぬかあめ等々、雨に関する単語が多数存在します。

これは年間降水量が世界平均(880ml)の2倍(1718ml)に逹する風土と、水の管理が重要な水稲稲作農業が人々の意識に反映した結果でしょう

同様に、極北の地に住むイヌイット(エスキモー)の人々は「雪」に関する語彙が豊富で、西アフリカの牧畜民には、⁠牛」を性別や年齢だけでなく、毛並みやサイズ、性質等で区別する多数の語彙があると聞きます。

すなわち「ことば」の網目のサイズは関心によって左右され、細かいほど「世界そのもの」から微妙な差異をすくいあげられるわけです。

逆に言うと、網目のサイズが大きくなると、れども見えず、けども聞こえず」と言うように、⁠世界そのもの」から掬いあげれる情報が減り、多くの部分が意識されないままになってしまいます。

いわゆる「差別用語」には、歴史的な推移の結果、人々の負の感情と強く結びついたものが多くあります。そういう「差別用語」を無くそうという運動は、負の感情を掬いあげる際の「ことば」の網目を広げてしまうことにならないだろうか、そして掬いあげられず無意識の領域へと沈殿していった感情は、地下に溜るマグマのように堆積していき、それが「こころ」の限界を超えた時、爆発的に発現して暴力的な言動に走ってしまう、これがキレるという現象なのではないでしょうか。

この種の「キレた」犯罪を犯した人に動機について尋ねると、⁠ムカついた」から、と答える例をよく耳にします。この「ムカつく」という語は、無意識下でうごめく情動を掬いあげるための、彼らにとっては唯一の「ことば」なのでしょう。

従来、日本語にはねたみ」そねみ」うらみ」ひがみ」といった負の感情を表わす「ことば」がいろいろありました。また、仏教では、瞑想によって自らの心の奥底を探っていくことで、とんじん「三毒」をはじめ、さまざまな煩悩を見つけてきました。

一方、最近の教育では、このような「負の感情」を持つこと自体が良くないこととされ、それらを表わす言葉ごと意識の世界から追い出そうとしているように感じます。

もちろん、こういう「ことば」を知っていればキレなくなるわけではないものの、心の中のモヤモヤ、すなわち無意識下の蠢動を掬いあげるための「ことば」があれば、そのモヤモヤの内容を意識の元に照らしだし、より合理的な解決方法を考えることもできるようになるはずです。

そういう視点からいわゆる「ポリ・コレ運動」を眺めると、負の感情を扱えなくなった教育と同様、⁠差別」の問題を見えにくくすることで潜在化、無意識化してしまい、より解決困難で深刻な状況を作り出しているような気がして仕方ありません。


"coding-style.rst"に追加された文言を元にあれこれ考えてみたものの、Linusさん自身が上記文言を追加した際のコミットログを見ると、⁠議論も落ちついてきたようなので、さっさとマージしておく」という感じで、⁠技術的な問題はいくらでも議論するけど、それ以外には積極的に関与しない」という彼のスタンスは、若いころの"Linux is obsolete."論争時代から不変だなぁ……と改めて感じるところです。

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