「世界有数のデータプラットフォームをArmとともに作り上げ、ディスラプター(disrupter: 破壊者)たちに対してファイトバックするチャンスを多くの企業に提供していきたい」 ―8月22日、都内で行われた「Arm Pelion IoT Platform」の記者発表会に、英Armのバイスプレジデントとして登壇した芳川裕誠氏は集まった多くの報道陣を前にこう明言しました。先月までのパブリックな肩書は米Tresure Dataの共同創業者兼CEOだった芳川氏ですが、8月3日に発表されたArmによるTreasure Dataの買収以来、同氏のロールは「Arm IoTサービスグループ データビジネス担当 バイスプレジデント 兼 ジェネラルマネージャ」となっています。
2011年の創業以来、シリコンバレーのスタートアップとして順調な成長を遂げていたTreasure Dataですが、その意外なかたちのイグジットに、筆者も驚きを隠せなかったひとりです。Treasure DataはなぜArm、そしてソフトバンクグループ入りを決めたのか、今後、データプラットフォーマーとしてどんなゴールを目指していくのか ―本稿では8月22日に行われた会見の内容から、Treasure Dataの次のゴールを俯瞰してみたいと思います。
法人としてのTreasure Dataは存続、ブランドとして「Arm Treasure Data」を前面に
7月下旬、海外メディア数社から「英Armが米Treasure Dataを6億ドルで買収か」というニュースが流れました(参考記事:Bloomberg)。その数日後となる8月3日、Treasure Dataのブログにおいて、芳川氏自身がArmの傘下に入ったことを公式にアナウンスしています。
今後の組織体制ですが、Treasure Dataおよび日本法人のトレジャーデータは当面、そのまま法人格として存続し、Armグループ、さらにはソフトバンクグループ傘下のいち企業としてビジネスを展開していくことになります。また、シリコンバレーにあるTreasure Dataオフィス、東京・丸の内のトレジャーデータのオフィスも現状のまま残り、Treasure Dataの顧客に対しては(日本、米国にかかわらず)継続的に既存サービスのサポート/アップデートが提供されます。
現在、ArmとTreasure Dataはともにグローバルで「Arm Treasure Data」というブランドを共同で展開していく方針を明確に示しています。たとえば、これまで「TREASURE CDP」という名称で提供されてきたTreasure Dataのデータプラットフォームは、現在「ARM TREASURE DATA eCDP」に変更されており、両社のシナジー戦略が着々と進んでいることをうかがわせます。したがって、別々の独立企業というよりも、ソフトバンクグループにおいてIoTビジネス/データビジネスを推進するひとつの共同体として捉えたほうが適切だといえそうです。
また、前述したように芳川氏はArm IoTサービスグループ プレジデント ディペッシュ・パテル(Dipesh Patel)氏にリポートするデータビジネス担当バイスプレジデント兼ジェネラルマネージャに就任しており、すでにTreasure DataのCEOという役職は存在しなくなっています。他の社員も芳川氏と同様にArmへと所属を移しており、徐々に「Arm Treasure Data」として組織とブランドの一体化が図られていくとみられます。
Arm Pelion IoT Platform - デバイスからデータまでをエンドツーエンドでサポートするIoTプラットフォーム
ArmはTreasure Dataの買収と同時に、新プラットフォーム「Arm Pelion IoT Platform(以下、Pelion)」を発表しています。名前の通り、IoTに特化したデータプラットフォームで、もともとArmが提供してきたIoTデバイス管理プラットフォーム「Arm Mbed IoT Device Management Cloud(以下、Mbed)」をベースにしている基盤です。
Pelionについて、ArmのIoTサービスグループを統括するパテル氏は「(オンプレミス/クラウドを問わず)ハイブリッドな環境に対応した業界初のエンドツーエンドなIoTプラットフォーム」と表現しています。ここでパテル氏が言う"エンドツーエンド"とは、「デバイス」「コネクティビティ」「データ」の3つのレイヤを一気通貫でマネジメントできることを意味しています。あらゆるデバイス、あらゆる接続形態(プロトコル)をあらゆる環境でサポートし、さらにそこで生み出された多種多様なデータを、シンプルで一貫したオペレーションとマネジメントの下でシームレスかつセキュアに扱うことができる ―パテル氏はPelionのベネフィットをこう説明しています。
そしてPelionとArmにとって「最後のパズルのピース」に当たる部分がTreasure Dataだったといえます。エンドツーエンドなIoTプラットフォームを支える3つのレイヤのうち、ベースとなる「デバイス」に関してはArmが構築してきたMbedがありましたが、「コネクティビティ」と「データ」をサポートするにはどの技術が最適なのか ―Armがここで出した答えは買収によってその技術力を手に入れることでした。2018年6月にはIoTコネクティビティ管理のリーディングカンパニーであるStream Technologiesを買収、そして最後のピースとしてのデータレイヤを任せるプラットフォームとしてTreasure DataのCDP(Customer Data Platform)を選びました。パテル氏はTreasure Dataについて「2011年の創業以来、ロバストでスケーラブルなデータプラットフォームを構築し、世界中の名だたる企業を顧客とすいてビジネスを展開してきた実績を高く評価した。Treasure Dataであれば、Pelionのユーザはどこにいてもインサイトをリアルタイムに得ることができるだろう」とコメントしています。
“デジタルマーケティングはTreasure Dataの「ノーススター」ではない”
パテル氏の言葉にある通り、Treasure Dataはグローバルで300社を超える顧客企業を抱えており、今回行われた会見にもジョンソン・エンド・ジョンソン、SUBARU、ソニーマーケティングといった同社の顧客がゲストとして登壇し、エンドースメントを寄せています。またArmの親会社であるソフトバンクは買収の3カ月前となる2018年5月、Treasure Dataとのデジタルマーケティングにおけるパートナーシップを発表していましたが、今回の買収についてソフトバンク 代表取締役 社長執行役員兼CEO 宮内謙氏は「Treasure Dataがソフトバンクグループの一員になってくれてこんなにうれしいことはない。あらゆる分野で今後、IoTが一気に加速していく中で、デバイス、コネクティビティ、データをエンドツーエンドでカバーできるIoTプラットフォームをもてることは我々にとっての大きな強みとなる」とArm Treasure Dataへの強い期待を表明しています。
ビジネス面だけではなく、Treasure Dataの技術力の高さ、とくにオープンソースに対する貢献度の高さもまた、国内外でもひろく知れ渡っており、たとえば共同創業者のひとりである古橋貞之氏が開発したログコレクタ「Fluentd」は、インターネットでビジネスを展開する企業なら必須のツールへと成長を遂げました。そのほかHadoopやHivemallといったオープンソースプロダクトに対してもTreasure Dataは積極的なコミットを続けており、Treasure CDPのエコシステムもこうした開発者のコミュニティへの関与をベースに発展してきました。
データプラットフォームとしての知名度が高く、ロイヤリティの高い顧客をグローバルでサポートし、すぐれた開発者を数多く抱えるTreasure Dataを、Arm、そしてソフトバンクグループがデータビジネスの「最後のピース」として手に入れたかった理由は十分に理解できます。
一方で、Treasure DataはなぜArmの買収に応じたのでしょうか。2011年の創業以来、筆者は幾度となく、芳川氏や共同創業者の太田和樹氏(前 Treasure Data CTO、現在はArmのテクノロジ部門バイスプレジデント)と話す機会がありましたが、よく「Treasure Dataは必ずNASDAQに上場する」と強い意思をこめて語られていたのを覚えています。投資家から資金調達を受けたスタートアップである以上、いつかはイグジットしなければならないとはいえ、上場ではなく買収というゴールを受け入れたことに少なからぬ疑問があったのは事実です。
「今回の(買収を受け入れた)件は決して後ろ向きな決断ではない」―会見でイグジットの方向性について質問を受けた芳川氏は、迷いなくこう答えていました。「私は"イグジット"という言葉はあまり好きではない。今回の件はTreasure Dataとしての新しいスタートであり、ユニバーサルなかたちで新たなデータ基盤を作る機会を与えてもらったと受け止めている。米国を中心にデータビジネスを展開してきて、データのコンバージェンスが起こり始めていることをリアルに実感してきた。NetflixやUberといったディスラプターたちが台頭し、より力を獲得しつつある中で、ディスラプト(破壊)される側の旧来の企業はこれまでなす術がなかったが、データプラットフォームといういちばん手のかかる部分を我々が提供することで、ディスラプターたちにファイトバックすることが可能になる。Treasure Dataの役割はそのインキュベータ、つまりデータのゆりかごを彼らに提供すること」と芳川氏は買収を受け入れた理由をこう語っています。
データプラットフォームとしての可能性は「世界有数の企業であるArmと組むことでより拡がる」と強調する芳川氏ですが、筆者はIoTプラットフォームのデータ分析基盤として高い評価を受けたことが買収を受け入れた大きな要因であるように思えます。現在、Treasure Dataは多くの企業から「デジタルマーケティングに欠かせないパートナー」と呼ばれており、実際、Treasure Dataのことを"デジタルマーケティングの会社"と思っているユーザも少なくありません。とくに、2016年の資生堂によるTreasure CDPの導入以来、その華やかなデジタルマーケティングの成功事例に惹かれてTreasure Dataの知名度は劇的に上がり、顧客数も大きく伸びました。しかしデジタルマーケティングにプラットフォームのイメージが固定されてしまえば、より多くの企業にデータによるデジタルトランスフォーメーションの機会を提供し、ディスラプターたちにファイトバックしてほしいというTreasure Dataの本来の方針とはズレが生じてしまいます。芳川氏は「デジタルマーケティングは今後も重要な市場であり、我々としてもフォーカスを続けていく。だがデジタルマーケティングはTreasure Dataの"ノーススター(北極星)"ではない。今回の買収は我々の新しいノーススターをこれから求めていくためのスタートだと思っている」とコメントしていますが、データビジネスを展開するうちに旅路をガイドする存在のはずのノーススターの位置に若干のズレが生じていたのかもしれません。そういう意味で、創業から7年が経った現在、"ユニバーサルなデータ基盤"をふたたび求める旅 - 新しいノーススターを追い求めるタイミングが買収というイグジットの形式をともなってやってきたともいえるでしょう。たとえそれが、創業時から描いてきた上場というゴールとは異なっていても、タイミングを見誤らずにイグジットを決断できた姿勢は高く評価されるはずです。
「世界中でひとつだけ解析用のデータベースがあるなら、それがTreasure Dataでありたい」― 2013年1月、太田氏を取材したセッションで聞いた言葉をいまでも筆者は鮮明に覚えています。そのときとはビジネスの規模は大きく変わりましたが、おそらくTreasure Dataの理念はいまも変わらないはずです。スタートアップを卒業したいまなら「世界中でひとつだけ解析用のデータプラットフォームがあるなら、それがArm Treasure Dataでありたい」でしょうか。いずれにせよ、新しいチャプターを迎えたTreasure Dataの今後をこれからも見ていきたいと思います。