日米で異なるソフトウェアの作り方
私がシアトルに来たのは1989年なので、こちらに来てもう20年以上になる。最初の10年をMicrosoftのソフトウェアエンジニアとして過ごし、後半の10年は起業家としてソフトウェアベンチャーを3つほど立ち上げている。こうやって1年の大半を米国西海岸で過ごしながらも、日本には毎年数回仕事で帰国しているし、日本語でブログや記事を書いてもいて、ある意味で「日本のソフトウェアビジネスを、一歩離れてちょうどよい距離で見る」ことができる立場にいる。
そんな私が常々感じているのは、日本でのソフトウェアの作り方が米国のそれと大きく違っていること。そして、日本のソフトウェアエンジニアの境遇が悪すぎること―そして、それが「日本のソフトウェアが世界で通用しない」一番の原因になっていることである。
そもそもの成り立ちが違う日米のソフトウェア業界
日米のソフトウェアの「作り方」の違いは、実はそのビジネスの構造の違いから来ている。それを理解するためには、それぞれの国でソフトウェア業界がどうやって成長してきたかを理解する必要がある。
米国の場合
米国におけるソフトウェアビジネスは、基本的にベンチャー主導型で成長してきた。Microsoft が典型的な例だが、Adobe、Google、Apple、salesforce.comなど、この業界を牽引する会社はほとんどすべてが「起業家」と呼ばれる野心的な人たちによって作られたベンチャー企業である。そういったベンチャー企業は、まずは開業資金を起業家本人や家族から集めた「自己資金」で賄い、会社を立ち上げ、少し軌道に乗ったところでベンチャーキャピタルと呼ばれる投資家から資金を集めて会社を大きくしていく。そこでの政府の役割は、起業家が会社を成功させたときに得る利益(創業者利益)への税率を低く設定して起業家精神を刺激したり、巨大な企業が既得権やマーケットシェアを利用してベンチャー企業の市場への進出を不当に妨害したりしないように監視することである。
上場企業への株式投資ではなく、わざわざベンチャー企業に投資をする投資家たちは、ハイリスク・ハイリターンを承知で投資をしている。当然だが、そんな投資家を株主に持つベンチャー企業は、利益率の高い「知識集約型ビジネス」(注1)を選ぶことになる。Microsoft が確立した「ソフトウェアライセンス」というビジネスがその典型的な例だ。
逆に、ビジネスを大きくするためには人もたくさん雇わなければならない「労働集約型ビジネス」(注2)には投資家は見向きもしてくれない。
そんな米国のソフトウェアビジネスにとってのソフトウェアエンジニアは、球団経営における野球選手のような存在。ストックオプションなどを駆使した魅力的な雇用条件を提供して優秀な人材を集め、スポーツ施設や無料のレストラン、広い個室などの心地良い労働環境を提供して、彼らの生産効率を上げることが、ビジネスを経営するうえで最も大切なことの一つである。優秀なエンジニアとそうでないエンジニアで生産効率の差は20倍とも言われるが、本当の意味での「価値」を生み出せる「優秀なエンジニア」はごく一握りだ。その違いが給料やストックオプションに直接響いてくる。優秀な人材は常にライバル会社のヘッドハンティングのターゲットだが、逆にそうでない人はすぐに解雇されるという本当の「実力社会」だ。
日本の場合
一方、日本におけるソフトウェアビジネスは、官僚主導で作られたと言っても過言ではない。旧郵政省・通産省の主導のもと「日本のエレクトロニクス産業・IT産業の育成のため」という名目で海外の企業を閉め出し、官庁や旧電電公社のような特殊法人が、国内の選ばれた数社からほとんど競争もない形で平等に「調達する」というやり方は高度経済成長の時期に作られた。しかし、そのビジネススタイルがNTTドコモにまでも継承され、先進的でありながら世界市場での競争力を持たない「ガラパゴスケータイ」を作り出したことはよく知られている。
建築業界のような構造を持つ日本のソフトウェア業界
この官僚主導の「IT産業の育成」が、ある時期それなりの経済効果をもたらしたことは否定できないが、一つの大きな弊害を日本のソフトウェア業界にもたらした。「ITゼネコンビジネスモデル」である。プライムベンダーと呼ばれる巨大なIT企業が大規模なソフトウェア開発を受注し、実際のプログラミングは「下請け」と呼ばれる中小のソフトウェア企業が行うという、まるで建築業界のような構造である。
この「IT ゼネコンビジネスモデル」は、いくつかの副作用をもたらした。
①「労働集約型」のビジネスモデル
官庁や公益法人向けの「横並び調達」スタイルのビジネスをすると、どうしてもコスト(人月コスト)に適度な利益率を上乗せしたものを対価として請求する、労働集約型ビジネスモデルになる。
② ウォーターフォール型のソフトウェア開発
ソフトウェアの開発スタイルには、さまざまなものがあるが、ITゼネコンビジネスのもとで唯一可能なのは、「プライムベンダーが顧客の要求を聞き出し、そこから仕様書を起こして下請けに投げる」というウォーターフォール型の開発スタイルのみである。ウォーターフォール型にもそれなりの利点があるが、一番の問題点はやたらと人手と時間がかかること。しかし、「手間がかかればかかるほど売り上げが増える」というITゼネコンビジネスの性格を考えると、それが必ずしも問題点とはならないという矛盾をはらんでいる。
③ IT関連企業の海外での競争力の低下
①②のような性格を持つ日本のIT企業が海外で通用するわけがないのも当然だが、その影響が家電などほかの産業にまで影響を及ぼしているから始末が悪い。ITゼネコンにソフトウェアの開発を外注していたり、内製でありながらもウォーターフォールスタイルで作る日本のメーカーは、コスト・スピードの両面で海外メーカーにかなわない。ウォーターフォール型の開発スタイルと労働集約型ビジネスモデルでは、iPhoneのような尖った製品は作れない。
④ ベンチャー企業を立ち上げにくい環境
ITゼネコン数社を頂点においたピラミッド型の日本では、ベンチャー企業を立ち上げるのが米国と比べて難しくなっている。ゲームや携帯コンテンツを作るのならばまだ可能だが、ビジネス向けのソフトウェアを売ろうとしたらITゼネコン抜きではビジネスができない。そして多くのベンチャー企業が、「労働集約型ビジネス」の波に飲み込まれてしまう。
⑤ ソフトウェアエンジニアの地位の低下
そして、最も致命的なのは日本におけるソフトウェアエンジニアの地位の低下である。球団にとっての選手のように大切に扱われる米国のソフトウェアエンジニアと違い、日本のIT業界のソフトウェアエンジニアは「新3K(きつい・厳しい・帰れない)」などと揶揄(やゆ)されるぐらい厳しい労働環境に置かれているのが現状である。そして、それに拍車をかけているのが「エンジニアの派遣」というしくみ。案件の規模に合わせて柔軟に人がアサインできるようにと作られたシステムだが、そのしくみがさらにソフトウェアエンジニアの地位を低下させている。
ソフトウェアはアートだ
そんな日本のIT産業の中でも、経営陣がきちんとソフトウェアエンジニアの価値を認めているのが、ゲームや携帯コンテンツの業界である。私の知り合いでもモバイルゲーム業界で活躍しているエンジニアが何人かいるが、やはり伸び盛りの会社は、少数精鋭でのアジャイルな開発スタイルの重要性をちゃんと理解している。
AppleがiPhone・iPadで情報家電の分野に本気で進出してきたことを見てもわかるとおり、これからはソフトウェア産業だけでなく、さまざまな産業においてソフトウェアの重要性が増す。そんな中で、日本の企業だけがいつまでもITゼネコン(もしくはそれに代表されるウォーターフォール型の開発スタイル)に頼ったソフトウェア作りをしていては、コストでもスピードでも海外の企業に遅れを取り、海外進出がままならないどころか、国内市場まで失うことになる。
ソフトウェアの開発は、規模に比例してたくさんの資材や人手が必要になるビルやダムの建設とは大きく違う。草野球の選手を何百人集めようと、ワールドシリーズで優勝できるチームが作れないのと同じく、良いソフトウェアを作るためには「人月」ではなく「優秀な頭脳」が必須である。ソフトウェアを流れ作業で大量生産しようという「ソフトウェア工場」という考えは幻想である。ソフトウェアエンジニアはスポーツ選手でありアーティストである。
ソフトウェアによる差別化を武器とする企業において、優秀なエンジニアをいかに確保し、その人が最大限の力を発揮できるような環境を与えることが経営者の一番重要な責任である。人材を軽視する企業には良い人材は来ない。このまま放置しておくと、修士号・博士号を取得した日本の優秀なソフトウェアエンジニアは、誰もがGoogleを目指すか西海岸に移住する、なんて時代が来てもおかしくない。ソフトウェアエンジニアの価値をもう一度真剣に見直す時期が来ている。
逆に若いエンジニアには、できるだけ早いうちに英語を習得しておくことを強くお勧めする。学生ならば、ぬるま湯のような日本の大学で遊んでいる暇があったら、米国の大学にでも留学して英語を習得しつつ、「本気で勉強する」機会を自分に与えるべきだ。遅かれ早かれ、日本のIT産業もグローバル化の波に飲み込まれる。そんな時代には、英語ができることが大きな武器になる。とびきりの頭脳を持ち、かつ英語が流暢に使える。時代はそんなエンジニアを要求している。