ライフログの粒度
ライフログの粒度について、最近しみじみ考えることがありました。短期間に系図をつづけて4つ見たためでした。
ひとつはNHKの『歴史秘話ヒストリア「親父(おやじ)!いいかげんにしてくれよ!~信長に振り回された家族たち~」信長家族騒動兄弟抗争・奇妙子育てフィギュア織田本能寺』という番組で、織田信長の家系についての話です。フィギュアスケートの織田信成選手は、織田信長の子孫であると知られています。
織田信長は、天文3年5月12日(1534年6月23日)~天正10年6月2日(1582年6月21日)に存命していました。2009年現在から見ると、ざっと475年前の人物です。
30年で1世代として30で割ると15.8世代。子どもの数を平均してふたりとすると、遺伝子上は215=32,768人の子孫がいることになります。
もっとも、ふたりの子どもが男と女だとして、男だけが「織田」の名前を継いでいるとすると、直系の子孫はずっと少ないわけですけれど。
もうひとつは最近買った血統書つきの猫の系図(いわゆる血統書)です。人間の家系図と同じく、血統書には直系の先祖しか記載されていませんでした。ねこは普通3~5匹くらいの兄弟を産みますから、じつは血統(血縁関係)は人間の場合よりもずっと急速に拡大するはずです。
とてもそれは1枚の図面には記載し得ないのだろうなと思います。兄弟は他人の始まりなのかもしれません。
さらには加山雄三。最近二世タレントが話題ですが、加山雄三は、岩倉具視の子孫(玄孫・げんそん・やしゃご)なのだそうです。岩倉具視(文政8年9月15日(1825年10月26日)~明治16年(1883年7月20日))-岩倉具定(公爵)-具顕(男爵)-具子(小桜葉子)-池端直亮(加山雄三)なんだとか。
最後がアイドルポップスバンドLAZY(1973~1981)のファミリーツリーです。
1981年のLAZY解散後、LAZYのメンバーはLOUDNESS、NEVERLAND、などさまざまなバンドを結成して、一大ファミリー化していきます。
こういうのを見ていると、ログをどういう単位でどう記録して、どう活用するのかを、しみじみ考えちゃうのでした。
コンピュータのログ記録はたやすい
コンピュータの操作はしょせんはキーボードの動きかポインタの動きに還元できるので、適切なログ記録システムさえ用意すれば、あらゆる操作を細大漏らさずログ化可能です。通常の生活のログをとるのに較べると、あまりにも容易すぎるくらいです。
筆者の知る限り、研究レベルでは、中京大学大学院の近藤秀樹氏のNecoLogger(ネコロガー)がそうしたコンピュータ操作の全ログに対応しています。あるいはまた、アップルのMacintosh Mac OS X Leopardに搭載されたTime Machine(タイムマシン機能)とかでしょうか。
筆者自身もここ1年ほど、ほぼすべての検索履歴、Web閲覧履歴、メール送信などを一元化して自作の秘書ソフトで実行することで、それぞれをログ化してきました。
ログには、以下に示す「全ログ指向」と、必要な部分だけ記録する「任意ログ」系の、大まかにふたつに大別できると思います。
- 全ログ指向:
- 任意ログ:
- 任意のデータログ
- 任意の操作ログ
- 任意のコマンドログ
たとえば通常のメーラーは容量が限られていて削除しながらでないと実用にならない点で任意ログ系ですが、GoogleのGmailサービスはヘビーデューティーに100%対応はできないとはいえ、全ログ指向だと考えます。飛行機のフライトレコーダーとかも全操作ログ系ですね。
ログに縛られるためにログをとるわけではない
このほかに、ログなんかなくてもいい系、ログに縛られると自由がなくなるという自由派系もあります。自由派系には、そもそも人生は一回きりで取り返しはつかないしくり返しもないと考える一回性信奉派もありますね。ログをとることじたいがいやだというライブ指向もあります。
れらはひとりの人間のなかでも生活の局面ごとに混在している場合もあります。生活全ログといっても、ウェアラブル装置をつけるような場合、風呂にまで持ち込むことはなかなか困難ですし。
イフログにしろ、任意のログにしろ、ログをとるうえで重要なことは、心と頭をフリーにして、自由な発想力や思考力を得ることにあるのです。そのためには、一時的にせよ「過去」を捨てる必要があります。心と頭がべつのことに煩わされていると、新しい発想が出てきにくいのです。
過去を捨てる方法には、思いきりよく捨ててしまうか、あるいはログをとっておいていつでも取り戻せるように保険をかけておくかの2種類があります。それはどちらも新しい発想を得るための手段であり、目的ではないのです。目的ではないので、どちらの方法でも、じっさいのところ大差はないと考えています。
「予定は未定で変化するもの」といういい方をする人がいます。心と頭をフリーにしてログを活用するのは、未来のことを考えているためではありません。いわんや過去のことでもありません。予定が未定なら、過去の思い出だって変化するでしょう。未来や過去はどうでもいいのです。重要なのはいまここなのです。
ログをどう見るか
ログをとるためには、適切なログ記録システムがなによりも重要です。ログ記録システムはログに先行します。
自動化したログ記録システムがない場合、手動で記録を取ることになります。筆者はかつて25年くらい前には、日記(日誌)を手書きで書いていました。そのときには1日の主な項目を記録するのに、だいたい30分前後かかっていました。
日記には「日記を書く」と書く必要があり、そのメタ記述になんだかどきどきしたことを覚えています。日記を書くと日記に書くと日記には書いておこう。なんてどうでもいい話ですけれど。
全ログ指向の問題は、ログを記録するストレージと、それを活用する方法論をいまだに充分には見いだせていないところにありましょう。根本的には、どの程度の粒度やクオリティで記録すればよいかがわかっていないということもありますが、それは当面措くとしても。
ログ記録系の研究者である東京大学の相澤清晴教授とは、「ログを見るのにはもう一生ぶんの人生が必要ですよね~」と笑い話をしたことがあります。
重要なことは、なにを記録して、そこからなにを読み取り、どう活用するかです。
ちなみに、どうやったらもう一生ぶんの人生を使わなくてすむかを、慶應大学の渡邊恵太氏は「Reflectiveシステム」として、未踏ソフトウェアで提案していました。
reflectiveとは反射(反映)とか投影とか内省的なものを意味していて、提案の「Reflectiveシステム」では、1日前の記録を、現在に同期して再生することを主眼としています。
筆者自身も、1日前、1週間前、1年前、1年前のおなじ曜日などの記録を参照する実験を3年ほどつづけ、有効性を確認しました。
全ログ系は理念においての問題をもちます。ストレージの問題は、一時期に較べれば格段に解決が容易になってきました。ハードディスクがきわめて安価で大容量化しているためです。
ただし、ログ記録システムの安定性を確保するためには、バックアップやシンクロシステムは不可分であり、しばしばシンクロの時間は無視できないほど大きいのです。たとえば2TBのハードディスクをディスクフラグメントする時間がどのくらい必要か、などを考えれば、ストレージが大容量化して安価になればすべての問題が解決するわけではありません。大容量化にともなって、事故に遭った場合、一度に壊れる量も増えていますし。
任意ログ系
任意ログ系は、必要と思うものを必要なだけ記録すればよいので、ストレージの容量などの問題は格段に軽減されます。極端にいえば1日にメモが1行ということだってあるわけです。もっと少ないことだってあるかもしれない。10年日記とかだと、毎日書くべき部分は1行だったりするじゃないですか。
少なければ、全貌を見渡すことも、活用することも容易ですから、ログ記録システムやブラウジングシステムなどは、それほどしっかりしていなくても始められるでしょうし、いろいろなリストを作るだけでも、それなりに役立つと考えられます。
ただし、あまりにもログの量が少なく密度が低い場合には、ログ記録派とは見なされないだろうし、任意の記録というところに恣意性が入ってきそうで、機械的に記録する全ログ派からはいちだん低く見られている感じは否めないようです。
もっとも全ログとかいっても、そもそも粒度は恣意的だし、記録できる記録しやすいことしか記録しないわけだから、任意ログと大差はないと思うのです。たとえば体温の変化やバイタルサインなどを記録することもできますが、それらを記録するためにはしばしば大がかりな装置が必要で、日常生活とは乖離していきます。
それに比べると、たとえば聴いている音楽をTwitterに投稿するシステムなどは、それが自動化されていれば、ほとんどユーザーには負担がありません。この場合、再生している曲をすべて投稿する点では全ログ系ですが、人間の行動のうち音楽を聴く部分だけを記録する点で任意系です。
ログシステムにとって重要なことは、活用を考えた上で必要充分なログを記録し、活用する方法論になるのだろうと思います。