忘却の川
「忘れる」とは、いったいどういうことなのだろうか、と考えることがあります。
もちろん、LifeLogだ、『記憶する住宅』だといいたてても、その支援なしに筆者が徒手空拳ですべてを覚えているわけではなく、すべてを記録できているとも思ってはいません。
これはイディオサヴァンとは違うところです。
サヴァンは生得的な能力として「忘れない」存在であると考えられる不思議な現象です。記憶の研究で知られるルリアの『偉大な記憶の物語』によれば、「忘れられないこと」はほとんど不幸と同義語なのだといいます。
機械的な記録のよいところは、不要だとか見たくないと思えば、いつでも任意にシャットダウンできるところです。幸福な記憶を追求できる可能性があります。選択的に、それにしても相当なことを記録し、それを参照する生活の中で、着実に忘却とはかけ離れた生活をしているのにはちがいないのです。
ハラルト・ヴィインリヒの『<忘却>の文学史』(白水社)によれば、ギリシャ神話では、記憶の女神<ムネモシュネー>と忘却の女神<レーテ>を並行して置いて、両方を信仰したといいます。
「苦悩と苦痛が人間に襲いかかったときには、なによりもまず、忘却の女神に対して、苦痛からの治癒と苦悩からの癒しが請い願われた。なぜなら自分の不幸を忘れることができれば、それはすでに幸福を半ばは手中にしたも同然なのである」。
『<忘却>の文学史』(白水社)
なるほどねーという感じですね。記録し尽くした暁には、忘却のほうが重要になるということは、心に留めておいてもよいことです。
忘却と「すべて」
エントロピーが無限に増加した状態に似て、「すべてのすべて」の問題は、どこになにがあるのかわからなくなることであるのかもしれません。
幸い、物理的なモノと違って、コンピュータのデータは、しまう場所に事欠くことがありません。単体で1.5TBのハードディスクもいよいよ登場(しかもすでに2万円台/2008年10月現在と安価!)ということで、「手のひらに人生を」の『LifePalm』(©美崎薫)も、いよいよそこまでやって来ようとしています。
『PilePaperFile』の自動化
すべての情報を扱うことで重要なことは、情報の重要度を判定していくことだろうと考えています。判定して、その価値観をシステムに組み込むことです。
人間の可処分時間は限られていますから、すべての情報に目を通すことは、物理的に不可能であるか、とてもロスが多いので、できるだけ広く浅く情報を取る部分と、深く知っておく部分とにわけて、両方をバランスよく回しておこうということです。
世界が多様化しているいっぽうで、緊密に結びつくようになっている現在では、どんな世界のどんなことであれ、無知であってよいわけではないし、そこで起きていることを理解することには、なんらかの意味があると考えられます。
そこで『PilePaperFile』では、「広く浅く」の部分は、できるだけ自動化する方向をめざしています。
自動的に天気や新聞の記事をゲットする、という方向性です。
新聞の記事も、キーワードを設定できるようにしようとしています。対象とするサイトも、随時増やしていく予定です。
メモをとるよりも自動化して情報をゲット
情報過多の現在ですが、なによりも興味深いのは、自分のなかの反応に、ある種の定型化している部分があることを見つけることです。
ある種の事柄を知ると、いつもたいていおなじように反応していることがあります。暑くなるとアイスティーを飲むとか、冬にはホットココアを飲むとかの「習慣化した行動」です。
過去の日記を見ていくと、そういう現象に気づくことがあります。恐るべきことに、筆者の場合、一生のうちに何回ホットココアを飲んだのかを数えることができます。『ハクのおにぎり』@『千と千尋の神隠し』を食べた日の一覧を作ることもできます。それが一過性の流行(マイブーム)なのか、習慣性をもっているのかさえ指摘できます。
定型化
そこで愚考するわけです。
ある種の知識に対してある種の反応が続くというのが定型化しているのであれば、そのある種の反応、感想を抱くとか、メモを取るとか、というところまでを、情報をゲットする部分からつなげてシステムとして自動化したら、人間はもう一段上のメタシステムとして機能するようになる可能性があるのではないでしょうか?
メタシステムの構築は、複数の世界を創出することであり、ひとつの世界を作ることでさえ困難であるのに、複数の世界をうまく作れることは稀であるわけですから、むずかしいのに決まっているのです。
もちろん人間はつねに学習しているので、この種の定型化は陳腐化しやすく、そういう枠組みをやすやすと乗り越えていく可能性もあるのですが、それを超える方法がふたつ考えられます。
ひとつは、もちろん、独自の学習機能を組み込むことで、それは将来の人工知能への第一歩だろうと思います。
ふたつめは、「定番」でとどめておくことです。たとえばココアを飲むとか、スポーツの(規定の)結果を見て楽しむ、というような、それ自体でなにか新しいことを目的としないような場合には、その一連の流れをシステム化することで純粋に楽しみだけに埋没することもできるような気がします。洋服や流行でいう「定番」の部分です。
定番+α
この種の定型化は、じっさいに運用のテストをしている限りでは、広がりに欠けるところがあり、新しい情報をどう追加していくか、というところが肝となりそうです。自律的な学習というほどでないとしても、流動的活動的に新しい情報を加えることができることが重要で、そうでないと、どんどん情報が古びてしまい、飽きてしまうためです。
人間は学習し、飽きていくけれど、コンピュータは「飽きない」のです。これは決定的に違うところで、コンピュータに、いかにして「飽きる」ことを教えるかが重要になります。先のギリシャ神話の例でいえば、忘却を教えるということです。
システムの定型化には意味があるのですが、そこに流れる情報には、つねに新しいものが流れている必要があります。もちろんすべてを新しいものにする必要はなく、ある程度のパーセントをということです。
コンピュータのなかにとどまるべきなのか、リアルに向かうべきなのか、という軸も考えられます。LifeLogというからには、リアルに向かうべきと直感的には思いますが、どうやって画面から外に出るか、というところが問題になります。
すこし話題が抽象的になっているかもしれません。次回はもうすこし具体的に、どのように情報を自動化して取得しているか、ということに触れてみましょう。