「一度しかない人生、思いっきり楽しもうぜ」
酒の席になるとやたらと人生哲学みたいなものを語り出して部下や後輩を困らせるという人がたまにいるが、私もあの手の「説教」を聞くのは得意ではない。しかたがないので、「はあ、そうですか」とか「勉強になります」とか言いながらも、心の中では「早く終わらないかな」とか、その日に解決できなかったバグを「明日の朝にはどう攻略しようか」と作戦を練ったりしている私だ。
じゃあ自分なりの「人生哲学」みたいなものをまったく持っていないかというと、そうではない。ただ、そんな話はネチネチと時間をかけて語るものでもなければ、ましてや酒の席でするのに適した話ではないと思っているだけのことだ(私が、下戸だというのはさておいて)。
では具体的には何かと言えば、「自分が本当にやりたいことを見つけろ」という、とても単純な話だ。言い方を変えて「わがままに生きろ」でも「自分に正直に生きろ」でも「本能にしたがえ」でも良いのだが、結局のところは「一度しかない人生、思いっきり楽しもうぜ」という話である。
「天職」とは
「天職」という言葉がある。イチローやタイガーウッズのような「その道の達人」のことを指すと勘違いしている人がいるようだが、それは少し違う。「天職」とは、「運命で定められた、天から授かった職業」という意味。子どもが大好きで子どもたちの心をつかむのが誰よりも上手な小学校の先生、30年もパンを焼き続けてきたのにいまだに「もっとおいしいパンを作りたい」と努力し続けるパン職人、仕事をしていないときも常にテニスの話をしてしまうテニスのコーチ。そんな人たちにこそ当てはまるのが「天職」と言う言葉だ。
今の世の中、ほとんどの人が学校を卒業してからなんらかの職に就く。そして、現役から退くまでの30年~40年の間、毎日数時間を「仕事」をして過ごすことになる。寝る時間を除けば半分以上の時間を「仕事」に費やすのだから、その時間をいかに有意義に過ごすかが人生を楽しむうえでとても重要である。「天職」と呼べるほど自分に向いた仕事を見つけることができるかどうか、それが人生の充実度を大きく左右する。
「自分には才能がないから天職なんか見つけられない」とネガティブに考える人もいるかもしれないが、これも間違いである。最も注目すべき点は、その鍵となるのは「天から授かった才能や適正」なんかではなくて、「その職についていて楽しくて楽しくてしょうがないこと」だという点だ。
確かに、テニスで世界のトッププレーヤになるためには、努力だけじゃなくて才能も必要かもしれない。先に書いたテニスコーチも、最初はトッププレーヤを目指していて途中で挫折したのかもしれない。しかし、それでもテニスを離れられない。小さなスポーツクラブのコーチでもいいから、一分一秒でもテニスに触れていたい。大好きなテニスを一人でも多くの人に教えて、その楽しみを共有したい。私はそんな生き方はすばらしいと思う。それこそ「天職」と呼ぶべきものだし、人生とはそうあるべきだと思う。
何を基準に「自分に適した職」を選ぶべきか
私は学生のころからプログラムを趣味で書いていたが、そのころはまだ、「好きなこと」と「職業」を一致させることの大切さに気がついていなかった。いくつかの企業を訪問したときには、ほかの学生と同じように「この会社はどのくらい残業させられるのか」などを気にしていたりした。
しかし、今考えてみれば、この「残業させられる」という考え方が根本的に間違っていたことがわかる。仕事は「頼まれなくても自分から喜んで残業するほど楽しい仕事か」どうかで選ぶべきだ。月曜日が毎週つらくて、毎日夕方5時なるとそわそわしはじめるような仕事を選んだら一生後悔する。
マラソンのランナーは、毎日のように20キロも30キロも走る。私にとっては、たとえ5キロのランニングでも、精神的にも肉体的にも信じがたいような苦痛だが、彼らにとってはそれは本当の意味での「苦痛」ではないのだ。確かに、肉体的には過酷なことをしているし、精神的にも肉体的にも常に自分自身をレースに備えた状態に保つのは簡単な話ではない。しかし、マラソンを走り続ける人たちに共通して言えることは、彼ら自身が、そんな努力を自ら喜んでやっている点だ。
どんなに才能があろうと、どんなに周りの人に言われようとも、自分が走りたくなければ肉体を酷使する練習には耐えられないし、ゴールを目指して走り続けることなどできない。
これはどんな仕事にも当てはまる話だと思う。私は49才の今になっても、寝る間を惜しんでプログラムを書き続けることはしばしばあるし、なかなかとれないバグで苦しむこともある。新しい言語や開発環境を短期間で習得しなければならないときなど、肉体的にも身体的にも自分を酷使しなければならない。自分に鞭打って、眠い目をこすりながらパソコンに立ち向かわなければならないこともよくある。つらいときがまったくないかと言えば嘘になるが、この職を辞めたいぐらい「苦痛」かと言えば、けっしてそんなことはない。解決できそうになかったバグが取れたときの快感と言ったらないし、新しい言語や開発環境を習得できたあとにする全力疾走の解放感は格別だ。
本当に「苦痛」なら、その仕事はあなたに向いていないかもしれない
「好きこそものの上手なれ」という言葉があるが、その鍵は、本当に好きならば、ほかの人から見るとつらくてしかたがないような努力も苦痛ではなくなる点にある。マラソンランナーにとって肉体を酷使して毎日20キロ・30キロ走ることが「苦痛」ではないように、私のようにプログラミングが好きでしょうがない人間にとっては、パソコンの前に何時間も座ってプログラムを書き続けることが「苦痛」ではないのだ。
注目すべき点は、「好きなことのために肉体や精神を酷使する」ことは、「肉体的・精神的はそれなりにつらい」のだが、ゴールにたどり着くことを諦めてしまうほど「苦痛」ではない、という点だ。
この業界には、「上司に言われたからしかたなく徹夜をしている」エンジニアだとか、「今の仕事がつらくてつらくてしかたない」エンジニアがたくさんいるが、そんな人たちはまず自分自身に「ソフトウェアエンジニアという職が本当に好きか」を尋ねてみるべきだと思う。
iPhone とかGoogle App Engine のような新しいプラットフォームが出てきたときに、「新しい技術をマスターしたい!」「そこで勝負がしてみたい!」とあなたは感じるだろうか。自分はJavaが得意なのに上司から「Pythonでプログラムを書いてほしい」と言われたときに、あなたはうんざりするタイプだろうか、それとも逆にワクワクするタイプだろうか。
職業としてエンジニア職に就いていれば、無謀なスケジュールに振り回されることもあるし、嫌な上司や顧客に無理難題を突きつけられることもある。自分が得意ではないことをやらされることもある。そんなときに、いつもいつも「つらい、辞めたい」と思うのであれば、あなたはこの職が向いていないのかもしれない。
突き放すような言い方で申しわけないが、考えてみてほしい。上り坂に出会うたびに、「こんな坂道大嫌いだ、誰がこんなコース設定したんだ。マラソンなんてするんじゃなかった」と考えてばかりいる人が、マラソンを続けることができるだろうか。トップランナーになるなんて到底無理だ。マラソンが好きならば、「こんなつらい坂だからこそほかのランナーに差をつけるチャンスだ」「ここで音を上げていては、トップランナーになれない」とがんばるはずだ。「がんばる底力」は、好きだからこそ自然に出てくるもので、好きでもないものに対して無理矢理絞り出すものではない。
好きだからがんばれる、だから成功できる
どんなに無謀なスケジュールや上司に出会おうと、本当にプログラミングが好きならば、この業界で最新の技術に触れることが楽しくてしかたがないなら、「この無謀なスケジュールをどうやってしのごうか」とか、「今日徹夜をするよりも、いったん家に帰って寝たほうがトータルでの開発効率が上がることを証明して上司の鼻をあかしてやろう」とか考えるはずだ。私自身、無謀なスケジュールを突きつけるPMと徹底的に戦ったことは何度もあるし、役に立たない上司を放り出すために上司の上司に直談判したことは何度もある。それもこれも、プログラミングが好きだから、自分として納得がいく仕事がしたいからだ。
長々と書いてしまったが、まとめると、せっかく職に就くのであれば、給料とか社会的地位とかを基準にするのではなくて、自分が好きなことやりたいこととマッチした職を選ぼう、というのが私の人生論である。若いうちにいろいろなものに触れておき、自分が本当に何がしたいのか、何になら夢中になれるのかをできるだけ早いうちに見つけ出すことはその後の人生にとって大きなプラスとなる。そんな「天職」を得るための努力なら惜しむことはないし、けっして無駄にはならない。そうやって「好きなことをして生きていく」ための努力を続けている限り、(ほかの人にとっては)つらいことも苦痛ではなくなるし、楽しい人生がおくれる。一度しかない人生、思いっきり楽しもうぜ。