データ主義
過日、2冊のライフログ関係書を上梓しました。その感想を、友人のfuzzy氏にコメントいただいたのですが、「データを10年以上にわたって、再利用可能な形で保存しているひとは少ない」と指摘いただきました。
ですが、わたし自身は、40年分のデータをストレートに保存しているため、ぜんぜんピンときません。たしかにWindowsXPが登場して10年、あるいは一般にコンピュータを使い始めたのがWindows95であるとして16年ほどのあいだに、コンピュータの進歩については声高に語られるものの、データの活用や保存法については、あまり注目されてこなかったのかもしれない、という気もしなくもありません。
わたしは、コンピュータを使い始めたときから、それがどのようなデータ形式でどこにデータを保存しているのかだけにほとんどすべての興味を抱いていました。なぜなら、お金を出して購入したものはハードウェアであれソフトウェアであれ、容易に代替できますが、自分で作ったデータや文章、それを作るのにかけた時間の価値は、査定不能であるくらい貴重であると考えるためです。
どんなに豪華なアプリケーションでも、データ形式が標準でなければ使いたいと思いませんでしたし、使いませんでした。徹底的なデータ主義者なのです。
標準ファイルと年月日構造
わたしは年月日のフォルダ構造と、テキストファイル、htmlファイル、xmlファイル、JPEG(Exif)をメインのデータ形式として使用しています。これ以外のデータは、動画や音楽などの例外を除けば、ほとんど所有していません。そもそもOfficeを所有さえしていませんのでdocもxlsも使いしませんし、PDFも使いません。
おおむねデータの容量は、1年間で40~60GB程度。可能なかぎり複数のメディアにバックアップをしています。容量の少なかったころはDVDに焼いていたこともありましたが、現在はハードディスクをシンクロして使うか、各種クラウドサービスを併用しています。クラウドサービスを使うためのインターフェースソフトを作成して、ほぼ自動的にバックアップしています。写真を保存すると、Flickrにアップロードするとか、というような使い方をしています。
また、AOL、Gmailなどの同じサービスを提供しているものについては、別にサービスがどこかなどということを区別していません。足りなければ探し、あれば使うだけです。インターフェースはすべて自作しているため、サービスは単にストレージである以上の意味をもちません。
シジフォスの苦行を超えて
重要なことのひとつは、写真(画像)とタグ(テキスト)とのマッチングです。写真を見たときに最初に思うことは、次の3つです。
- 縦横が正位置か
- ピンボケしていないか、人物なら目をつぶっていないか
- つけたタグは永続的に使えるか
つまり、その写真が自分にとってよい写真かどうか、好きな写真かどうか、タグをつけたらその作業を無駄にしないでいられるか、ということになります。
特に、写真にタグをつけるサービスは、評価として★をつけるものから、さまざまなタグやメタ情報、キャプション、コメントをつけるものまで多種多彩ですが、ここで問題なのは、一度つけたタグを永続的に使えるかどうかです。例えば、Flickrのタグと、他のシステムのタグをいかに透過にするかが重要です。
サービスをまたがってタグを透過にできないと、一度つけたタグをサービスが変わる度に、何度もつけることになります。それは単にめんどうを通り越して、タグをつける意欲を減退させます。やったことが無駄になるなんて、シジフォスの苦行です。ここでも、重要なことはサービスではなく、ユーザーの作業です。
ユーザーの作業をサポートするためのデータ形式をどうするか。ライフログを継続するためには、それがもっとも大切な検討課題なのです。