「IT人材に関して日本が諸外国と大きく事情が異なる部分は、約70%の人材がSIerやシステム開発企業など集中していること。今後、日本社会のデジタル化を加速させていくにはエンドユーザが教育プログラムを受けることが重要になる」―2月26日、AWSジャパンが開催した「将来のデジタルスキルニーズに関する記者説明会」においてAWSジャパン トレーニングサービス本部 本部長 岩田健一氏は、国内企業のデジタル人材不足についてこうコメントしました。
新型コロナウイルスの感染拡大により、多くの日本企業がデジタル化への取り組みを加速させましたが、その一方でデジタル化の要となるデジタル人材、それもクラウドアーキテクチャの設計、ソフトウェアの運用支援、大規模データモデルの作成など"高度なデジタルスキル"をもつ人材を内製化している企業は決して多くはありません。前述の岩田氏のコメントにあるように、日本の場合、IT技術者の多くがSIerなどに所属しており、ユーザ企業内にIT人材を育成する、つまり自社のシステムを自社の人材でカバーするという文化が醸成されにくい状態が続いていました。
しかし、長引くコロナ禍が引き金となり、国内企業の意識も少しずつ変わり始めているようです。本稿では2月26日の会見で紹介されたオムロン ソフトウェアの事例 ―6ヵ月間の集中トレーニングを受講した18名の選抜メンバー全員がAWSソリューションアーキテクトアソシエイトに合格し、その後もトレーニングを内製化してクラウド人材を着実に社内に増やしている事例を紹介しながら、現在の日本企業に求められている人材育成のあり方について考察してみたいと思います。
記者説明会で語るAWSジャパン 岩田健一氏
AWS提供の集中トレーニングを活用して集中育成
オムロングループのソフトウェア開発会社として1976年に創業したオムロン ソフトウェアは、駅の自動改札機やクレジットカード決済端末、ヘルスケア機器、ファクトリーオートメーションといった公益性の高い事業を数多く展開しており、IoTや組み込み分野における高い技術力で知られています。しかしIoTの人材ではなく、なぜクラウドに焦点を合わせた人材育成に今回取り組んだのでしょうか。その理由についてオムロン ソフトウェア ISTソリューション事業部 プロセスエンジニアリング部 グループリーダ 原田真太郎氏は「オムロンがめざすより良い社会の実現にはクラウド技術が必要不可欠であり、急速に拡大するクラウド開発事業のニーズに応えるためにも、一気に社内にクラウド技術者を増やす必要があった」と説明しています。
会見に登壇して事例を紹介したオムロン ソフトウェア原田真太郎氏(右)と新宅史菜氏
オムロン ソフトウェアおよびオムロングループがクラウド人材の育成に注力する理由は同社がめざす「よりよい社会」の実現にクラウドが欠かせないと判断したことによる
"ものづくりの会社"として品質の高い産業機器を数多く生み出してきたオムロンですが、世界中のデバイスが"つながる"ことを前提に作られている現在、オムロンもまた「単品の機器で価値を提供するのではなく、機器をつなぐことで新たな価値を創造していかなくてはならない」( 原田氏)として、クラウドやAI/IoTなど時代が必要とする技術を積極的に取得していく方向へと舵を切りました。
もっとも社内にクラウド人材を一気呵成に育てるといっても、そのためのノウハウがオムロン ソフトウェアにあったわけではありません。ここで同社が利用したのがAWSが提供する集中トレーニングでした。各事業部から選抜したメンバー18名が2019年4月から約6ヵ月間、合計160時間に渡り、AWSによる以下のオンサイトトレーニングを受講しています。
AWS Technical Essentials 2
Amazon EC2やAmazon S3などを使って実際にシステムを構築/運用する方法を学ぶ1日コース(AWS Technical Essentials 1の修了が前提)
Architecting on AWS(+認定試験準備ワークショップ)
AWSプラットフォーム上でITインフラを構築する方法を学ぶ3日間コース
Developing on AWS(+認定試験準備ワークショップ)
AWS SDKを使用して安全でスケーラブルなクラウドアプリケーションを開発する方法を学ぶ3日間コース
Systems Operations on AWS(+認定試験準備ワークショップ)
自動化や繰り返しが可能なネットワーク/システムのデプロイをコマンドラインから実行する方法を学ぶ3日間コース
Advanced Architecting on AWS(+認定試験準備ワークショップ)
Architecting on AWSの上位コースで、データサービスやガバナンス、セキュリティを組み込んだ複雑なソリューションを構築する方法を学ぶ3日間コース
DevOps Engineering on AWS(+認定試験準備ワークショップ)
DevOpsの文化哲学やプラクティス、ツールを利用して高速なアプリケーション/サービス開発し、提供/維持していく方法を学ぶ3日間コース
Security Engineering on AWS
AWSセキュリティサービスを使用してセキュアなAWSクラウドを維持する方法を学ぶ3日間コース
この短期集中型トレーニングにおいてオムロン ソフトウェアが設定したゴールは受講者がAWS認定ソリューションアーキテクト-アソシエイト(SAA)に合格することでしたが、結果として18名全員が合格、そのうち7名は認定資格の5冠を取得するというすばらしい成果を収めるに至っています。
2019年4月から半年間に渡って合計160時間のAWSトレーニングを各事業部から選抜した18名に対して実施した。短期集中型のトレーニングに方式を実際に受講した新宅氏は「ライザップ方式」と呼んでいた
各事業部からよりすぐったメンバーだけあって、半年間のトレーニング終了後は18名全員がソリューションアーキテクトアソシエイトに合格、うち7名は5つの試験に合格する五冠を達成。プロの力を借りて一気にコア人材を育成した好事例といえる
実際にトレーニングに参加したオムロン ソフトウェア ISTソリューション事業部 システムエンジニアリング部 新宅史菜氏は「トレーニングの最中はほぼ毎回、質問がいくつも出るなどやり取りが活発で、受講者間での相談もしやすく、とても学びやすい環境が作られていた」と振り返っています。AWSというクラウドのプロの力を借りて、各事業部から選抜した優秀なメンバーを短期集中型で一気に育成する ―クラウドに限らず、人材育成の最初の一歩として参考にしたいアプローチです。
トレーニングおよび認定試験合格後のメンバーは、それぞれの事業部に戻り、学んだ内容をすぐに実践にアサインしているほか、OJTで後進の育成にもあたっています。原田氏は実践における成果の一例として、グループ会社のオムロン ソーシアルズソリューションズが2019年11月に発表した複合型サービスロボット「Toritoss」を挙げていますが、これは店舗や施設における清掃/巡回警備/案内などを行うロボットでAWSのサービスが数多く実装されています。オムロン ソフトウェアはロボットの遠隔操作や保守を行うサーバシステムのインフラ構築を担当し、選抜メンバーがトレーニングで学んだ知識や技術を反映してスピーディに開発を進めました。件のトレーニングが2019年9月に修了し、同年11月のサービス発表に至っていることを考えれば、まさに学んですぐの知識と技術を本番投入した結果だといえます(Toritossの正式なサービス提供開始は2020年11月) 。
トレーニング終了後のメンバーは事業部に戻って学んだ知識を業務にも活用している。オムロン ソーシアルズソリューションズの業務ロボット「Toritoss」にはAWSのマネージドサービスが数多く実装されており、これらの保守運用にメンバーの知見が活かされている
トレーニングの内製化で人材育成サイクルを形成
オムロン ソフトウェアのユースケースにおいてもうひとつ重要なポイントは、2019年のトレーニングを起点に、その後のクラウド人材の内製化に注力している点です。最初の18名の選抜メンバーのうちの数名が社内向けクラウド勉強会の講師となり、SAA認定に向けたトレーニングを内製化、2020年度は全5回に渡って開催され、40名を超える社員がこれを受講しました。そうした積み重ねの結果、2021年現在の同社には90名のAWS認定資格者が在籍し、さらに資格取得者が活躍するクラウド開発/運用案件が急増しています。この3月にも認定試験に挑戦するメンバーがいるとのことで、さらに資格取得者の数が上積みされそうです。
2019年に18名の選抜メンバーの受講から始まったクラウド人材育成はトレーニングの内製化がすすみ、現在は90名の認定資格者を有するまでに。有資格者が活躍する現場や案件も増加中とのこと
原田氏は「内製化のメリットは、自分たちの体験を生々しく伝えられることだと思っている。正直、( 高いスキルを取得した)優秀な技術者の力をチームにどう還元していくかはまだ試行錯誤のなかにあり、成功と失敗を繰り返しているところ。しかし(会社と個人の)成長を加速させるには、個々人の経験をみんなの経験にしていく必要がある。会社が成長機会を与え、個人が能力を発揮することで双方が成長し、その循環が我々のめざすより良い社会の実現につながっていく」と語っていますが、人材育成と業務への実践が良いサイクルで、かつスピーディに循環していることがうかがえます。
なお、オムロン ソフトウェアには現在、事業部横断のCCoE(Cloud Center of Excellence: クラウド推進組織)があり、研修や実践で得た経験を「みんなの経験」にし、集まった知見を共通基盤として"組織知"化する取り組みがCCoEを中心に展開されています。CCoEはクラウドによるビジネスの活性化だけでなく、新たな顧客価値の創出、ひいては社会への貢献につながるものとして採用する企業が国内外で増えていますが、人材の内製化においても大きな効果があるようです。
オムロン ソフトウェアのCCoEは個人の技術者が取得したスキルや知見を組織値に昇華する役割も果たしている
不可能を可能にした“社員が相互理解に努める風土”
原田氏は最後にクラウド人材育成における重要なポイントを以下のように総括しています。
成長サイクルを回すしくみを作る
専門家(ここではAWS)の力を借りて一気に立ち上げる→実案件で学んだ知識や技術を磨きながらさらに実践的な知見を得る→技術者コミュニティやCCoE活動で人と組織をつなげ、個人の力から組織の力へと変えていく
マネジメント(経営層)/CCoE/技術者が同じ方向を向いて進んでいく
マネジメントは人材育成の投資判断と成長を考えた業務アサイン(学んだ知識を活かせる現場を用意する)を、CCoEは全社レベルでの人材育成強化策の立案/実行、さらに組織知としての知見の蓄積/展開を、技術者は技術で価値創造を図るべく顧客価値の創造とOJTでの人材育成、さらに知識の共有/展開を、それぞれ図っていく
人材育成にかかわる全員が同じ方向を見て進んでいく ―これを実現するには人材育成に対する確たる文化が社内に醸成されていることが不可欠であるように思えます。オムロン ソフトウェアが最初のトレーニングに参加させた18名のメンバーは、各事業部のコア人材でもありました。
AWSの1日コースのトレーニング時間が約8時間とすると、ひとりのメンバーがトレーニングに費やした時間は20日間に相当します。6ヵ月のうち、まるまる20日間、優秀な人材が現場から離れることになれば、実業務に支障が出るおそれも否めません。初の選抜メンバーに選ばれた新宅氏は「正直、これほど長期間に渡ってのトレーニング参加をよく許可してくれたと思う」とコメントしていましたが、事業部や経営層には現場の混乱や業務の遅滞などに対する不安はなかったのでしょうか。原田氏にその質問をすると、以下のような回答が返ってきました。
「今回の施策は経営トップ(代表取締役社長)と各事業部の長が事業戦略会議にて議論の末に判断したことであり、経営陣全員が納得した状態で実施しました。現場レベルでは葛藤があったかもしれませんが、それは選抜されたコアメンバーの努力(できるだけ他のメンバーに迷惑がかからないようにする)と現場メンバーとの対話によって乗り越えていったと考えています。当社は、1on1ミーティングの導入など社員どうしの対話による相互理解をとても大切にしています。その相互理解の風土も、さまざまな施策の推進に寄与していると考えています」( 原田氏)
冒頭で紹介したAWSジャパンの岩田氏は、DX人材育成の成功ポイントとして
トップダウンアプローチ
人材育成に関する推進組織/推進メンバーの存在(CCoEなど)
育成ゴールの明確化
の3点を挙げています。今回紹介したオムロン ソフトウェアの取り組みはこの3つのポイントをすべてクリアしており、加えて原田氏のいう「社員どうしが相互理解に努める風土(文化) 」が、個人、同僚、そして会社全体の成長をうながす潤滑油として効果的に機能していることがわかります。
調査会社の英AlphaBeta 共同創業者兼ディレクターであるフレイザー・トンプソン博士は、日本を含むAPAC6カ国を対象にデジタルスキルに関する調査を行ったところ、「 業務でデジタルスキルを活用する労働者の割合を国別比較で見ると日本は58%で、アジア太平洋諸国(APAC)と比較してもそれほど低い数字ではない。さらに"高度なデジタルスキル" - クラウドアーキテクチャの設計、ソフトウェアの運用支援、Webアプリケーションの開発、大規模データモデルの作成といったスキルをもつ人材はデジタルワーカーの2人にひとりといわれている。とくに高度なデジタルスキルの中でもクラウドアーキテクチャ設計スキルは、今後5年間で日本でもっとも需要が高まるデジタルスキルと見られており、さらなる育成が望まれる」という結果が出たとしています。
クラウドアーキテクトを社内で育成するニーズが予測される現在、オムロン ソフトウェアの取り組みは日本企業にとって参考にできる部分が多く、こうした事例の共有もまた同社がめざす「より良い社会の実現」への一歩のように思えます。