8月も下旬になってくると、日中の残暑は厳しいものの朝夕はずいぶん涼しくなってきました。昼間はまだまだセミが頑張っていますが、夜になると秋の虫の音が響くようになり、一月前には山の上の方にいた赤とんぼも田んぼまで下りてきて、季節の移ろいを感じさせます。水田の稲もそろそろ穂を垂れはじめました。
筆者は大学時代から二十数年間、実家を離れて京都や東京に暮していたものの、年をとるにつれ、季節の変化を身近に感じられる田舎の生活ペースが心地良く感じられるようになってきました。
伝統行事と「お講」
筆者の場合、高校までは地元にいたため、二十数年ぶりに帰ってきたといっても、かつての友人、知人は残っているし、父親の代替わりとして村のつきあいにもスムーズに溶けこめました。
しかしながら多感な青年期(笑)を都会で過したこともあり、久しぶりに戻ってきた田舎ではカルチャー・ショックを受けることもよくありました。そのひとつが参加を強制される各種行事の多さです。
都会に一人暮ししていると、案内等は来るものの、地区のほとんどの行事は自由参加で、興味が無ければ無視して過すことができます。
一方、田舎の場合、田植えの前に水路の草刈りや掃除をする「溝草」や稲刈り前に農道を整備する「道普請」といった共同作業をはじめ、元日の朝に地元の神社に参拝する「地起こし」、田植えの後に豊作を祈願する「水固め」、お盆の前後の「堂参り」、布団屋台を2日間練り歩く「秋祭り」等々、「村」の住人全員参加が前提のさまざまな伝統行事が現在も残っています。
そのような伝統行事の中で、これは面白いな、と思ったのが「お講(伊勢講)」です。「お講」といっても多くの人はご存知ないと思うので、少し詳しく説明しておきましょう。
「伊勢講」は、室町時代に始まり、江戸時代に全国的に広まった、「お伊勢さん参り(伊勢神宮参拝)」をするための仕組みです。
天照大神を祭っている伊勢神宮は日本の神社の総元締めとして古くから信仰を集め、多くの人が一生に一度は「お伊勢さん参り」をしたいと思っていました。しかし、交通手段が徒歩しかない当時、伊勢神宮の参拝には膨大な費用と時間がかかります。
「お伊勢さん参り」はしたいけれどまとまった金がない、そういう人たちが集まって「講」を組み、各自が出せる程度のお金を集めて、年に一度くじ引きで当選者を決め、当選者が「講」の代表として集めたお金で「お伊勢さん参り」をする、一度くじに当たった人は翌年からはくじを引く権利を失なうものの、「講」の参加者全員が参拝するまではお金を出し続けなければならない、そういう形で人々に伊勢神宮へ参拝する機会を提供したのが「伊勢講」です。
本来、「講」というのは「同じ信仰を持つ人々の集まり」を意味し、定期的に集まってお参りをする「念仏講」や「観音講」、富士山や伏見稲荷に詣でるための「富士講」「稲荷講」など、さまざまな種類の講がありました。また、上述のように「講」はお金を集める仕組みでもあり、共同体内部で金銭を相互扶助するための「頼母子(たのもし)講」や「無尽講」、あるいはそれらを悪用した「ねずみ講」などにも名前が残っています。
これらの「講」は、貨幣経済が急速に発達した江戸後期から昭和初期に渡って全国で広く行われていたものの、戦後、くじ引きで当選者を決めることなどを「賭博」を見なしたGHQが禁止令を出し、多くの「講」が解散したり、賭博と見なされないように形態を改めることになりました。
「お講」と古文書
筆者の地元には、形態を改めた「伊勢講」が現在も残っていて、年に2度「お講」として集って飲食すると共に5千円づつお金を集め、5年に一度、全員で伊勢神宮にお参りしています。
この「お講」には、輪番制で一年交替の「当番」が、「東」「中」「西」の地区ごとに一軒ずつ決まっていて、毎月2度、神社に参拝して境内の掃除をすると共に、年始行事等の準備や会食の手配をすることになっています。
この「お講」の当番は関係書類を収めた「文箱」を引きついでいます。最近の書類は輪番を確認するための「何年の当番は誰」を記載した程度の簡単なものですが、文箱の中には和紙をこよりで綴った、見るからに古そうな文書も残っています。
以前から、これらの文書に興味を持っていたものの、古い文書は崩し字で書かれていてそう簡単には読めそうにありません。一方、経年劣化と虫食いで、紙の状態はかなり悪くなってきています。
そこで、ちょうど昨年から「中」地区の当番になっていて、文箱が手元にあったのをいいことに、入っている文書をスキャナで読み取って、画像ファイルとして保存しておくことにしました。
引きついだ「文箱」の中にある文書を広げてみたところ、時代劇に出てくる大福帳のように、半紙大の和紙を縦に2つ折りにして横向きに使い、表裏に記載して片側で綴った冊子が3冊ありました。ざっと見、これらが最も古そうです。
一方、とじられていない文書はサイズや書式、書かれた時期もまちまちで、適当に折りたたまれた一枚もの以外に、「御當状様入」と書かれた紙に包まれた文書などがあります。
手元のスキャナと見比べると、半紙大のサイズの2つ折りならば何とか原稿台に収まりそうなので、文書は1枚ずつ、できるだけシワを伸ばすように台紙に固定して、表裏それぞれをスキャンすることにしました。綴られた文書も順番を崩さないように注意しつつ1枚ずつにバラし、スキャン後、元のように綴じておきました。
画像のスキャンにはxsaneを使い、以後の作業のマスターになることを考えて、解像度は普段よりも高めの300dpi、24ビットカラーのPNG形式で保存することにしました。
原稿台のサイズの都合で表裏は別々にスキャンしなければならないものの、それらを独立のファイルに保存すると後から「このページの裏はどれだっけ?」ということになりそうです。そこで表裏の画像を一枚にまとめてしまうことにしました。このような作業にはgimpが便利です。
gimpには[ファイル]→[画像の生成]に、xsane経由で画像を読み込む[XSane:デバイスダイアログ]という機能があり、これを使えばxsaneで読み込んだ画像データをgimpで直接操作することができます。
xsaneからgimpへのデータのやりとりはメモリを介して行なわれ、複数枚の画像を同時に取り込んで処理することも可能なので、スキャンした表裏の画像をそれぞれgimpの作業用バッファに取り込み、画像を横置きに変更してから、縦のサイズを倍にした新しい作業用バッファを作って、そこに2枚の画像を上下に並べて貼りつける、という作業も簡単です。
こうして作った表裏が1つになった画像ファイルを、冊番等を示すファイル名を付けたPNG形式でexportしてやれば、「一丁あがり」となります。
当初、これらの作業はマウスを使ってgimpのタブ・メニューを辿りながら行なっていたものの、1つの操作ごとにマウスに手を伸ばして移動、選択を繰り返すのは面倒です。同様の感想を抱くユーザが多かったのか、gimpではほとんどの操作がキーボード・ショートカットで実行できるように設計されていて、タブ・メニューから選択できるほとんどの操作にキーボード・ショートカットが割りあてられています。
たとえばxsane経由で画像を読み込むには"Alt+F"(「ファイル」)->"t"(「画像の生成」)で、読み込んだ画像を横向きにするには"Alt+I"(「画像」)->"t"(「変形」)->"c"(「右回りに90度回転」)、新しい作業用バッファを作るには"Ctrl+N"(「新しいファイル」)、読み込んだ画像のコピーは"Ctrl+C"、作業用バッファの切り替えは"Alt+Tab"、コピーした画像データを貼り付けるのは"Ctrl+V"です。
キーボード・ショートカットは覚えるまでは大変なものの、指が覚えてしまえばマウスに手を伸ばす回数がぐっと減り、作業効率はずいぶん改善します。このようなテクニックを駆使してスキャンした「中」の組の「お講」文書は、綴られている三冊がそれぞれ48丁、43丁、10丁あり、綴られていない文書は修正用上張りとおぼしき断片も含めて42枚ありました。
とりあえず文箱にあったこれらの文書を画像ファイル化してファイルサーバに収め、破損を気にせず好きな時に閲覧できるようになったので、大人の「夏休みの自由研究」として(笑)、これらの文書の読解に取りかかることにしました(続く)。