爽やかな風や木々の新緑が心地よかった時期もあっと言う間にすぎて、今年は例年よりもずいぶん早くに梅雨入りとなりました。
もっとも、ここ数年、4月、5月は某所で非常勤講師をやっているため、そちらの方に時間が取られてしまい、行楽はおろか、Plamo Linuxの開発も停滞してしまいます。昨年までは、非常勤講師モードが始まる前に新しいバージョンをリリースしていましたが、今年は64ビット化の影響もあって、新バージョンをリリースできずに非常勤講師モードに入ってしまいました。
非常勤講師モードに入ると授業の準備が最優先になってしまい、なかなかソフトウェアとたわむれることもできません。そのため、ここ2ヵ月ほどは、この連載のネタにも困っています(苦笑)。
そこで今回は、普段とはやや趣向を変えて、筆者が担当している授業ではどのようなことを扱っているのかを簡単に紹介してみることにします。
公文情報社会論
筆者が担当しているのは「情報社会特論」という科目で、我々が生きている現代社会を、主に公文情報社会論の言う「智のゲーム」という視点から考えてみることを目的としています。公文情報社会論とは、現在、多摩大学情報社会学研究所の所長の公文俊平先生が提唱する情報社会の見方で、「ゲーム理論」の考え方を流用して社会のさまざまな変化を考えようという社会論です。
フォン・ノイマンらが理論化した「ゲーム理論」は、チェスやポーカーのようなゲームをさらに一般的に拡張した考え方で、与えられた場の中で、複数の独立したプレイヤーが、相互に影響を与えながら、ある目的を果すのに必要な戦略について研究する、という学問分野です。この「ゲーム理論」の考え方を流用して、我々の社会の発展の歴史を眺めてみよう、というのが公文情報社会論の考え方です。
公文情報社会論では、近代社会の発展の過程を「国家化」「産業化」「情報化」の3つの段階として捉えます。近代初期の「国家化」の段階では、中世の宗教的な権威から脱した「近代国家」が主なプレイヤーとなり、武力を背景とした強制や脅迫を相互に交しながら自国の領土や国民を増やし、国家の威信を高めることを目標とする「威のゲーム」が行なわれていた、と考えます。
その後、経済システムが発達するにつれ、「企業」というプレイヤーが目立つようになります。領土や国民を増やすことを目的した「国家」とは異なり、「企業」にとっての目的は、より多くの利益を上げることです。この変化を、社会を動かすゲームの中心が「威のゲーム」から「富のゲーム」へと変わった、と考えます。すなわち、「産業化」の段階では「企業」というプレイヤーが、世界規模に拡大した市場で、他の「企業」と相互に取引や搾取を行いながら、より多くの「富」を集める「富のゲーム」を行っているわけです。
そして、現代の「情報化」の段階では、さらにそのゲームの種類が、自分が「いい」と思うこと、「面白い」と思うことを広めようとする「智のゲーム」に変わりつつある、というのが公文情報社会論の基本的な視点となります。
図1に示したのが、公文情報社会論の見る近代社会の発展過程の模式図です。詳細は触れませんでしたが、それぞれの「ゲーム」の発展過程を含め、あらゆる社会現象がS字曲線の形に従って成長し、そのS字曲線もフラクタル図形のように、拡大率を変えればより小さなS字曲線の重畳に見えたり、より大きなS字曲線の一部に見えたりすると考えるのも公文情報社会論の特徴のひとつです。
情報社会論的に見た近代史
この視点の面白いところは、それぞれのプレイヤーは自らが「ゲーム」に参加していると意識しているわけではなく、それぞれの目先の目標のみを追い求めているのにもかかわらず、その結果を全体として見れば「ゲーム」として解釈できる、というところです。
西ヨーロッパに生まれた「近代国家」は、他の国家に侵略されないように国力を高め、隙あらば他の国家を侵略してより広い領土と領民を得ようとしてきました。その際、それぞれの国家は他の国家をだし抜いて少しでも強くなることを目的としていました。
この歴史は、一歩下って眺めると、ちょうど歴史シミュレーションタイプのコンピュータゲームのように、「地球の表面」というゲームの場において「国家」というそれぞれのプレイヤーが、独自の戦略を駆使して領土を広げる「陣取り合戦」を行ってきた過程と解釈することができるでしょう。
同様に、産業革命の結果、商品を大量に生産、流通させることができるようになった「企業」は、市場で「商品」を売りあげて利益を上げることが直接的な目的で、原材料や生産・流通の仕組み、必要な労働力などをいかに安く入手し、高い利益をあげるかに知恵を絞り合います。
この歴史も一歩下って眺めると、世界規模に広がった「市場」というゲームの場において「企業」というプレイヤーが、独自の戦略を駆使してより多くの富を集めようとしてきた過程と解釈できるでしょう。
一方、このような視点から現代社会を眺めてみると、既存の「ゲーム」とは異なる、新しい種類の「ゲーム」が広まってきたことを感じます。その代表例が、Linuxの開発に代表されるオープンソースソフトウェア(OSS)の活動で、たとえばLinuxというソフトウェアが「好き」で「面白い」と感じる人々が、「国のため」でも「お金のため」でもなく、自分が「いい」「面白い」と思うから、インターネットを通じて集い、議論を重ねて、ソフトウェアを育て、世間に広めていくことを目指しています。
表1 公文情報社会論で見る近代化の各段階
| 国家化 | 産業化 | 情報化 |
メイン・プレイヤー | 主権国家 | 営利企業 | 情報智業 |
サブ・プレイヤー | 臣民、国民(nation) | 市民(citizen) | 智民(netizen) |
ゲームの場 | 地上(地球表面) | 市場(国際的な経済ネットワーク) | 智場(インターネット) |
直接目的 | 領土・人民の獲得 | 商品の大量廉価な生産 | みんなで活用できる知識・情報の生産 |
究極目的 | 獲得した領土・人民を国際社会に認めさせて、国威を発揚すること | 生産した商品が市場で評価され、利益を上げ、富を蓄積すること | 生産した知識・情報が智場で評価、支持されて、評判・名声を蓄積すること |
なぜ? | 国威を発揚すれば、他のプレイヤー(国家)よりも優位に立てる | 富を蓄積すれば、他のプレイヤー(企業)よりも優位に立てる | 評判・名声を蓄積すれば、他のプレイヤー(智業)よりも優位に立てる |
どうやって? | 脅迫・強制力(軍事力)の利用。そのような力を抽象化すると「威」 | 取引・搾取力(経済力)の利用。そのような力を抽象化すると「富」 | 説得・誘導力(影響力)の利用。そのような力を抽象化すると「智」 |
この種の活動を「威のゲーム」や「富のゲーム」に対する新しい「智のゲーム」と捉えると、このゲームのプレイヤーは「国家」でも「企業」でもない、新しい集団になります。従来、このような集団は「非政府組織(NGO)」や「非営利団体(NPO)」のように、「‥ではない人々」としか捉えられませんでしたが、そのような集団を「企業」に対して「智業」、インターネットを介してつながりながらそれら智業に参加する人々を、「市民(citizen)」に対する「智民(netizen)」と見て、既存の「威のゲーム」や「富のゲーム」と比較検討しながら、この新しい「智のゲーム」のあり方について考えていこう、というのが公文情報社会論の中心的な考え方になります。
「智のゲーム」との出会い
筆者がこの考え方に強く魅かれたのは、MITやスタンフォード大学のハッカーたちが生み出し、リチャード・ストールマンのGNUプロジェクトが受けつぎ、さらにLinuxからOSSへと大きく展開していくひとつの文化の流れが、「智のゲーム」の発展過程として考えればきれいに整理できるところからです。
筆者自身、大学院生のころに初めてGNUソフトウェアに触れ、メーカー製のソフトウェアよりも高機能なソフトウェアが無償で利用できることに感動して、GNUプロジェクトやその背後に流れるハッカー文化の歴史に興味を持ち、スティーブン・レヴィの「ハッカーズ」や"jargon file"などを愛読していました。
その後、Linuxに出会い、自らその普及活動にも参加して、同じ志を持つ仲間たちと議論を重ね合いながら、新しい何かを作りあげていく「楽しさ」や「面白さ」を経験してきましたが、その際に常に感じていたのは「何の儲けにもならないのに」という疑問です。
「何の儲けにもならないのに」なぜ世界中の優れたプログラマがGNUプロジェクトやLinuxの開発に参加するのか、なぜそのような動きが、自分も含めて、より多くの人々の参加を得て広がってきたのか、昔から持っていたそれらの疑問が「智のゲーム」という視点から見ればきれいに理解できました。
すなわち、「命の価値」すら金銭に換算するように、私たちは金銭をあらゆる価値の尺度と見なしがちですが、そのような価値観は近代社会の「産業化」段階を支配していた「富のゲーム」の中で形づくられた時代精神に過ぎず、より長いスパンで見れば「ゲーム」自体も変わり、それに伴なって人々の価値観や生きる意味も変わっていく。現代社会はまさにそのような「ゲーム」が変わりつつある時期で、ハッカーと呼ばれた人々や彼らの価値観を受け継いだGNUプロジェクトは、新しい「智のゲーム」の先駆者であり、インターネットの普及にともない、時代が彼らの切り開いた方向へ進んできている。
そう考えた時、学生時代から抱いていたさまざまな疑問がきれいに整理でき、目からウロコが落ちたような感動を覚えました。
さまざまな「智のゲーム」
紹介してきた「ゲーム」は、別の見方をすれば、他のプレイヤーを動かすための「力」が変化してきた過程と見ることもできます。「威のゲーム」において他のプレイヤーを動かすのは文字通りの「武力」や「軍事力」でした。「富のゲーム」においては「お金」に代表される「経済力」が他のプレイヤーを動かす力になりました。同様に、これからの「智のゲーム」においては「影響力」が他のプレイヤーを動かす力になっていくでしょう。
「智のゲーム」では、内容が広く公開され誰でも利用できる知識や情報(これらを広く「智」と考えます)を作りだして広く普及させることがゲームの直接目的です。そのような「智」をより多く生み出して、智民たちのより多くの支持を得た「智業」ほど、より強い影響力を持ち、他のプレイヤーよりも優位になります。GNUプロジェクトやLinuxの開発プロジェクトが、そのような「智業」の代表例で、リチャード・ストールマンやリーナス・トーバルズの言葉が重みを持つのは、彼らが成功した「智業」のリーダーとして、広く「智民」の支持を得ているからに他なりません。
一方、インターネットの急速な普及により、ソフトウェア開発以外のさまざまな分野にも「智のゲーム」が広まってきました。たとえば、YouTubeやニコニコ動画といった動画投稿サイト、FlickerやPixivといった写真やイラスト投稿サイト、さらにはブログやクチコミサイトなど、最近ではユーザが投稿するコンテンツで成立しているサイトが多数存在します。これらのサイトでは、直接の金銭的なメリットは無いにもかかわらず、多数のユーザが自分の作品を投稿し、それらの中にはずいぶん手間ひまをかけたプロ顔負けの作品も少なくありません。
このようなサイトが成立するのも、自分が「いい」「面白い」と思うことを広めたい、また、それによって他の参加者からの支持を得たい、評判を高めたいという「智のゲーム」の価値観が世間に広まってきたことを示しているのでしょう。
これらのサイトには、投稿された作品ごとに閲覧数が表示されたり、他の参加者によるコメントや評価が自由に登録できたりと、参加者が積極的に関われるような仕組みが施され、それが投稿者のモチベーションにもなっているようです。
さらにインターネットそのものを考えてみても、TCP/IPに代表されるインターネットのさまざまな機能は、ボランティアで集う技術者の任意団体であるIETFで議論され、RFCとして公開されたプロトコルに基いて築きあげられてきました。
これらの活動に参加する人々も、自分のアイデアを企業のプロプライエタリなサービスとして提供してお金を稼ぐことよりも、それらを無償で公開して、より広く普及させることに価値を見い出しているように思えます。そのような人々の努力の積み重ねで、明確な中心を持たない自律協働ネットワークとして成長してきたインターネットは、「智のゲーム」の舞台であるとともに「智のゲーム」の最も偉大な作品とも言えそうです。
このような視点からインターネットを考えると、現在インターネットが直面しているさまざまな問題も、過去の「ゲーム」と「智のゲーム」の間の摩擦と見ることができるでしょう。たとえば、誰がインターネットを管理すべきか、というインターネットのガバナンスの問題は、「威のゲーム」と「智のゲーム」の摩擦と考えられますし、P2Pを利用した違法アップロード問題は「富のゲーム」と「智のゲーム」の摩擦と考えられそうです。
国家とインターネットの摩擦はWikiLeaksのような形で先鋭化すると共に、「ジャスミン革命」のような民主化運動として発現していますし、GPLのような「コピーレフト」の概念やCreativeCommonsのような運動は「富のゲーム」のルールである著作権に対する「智のゲーム」からの挑戦と見ることもできます。新しいゲームが広まるほど既存のゲームの既得権益者からの反発は強まることでしょう。このようなゲーム間の相互作用がどのような未来をもたらすのか、興味は尽きません。
ずいぶん駆け足で概要を紹介してみましたが、筆者が担当している「情報社会特論」ではこういった視点から「情報社会」である現代社会の諸現象を考えています。このような話題に興味がある人はぜひ受講を、と言いたいところですが、受講者の少ない授業の上、単年契約の非常勤講師の身分なので、来年度も授業をしている保証はありません(苦笑)。そのため、興味ある人がいれば、この連載の中でも時折「情報社会論」的な話題を取り上げてみようかと考えています。