グラフィックファシリテーターのやまざきゆにこです。さて、今回は、「どうやって議論をまとめているんですか?」「どうやって議論を構造化しているんですか?」という質問に答えます。
といっても、この質問を受ける度に、私の思考はいつも「???」と止まってしまっていました。議論を「まとめよう」とか「構造化しよう」なんて、考えたこともなかったからです。
一方で、「ホワイトボード」で上手に図式化されたり、議論が整理されていくのを見て、自分の描く「グラフィック」との大きな違いやギャップに驚くことが多々あります。
「ホワイトボード」上で議論しているときの視点と『グラフィックファシリテーション(※以下、GF)』の視点とでは何が違うのか。今回はそんな比較から、日頃の会議やブレストで使える思考のヒントを探してみました。
「本音」を削ぎ落とし過ぎてはいませんか?
Q1:「ホワイトボード」でも、絵を描けたらもっと議論が深まったりしそうでいいなと思います。
- A1-1:もし「ホワイトボード」に描き足すなら、
「絵」ではなく、みんながつぶやいた「本音」
ある会議で、今後の戦略を(MECEを使って)"ヌケモレなく"10もの項目について検討しているとき、私が描いていたグラフィックには、2つの項目のことばかりが絵になっていたということがありました。
私は「みんなが一番力を入れたいのはここかあ」と思っていました。
でも、ふと「ホワイトボード」に目をやると、議論がきれいに表に納まっていてビックリ! 10もの項目すべてについて1つずつ全員で検討して、その中から重点項目を絞り込む議論をしている。その緻密さに感心すると同時に、「あれ? みんながやりたいのはこの2つなんじゃないの?」と驚きました。
GFでは、"フレーム"に納まりきらない「つぶやき」もつい拾ってしまう。しかも、それが一度ではなく二度も三度も聞こえてくると(それも1人だけでなく、3人、4人と同じことを言っていると)、「本当はこう思っている」という「本音」が絵の中に残ってくるんです。
- A1-2:経営者が知りたいのは、きれいな研修報告よりも
みんなの「本音」
GFを活用してくださる経営者の方から期待されることの1つに「うちの会社を第三者の目からどう見えるのか見てみたい」という声がありますが、その言葉の背景には、以下のような声があります。
- 「いくら研修で本音を引き出しても、最終的なアウトプットにするとみんなきれいにまとめてきちゃうんだよ」
- 「こうしたほうがいいという本音が出ているはずなのに、戦略に落とし込むと今までと何ら変わり映えがしない」
- 「最終的に出てくるコメントは、みんな真面目なんだよ」
研修実施の目的やゴールには「ビジョン策定」「来期の事業戦略立案」「社員の意識改革」や「組織活性」といったことを挙げられていますが、じつは経営者の方が知りたがっているのは、従業員の方々の「本音」なのだと感じます。「『本音』が見えないと『本気』になんてなれない」と言っているようにも聞こえます。
「ホワイトボード」にもし絵を描きたいと思うなら、それよりも、まずは皆さんのちょっとした「つぶやき」も意識して書き添えてみてはどうでしょう? 「発言」の背後にある意図や思いが目に見えるだけで、ぐっと議論が変わると思います。GFは「絵にすること」がフォーカスされやすいのですが、後々の議論の流れを変えてくれたり、堂々巡りの議論に終止符を打ってくれる力があるのは、実は、議論の合い間に聞こえてくるそんな「本音」の部分だと思うんです。
まとめようと先を急ぎ過ぎてはいませんか?
Q2:絵を描く時、何か決まったルールがあるんですか?
- A2:「GF」では"ルール"や"フレーム"に
当てはめようとすると、ウソの絵になる!
GFを始めた当初は、例えば「メインテーマは真ん中に描こう」とか「重要そうな発言は赤色で描こう」と"ルール"を決めてから描き出したこともありました。
でも、実際に議論が始まると、メインテーマと思われるその言葉を紙の真ん中に描くのがどうも居心地が悪かったり、重要そうと思える言葉は赤よりオレンジ色で描きたくてしょうがなかったり。
「最初に決めたルールに従おう」と思えば思うほど、筆を持つ手が迷ったり、止まったり、決めた色のサインペンを探して無駄に時間が過ぎてしまったり。結局、大事な議論を拾い落としそうになり、やめました。
それに、何より、無理矢理、私が決めた"ルール"や"フレーム"に当てはめて描いてしまったとき、どこかその絵がとってもウソっぽかったんです。
Q3:ゆにさんの「GF」とは、絵を使って、議論を、ロジックツリーやピラミッドストラクチャーにプロットしていくような感覚ですか?
- A3:「GF」では"フレーム"に
納まりきらないものも拾っていく
「ロジックツリーやピラミッドストラクチャーを使って絵を配置していく」なんて考えたことがなかったので、その発想がとても新鮮で「試してみよう」と思ったこともあったのですが、やっぱりうまく使えませんでした。
それに、そもそも「ホワイトボード」と同じことを、ただ絵に置き換えるだけなら、私がそこに居る意味も必要も無いんですよね。
あるコンサルタントの方の言葉を借りるとわかりやすいかもしれません。
- 「僕達は"フレーム"を使って思考を整理していくけれど、ゆにさんのGFは"フレーム"からこぼれ落ちたものも、すべて拾っているんですね」
ファシリテーターの方や参加者のみなさんが「ホワイトボード」を使って議論を整理したり、構造化するのと、その傍らで描く「グラフィック」とは "役割"がまったく違うんですね。そして、お互い"役割分担"しているからこそ、「ホワイトボード」に書かれているものとは全く違う構造や関係性が見えてくることに、価値を見出して頂いているんだと思います。
Q4:ゆにさんはホワイトボードに描いたりもするんですか?
- A4-1:「ホワイトボード」上の"1枚絵"と
「GF」で描く"絵巻物"とは目的・役割が違う
その日の議題やアジェンダ、ゴールが設定されている会議や研修で、「ホワイトボード」に書き出されるのは、ある明確な「目的」を達成するために書かれる"1枚絵"といえると思います。
一方、GFはその"1枚絵"をつくりあげるまでのみなさんの議論により添って描いていく"絵巻物"。そんな時間軸に従って描く"絵巻物"は、一枚の紙では足りません。また、議論の後、その描き取った時間を改めてみんなで共有したい、別の場で再現したい。そのためにも消さずに残しておける紙のほうが「ホワイトボード」よりも向いているんですね。
「目的」も持たずに描かせてもらっているとも言えます。そのおかげで、"絵巻物"には、「ホワイトボード」に書き出された発言の背景にある意図やストーリー、その場の盛り上がった空気や熱、そのときの議論の流れ、雰囲気などなど。なんでも拾って描かせてもらっています。
- A4-2:まとめようと先を急ぐよりも
ときには「寄り添う」気持ちで
そもそも、みなさんの前に立って議論を進行・促進する方(コンサルタント、ファシリテーター、その組織や議事のまとめ役といった方達)とは"役割"が違うんですよね。でも、描いている対象は同じ耳に聞こえてくる議論です。それゆえ、ときどき、傍らで議論を絵にしている私には、流れが途中で無理な方向に変わってしまう違和感を覚えることがあります。議論がいい盛り上がりをしているなあと思って描いていた筆の勢いと、まとめに入って描き出した絵がガラッと変わる。全く色も絵も違うものになる。つながらない。「あれ? 今までの議論はなんだったの?」というぐらい。
会議の上手な進め方とは、上手く議論を"まとめる"こと、少しでも"早く"結論を出すこと、かもしれません。でも、ときにそれが、私が無理矢理 "ルール"や"フレーム"に当てはめて描こうとしてしまったのと似た感覚を受けるときがあります。どこか「上手に議論を“まとめよう、まとめよう”」とする気持ちが強くなってしまうとき。それは無意識のうちに「ホワイトボードという小さな紙に納めなくちゃ」という意識が働いているようにも見えます。
特に会議などでは結論を急ぎがちです。でも、「ホワイトボード」は一見きれいにまとまっていても、何か大事なものを削ぎ落しては、結局、堂々巡りの議論を繰り返すという大きな無駄が発生しかねません。また、研修という非日常の場でせっかく活発な意見交換をしていても、結論としてまとめたら、想定通りの模範解答になってしまっては、時間をとって議論をした意味がない、なんてことになりかねません。
GFでは実際、皆さんの議論に寄り添った時間を描き、改めて振り返り眺めるという作業(グラフィックフィードバック、ダイアログ)をします。一見、遠回りしているように思えるこの時間が、結局は、ゴールへの近道を描かせてくれていると思っています。人がそこに集まりライブで交わした時間には、その後、結論やゴールに向かう大きな推進力が秘められているんです。
そこで、ときに、あえて「まとめよう」とはやる気持ちを抑えてみてはどうでしょう? 流れのまま流されてみる。フレームに当てはめることを放棄してみる。きれいに構造化しようとすることを休んでみる。 そんなふうに、結論へ辿り着く時間の使い方を、“緩・急”で意識的に使い分けてみてはどうでしょう? スピードを求められるビジネスの世界で、本当のスピードと力強さを求めたときに、ときにあえて思いっきり、議論に寄り添ってみるのも1つの得策だと感じていますがどうでしょう。
忠実に「語尾」や「感嘆詞」も書き出してみる
Q5:板書をするときのコツがあったら教えてください。
- A5-1:「聴く」こと。しかし、これが難しい。
気をつけたいのは、発言をすりかえてしまわないこと
会議で、みんなの意見が「ホワイトボード」に書き出されているのを見て、ちょっと心の中で「勝手な解釈で書き換えられてるなあ」と感じた経験はありませんか?
それは、GFで"ルール"や"フレーム"に無理矢理当てはめようとして描いてしまったときの気持ち悪さと似ています。
「今の話題は次の新しい紙に大きく描きたい!」と右手は感じたのに、頭で「とりあえず今の一枚の紙の中にまとめよう」と制御してしまい、小さく描いてしまったとき。結局、さらにその話題で議論が広がり「新しい紙に大きく描いておけば、この盛り上がりをもっと忠実に表現できたのに」と後悔したことがありました。
つい頭で考えて、自分の勝手な"フレーム"に当てはめてしまったんです。
そのグラフィックを何度見ても「ここに描くべきじゃなかったなあ」という気持ち悪い違和感だけが残ってしまった。参加者の方の共感度合いも低かった気がしてなりません。
「ホワイトボード」を使った議論でも、参加者の合意がなんとなく得られていないと感じたら、もしかして、ファシリテーターの眼には見えない"無意識のフレーム"に当てはめて書き取ってしまっていないか。発言をすりかえてしまっていないか。そんな自戒の念を持って「ホワイトボード」を1度見直してみるのは1つの方法かもしれません。
- A5-2:いかに"頭"で考えないで、
感じたままに描けるか、ということばかり考えている
私の感覚では、「耳」から聞いたみなさんの「発言」を→〈できる限り私の「脳」を通さず〉→「筆を持つ手」に直結させたとき。参加者から「そうそう!そんな感じ!」という反応をいただきます。
〈できる限り私の「脳」を通さない〉とは、つまり頭で考えない、ということ。勝手な"フレーム"に当てはめない、ということ。感じたままに、ということ。
そうやって、頭で考えずに感じたままに描けると、「感情」が拾えるんです。
「感情」とは、単なる発言だけではなく、その「言葉」の背景にあるストーリーや気持ち、その場の盛り上がった空気や熱、そのときの議論の流れ、雰囲気などなど。
実際、議論の当事者である皆さんも、ただ単に「言葉」に反応しているわけではなく、「感情」がのった「言葉」に反応して発言しているんですよね。
「大きく描きたい」と私が「感じた」のと同じように、その場にいるみなさんも、その「言葉」を聞いたとき、「言葉」に込められた強い「感情」に心動かされて、活発な意見が出たんじゃないかと思うんです。
頭で整理したり、分類しようとするよりも、その言葉に込められた「感情」を"感じたままに"描けたとき、「参加者にとって、とても納得感のある絵に仕上がったんだなあ」と実感できます。脳まで情報を送ることなく、脊髄反射で右手が動くのが私の理想です。ということで最近の私は、みなさんの発言に忠実に感じたままに描くために、「自分の姿をどこまで消せるか」「滅私奉公できるか」ということばかり考えながら、筆を持って耳をダンボにして立っています。
- A5-3:「発言」だけでなく、
「感情」もセットに板書してみる
そもそも議論している場に、"思い"や"気持ち"の乗っていない「言葉」なんて無いんですよね。ただ「ホワイトボード」に書き出すと、その「言葉」に込められた"思い"や"意図"が抜け落ちてしまいがち。"フレーム"にうまく納めたときこそ、削ぎ落とされてしまいがちなんですね。
そこで、とにかく「ホワイトボード」で参加者の発言を拾う場合に、「その人らしいちょっとした"言い回し"や"語尾"、"感嘆詞"までも忠実に拾ってあげる」というのはどうでしょうか?
単なる抜け殻になった「言葉」だけを「ホワイトボード」の上で扱うと、誤った認識や解釈をされがちですが、そういう"人肌"の感じられる「言葉」が残った「ホワイトボード」には、発言した人の意図や本音が見えてくる。すると意外に速く信頼関係が築けたり、相互理解がずっと速く深まると思いますがいかがでしょうか?
GFの視点を活かすなら「3次元・4次元」の世界へ
Q6:「ホワイトボード」を使った議論で、欠けている視点って何だと思いますか?
- A6-1:二次元の「ホワイトボード」を
三次元にして眺めてみては?
(絵筆を持たずGFをしないで)「ホワイトボード」を使った議論に参加すると、ときたま奇妙な感覚に落ちることがあります。
毎回ではないですが、「ホワイトボード」の「どこか平面的で動かず固い感じ」が気持ち悪い。今話している内容としっくりこないときがある。
例えば、課題が〈箇条書き〉されているものとか、マーケット分析した〈三角形〉の図だったり、カスタマーの行動パターンが書かれた〈矢印〉を見ているときです。
課題が〈箇条書き〉されているのを見て、「本当にみんな同じ文字の大きさなのかなあ?」と思ってしまったり、〈三角形〉を見て、「ユーザーって書いてあるけど人の気配がしないなあ」と違和感を覚えたり。カスタマーの行動を簡単に表現した〈矢印〉を見ても、「どれも同じ長さなのかなあ」とか「同じ太さなのかなあ」という疑問が湧いてくる。
GFをするようになってから特に感じることです。GFで描く私の絵には、実社会という空間を人が歩き回って、しかもぺちゃくちゃおしゃべりする絵が多いからかもしれません。
〈箇条書き〉された課題がそれぞれ、助けを求める"声の大きさ"や"必死さ"が本当は違う感じがするんです。でも、同じ文字の大きさで並列に並んでいるだけでは、課題の本当の大きさや重要性、温度差が伝わってこない。
二次元の〈三角形〉にも「もっと奥行きのある、イキイキした三次元の世界が広がってそう」と思ってしまう。そして「携帯サイトは暇つぶしに見てるよ」と言う20代の男性や、「結構パソコンで買い物するわ」なんていう年配の女性などを、私としては描きたくなるわけです。でも平面の〈三角形〉のままだと、「一般ユーザー」たちの顔は想像しにくく、会話も聞こえてこない。
- A6-2:「ホワイトボード」に奥行きを。
空間に広がる話し声を、想像してみる。
まっすぐに一列に並ぶ〈矢印〉を見ても、「もっと四方八方に分散していそう」とか「もっとぐにゃぐにゃ波打った矢印かもしれない」と思ってしまう。
最近「5年後の社会」「10年後の地球」といった近い将来の絵を描くことが多いせいかもしれません。例えば「ボーダレス」「変化の時代」といった言葉からイメージする絵は、"海が渦巻いているような絵"や"激しく波打っている絵"なんです。その波を乗り越えるには、一方向だけを指す硬い〈矢印〉が「どうも時代にあってない」感じがする。
アメーバー状のものや、いろんな結合・分裂を繰返している生命体のようなものや、とにかく自在に伸び縮みしながら飛び跳ねているようなものでないと、乗り越えられない気すらするんです。もっと"動的で"「時間軸」も加わった四次元空間です。
「ホワイトボード」上の議論に、GFの視点を活かすとしたら、「三次元」「四次元」を意識してみたら面白いのではと思います。
「三次元」「四次元」に広がる空間を想像してみると、実社会のシーンや生身の人間の声や気持ちをイメージしやすくなると思います。そして、大小、長短、方角、弾力、変化、温度差、時間軸といった、新たな軸が加わってくるので、まったく違う切り口や視点に気付かされるとも思います。
そうすると「ホワイトボード」に表情が出てきて、ぐっとアウトプットにメリハリがつくんじゃないかなと思いますが、どうでしょう?
さて、次回も引続き、「議論をどうやって整理しているんですか」に、GFの視点から日頃の会議や議論の場で使えるヒントを探ってみます。
ということで、今日のところはここまで。次回も楽しみにしていてください。グラフィックファシリテーターのゆにでした(^-^)