部分集合としての一般システム
ライフログといって、人生全体をキーワードにしつつ記録していると、たいていのどんなシステムでも、それは部分集合なんだな、と感じることがよくあります。
食事の記録は、デジタルカメラを使い始めた初期から(といってもドクター中松ほどではないですが)つづけているし、カレンダーも2004年の未踏ソフトウェアで作りましたので、東京大学の相澤清晴先生の研究室で行っている『FoodLog』は興味深いサービスだと感じました。
部分集合のほうが、むしろサービスとして成立する、というのは、たしかなところなのかもしれません。
人生全体というのは芒洋として曖昧模糊としているので、食事のログだ、というある種の専門システムのほうが、わかりやすいのですね。
これはたぶん、ライフログといったときに、なにをイメージするのか、ということが、人それぞれで大きく異なっているということとも関係しているのかもしれないです。
ライフログというときに、Twitterをイメージするのか、GPSシステムをイメージするのか、生体ログをイメージするのか。あるいはウェアラブルコンピューティング、ユビキタスコンピューティング、アンビエントコンピューティング、パーベイシブコンピューティングなどなのか。
はたまた、書籍のデジタル化なのか。商品のレコメンドシステムなのか、デジタルサイネージなのか。音楽の再生ログなのか、SuicaやICOCA、PASMOのログなのか。
これら、ぜんぶなのか。
輪郭をはっきりさせる「部分」という選択
そう考えてみると、部分であることは悪くないのです。
どれでもあり、かつどれでもないものなんていうのは、ほんとうに不透明でぼんやりしていて、輪郭がはっきりせず玉虫色で、捕まえたと思った手からするっと逃げるような、雲をつかむような話だからです。
それに比べて、部分であることは輪郭がはっきりしていて、きっちりしている。白黒はっきりしているので、なにをターゲットにしているかも明らかです。
これだという断定は、ひとを安心させます。どうせつきあうのなら、ぬらりひょんよりは猫のほうがいいと思うし、よしんばそれが大蛇だとしても、正体のわかっているほうが対応はしやすいというものです。
では、部分のほうがよいのか。
よい悪いの問題ではないとしても、部分と全体を対比すると、部分のほうが確実性をもって見えてきます。
リバイバルはブームなのか!?
部分のほうが確実なライフログなのか。
もちろん、そうではありません。部分は部分にすぎないからです。ライフというからには、せめてふたつ以上の複数のものの関連づけが必要です。食事+時刻のようにです。
いっぽうでもうひとつ感じているのが、足りないものを足しても、満たされないことがある、ということです。部分だけではだめなのです。
たとえば、雑誌や書籍、新聞です。最近では、70年代、80年代、90年代などのリバイバル書籍や雑誌が増えている気がします。気のせいかもしれませんけど。
わたしは基本的に雑誌も捨てずに蓄積してきましたし、一時期は新聞の縮刷版を愛読していたこともあります。
その目で、広告や雑誌をリバイバルした懐かし歴史物のジャンルの雑誌を見ると、不思議な気持ちになることがあります。
ひとつめは、情報をあまりにも恣意的に集めていて、目についたものしかかたちにしていないことです。雑誌の表紙1枚だけの写真を収録しているとか、いろいろな事件が起きた1日だったのに、その中のひとつだけしか書いていないとか。
つまり、部分的すぎて全体が見えないのです。
ブームと日常
あるいはまた、その号の実物をもっている場合に、カタログ雑誌を見ても、まったく懐かしさを感じないことです。これは、ライフログをしていくときに、これからみなさんが感じる感想と近いと思います。
さらにまた、実物を見たことがないものに関しては、「懐かしジャンル」のなかに含まれていても、懐かしさは感じず、かといって新鮮でもない、なんだか不思議な時間感覚のもののように感じる、ということです。
すべてのものを蓄積しアクセス可能にすると、時間感覚はゆらいでしまうのです。「懐かしさ」は過去と隔てられているから感じるのであって、ライフログの時代には、懐かしさは無縁のものになる可能性があります。
ブームなら懐かしいですが、常時体験していることは日常です。
そんなことを思いながら、たぶん、いずれ将来には、ほしい雑誌のバックナンバーも、すべてそろえるようになるのだろうな、と夢想しています。そして、その雑誌を未来のいつか読むときには、わたしはきっと未来と過去を同時に体験しているのだろうなとも思います。同時に体験しながら、その過去にそれを体験しなかったことを強烈に悔いていたりするわけです。
そのときの「最新のニュース」に没入すると、いまここにあるものが、まるで未来のなにものかであるように感じたりもします。
「電子書籍」のもたらしつつある時代感、時間感覚というのは、じつはそういうことも含んでいるのだ、と思うのです。
常時体験する過去
たとえば中学生のときに、わたしは『バラエティ』(角川書店)という雑誌を定期的に購読していて、いまもその雑誌をもっています。どんな雑誌もそうなのですが、たいてい雑誌というのは、ぜんぶすべてを理解して読む人はいないわけです。すごく好きな記事があるとか、何本か贔屓の記事があるとかで買うのだと思います。
当時のこのバラエティの記事のどの程度を理解していたのか、というと、かなり怪しい感じがします。ただ、そのなんか雑多な感覚、情報が満載でありながら、独自の視点で整理している感覚を、とても新しくておもしろく感じました。
古今東西の雑学の楽しさは、本質的に「わからないこと」にあり、わからないからおもしろいのだと思っていたのです。背伸びしている中学生の論理ですね。
ライフログで、ふたたび(あるいは三度、あるいは常時)中学生的な感覚を体験しながら、生きているというのは、とてもおもしろいです。