おもしろいプロジェクトに関わるには
前回の本コラム「プラットフォームは乗るものではなく担ぐもの」では、自らが開拓者・先駆者となって「ほかの人たちに進むべき方向を示す」ことの重要性を述べた。「そうは言っても日々の仕事が忙しくて新しいことを勉強している暇がない」「やりたいことをなかなか上司がさせてくれない」「おもしろいプロジェクトに関われる人なんてごく一部の幸運な人たちだけ」などの声も聞こえてくるので、今回は、もう少し具体的に「どうやったらおもしろいプロジェクトに関わることができるのか」について私の経験に基づいて述べてみよう。
運だけではない「姿勢」の重要性
私はパソコンの黎明期からさまざまなおもしろいプロジェクトに関わりエンジニアとしての経験も積んできたし、数々の楽しい思いもさせてもらってきた。パソコンの黎明期にアスキー出版から「Game80コンパイラ」(注1)や「CANDY」(注2)などの数多くの最先端のプロダクトをリリースできたし、すばらしい人たちとも出会うことができた。Microsoft在籍時には、Windows 95やInternet Explorer 3.0などの業界全体に大きな影響を与えるプロジェクトにアーキテクトとして直接関わることができた。こういった経験は私のキャリアという意味で名実ともに大きな財産になっており、とても幸運だったと思う。
たしかに運も良かったとは思うが、しかし、そういうものが100%「運」だったのか、というと必ずしもそうではないと考えている。「ダイナブック構想」の提唱者Alan Kayが言った「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」という言葉は、私が大好きな言葉の一つ。現状に満足せず、常に新しいものを求め、誰も作ったことのないものを作ろう、人々のライフスタイルに大きなインパクトを与えるプロジェクトに関わろうとし続けない限り、そんなチャンスはけっして巡ってこない。
私はけっして現状に満足したりせず、常に新しいものを求め続けているし、いったん自分が関わったら、そのプロジェクトをなんとしてもおもしろい方向に持っていき、市場で成功する商品に仕上げようという努力は惜しまない。常にそういう姿勢でいるからこそ、チャンスもやってくるのだと思う。
やりたいことには思い切って飛び込んで行く
アスキー出版に入社
高校生のときにアスキー出版で働きはじめたのも(1977年)、自分で書いたプログラムを雑誌に載せてほしいとアポイントメントもなしにプログラムを持って「月刊アスキー」編集部まで押しかけたのがきっかけだ。それも、最初はライバル雑誌の「I/O」に別のプログラムを投稿したところ1ヵ月経っても返事もないので、それにしびれを切らして、アスキーに矛先を変えただけのことだ。
Microsoftに入社
Microsoftで働くことになったのも(1986年)、アスキー出版時代の知り合いである古川享さんがMicrosoftの日本法人を設立したことを新聞記事で知り、「私抜きでそんな楽しいことを始めるのは許せない」とすぐにその場で古川さんに電話したからだ。私はその当時はNTT武蔵野通信研究所にいたが、普通に考えれば、「NTTの研究所」というエリートコースを捨てて、(当時は一部の人にしか知られていなかった)外資系のベンチャーに転職するなど自殺行為に等しく、上司やら大学の先生などが何人も説得に来たが、「Microsoftに行けばおもしろいプロジェクトに関わることができるに違いない」と一度思い込んでしまった私を誰も止めることはできなかった。
Windows 95の開発への参加
Windows 95の開発に関わることができたのも(1989年)、私の「自己主張の強さ」ゆえである。Microsoftの日本法人に入ったものの、本格的な開発はすべてシアトルの本社で行われていることに気がついた私は、機会を見つけては「本社に転籍したい」と言い続け、しまいにはBill Gatesに「次世代OSを作っている部署に行きたい」と直談判して米国行きが決まった。
Internet Explorer 3.0開発への参加
Windows 95をリリースした直後にInternet Explorer 3.0の開発に関わることになったのも(1995年)、けっして誰かに頼まれたわけではなく、インターネットのアーキテクチャのシンプルさに惚れ込んだあげく、「僕に任せてくれればNetscapeに対抗できるブラウザを作ることができる」と自分を売り込んでプロジェクトに加えてもらっただけのことだ。それも最初は信用してもらえなかったので、3ヵ月の試用期間中にFRAMESET[3]の実装をしてみせることにより、アーキテクトのポジションを勝ち取るというプロセスを経てのことだ。
UIEvolution設立
その後、Microsoftを飛び出してUIEvolutionを設立した(2000年)。すでにWindowsとOfficeで勝負がついてしまったPC市場にはおもしろみを感じることができなくなっていたし、まだ開発ツールも未熟でOSの勝者さえ定まっていないモバイル市場や組み込み家電市場のほうがずっとおもしろいし、自分がリーダーシップを取るチャンスがある、と感じたからである。私のそんな熱意を信じて、投資家は資金を提供してくれたわけだし、すばらしいメンバーも集まってくれた。
neu.Pen設立
現在は、neu.Penという会社をMicrosoft時代の知り合いと作り(2010年)、「neuシリーズ」と名付けた「フリーハンドで描くこと」を中心としたアプリケーションをiPhone・iPad向けに作っている。これも、iPhone・iPadという「ポストPC」デバイスの世界にとてつもないポテンシャルを感じているからである。
遠慮せずに相手の懐に飛び込んでみる
こうやって振り返ってみると、数年おきに活躍する場を変えている自分がいかに飽きっぽくて新しいもの好きかが明確になって自分でもあきれるほどだ。注目してほしいのは、いずれの場合も誰かに頼まれたから動いているのではなく、自らの意思で、自分を売り込んで行動している、という点である。
この経験から言えることは、「本当にやりたいことがあり、そしてそれを成し遂げる熱意と実力があれば、遠慮せずに相手の懐に飛び込んでしまえばなんとかなる」という教訓だ。アスキー出版は何の実績もない高校生の私に記事を書かせてくれたし、Microsoftは1本の電話で私の採用を決めてくれたし、Internet ExplorerチームもWindowsチームから押しかけてきた私に大きなプロジェクトを任せてくれた。
米国のベンチャー・キャピタル(投資家)は、起業の経験もない私に150万ドルもの資金を出してくれたし、今でも私がiPhone・iPad用のアプリケーションを作ると言えばパートナーには不自由しない。
もちろん、やりたいことがすべてできたわけではないし、関わったプロジェクトの成功率は3割ぐらいだが、それでも「上司から命じられたおもしろくもない仕事を愚痴をこぼしながらこなしている人」「本当にやりたいことは別にあると心の底では感じながら、現状に甘んじてしまう人」たちよりはずっと楽しいエンジニア人生が送れていると思う。
プロジェクトの方向性に疑問を感じたら
自分が関わっているプロジェクトの方向性がおかしいと思ったら、自分がどんな立場にいようと強く主張すべきだ。会社はそんなエンジニアを必要としているし、本当に会社のためになるのであれば必ず耳を傾けてもらえるはずだ。「そうは言っても、難しいんだよ」などと逃げを決める上司は怒鳴りつけてやればよい。
会社にとって最悪なのは、「こんなものを作っても誰も使わないんじゃないか、会社の価値を上げることにつながらないんじゃないか」と思いながらも黙々と仕事をするエンジニアだ。そんなエンジニアばかり集まっている会社は絶対に市場で成功しない。プロジェクトに関わるエンジニア全員が、「自分たちがどんな価値を提供しようとしているのか」を常に意識しながら仕事をしている会社だけが成功できるのだ。
「自分がいたからプロジェクトが成功した」と言えるぐらいの仕事をする
忘れてはならないのは、どんなプロジェクトも最初から成功すると決まっているわけではないこと。結果的には、たしかにWindows 95はMicrosoftをPC業界の覇者に導いたし、業界全体を大きく変えた。しかし、その成功は最初から約束されていたものではなかった。
実際、私がMicrosoftで「次世代OS」の開発を始めたのは1989年の終わりである。Windows 95のリリースに至るまでにプロジェクトは2回破綻し、そのたびに全面書き換えを余儀なくされているし、Windows 95はリリースのわずか6ヵ月前まではコードネームCairo[4]と呼ばれる別のプロジェクトまでの「つなぎ役」でしかなかった。IBMとの蜜月の終わり[5]、Cairoという社内のライバルとの戦い、Windows 3.1とのコンパチビリティを維持するための死にものぐるいの苦闘、仕事の辛さに体調を崩して脱落していくエンジニア、家に帰らず仕事をしているために頻発する離婚、いつまで経っても減らないバグの数。一時期は、本当に出口のない「デスマーチ」に思えるぐらい苦しいプロジェクトであった。
そんなWindows 95をMicrosoftの看板商品に仕立て上げ、Appleを一時は瀕死の状態にまで追い込んだのは、そんな苦しい中でも、商品の成功を信じ、ひたすら努力を続けたエンジニアたちの努力の結果である。
Windows 95のコアの開発メンバーは私も含めて30~40人ぐらいしかいなかったが、その誰もが「自分がいたからこそWindows 95はあれほどの成功を収めることができた」と自負しているはずだ。
今や時価総額でMicrosoftを超え、飛ぶ鳥を落とす勢いのAppleも一時は破綻寸前だったし、iPodもリリース当初はけっして成功が約束された商品ではなかった。それもこれも、iTunes、iPod、iPhone、iPadという各商品の成功を信じ、それこそ寝る間を惜しんで全力投球するエンジニアたちがいるからこそ可能になったことを忘れてはいけない。Windows 95のメンバーと同じく、彼らも「たまたま良い時期にアップルにいたからおもしろいプロジェクトに関われた」のではなく、「彼らが関わったからこそそれらの商品を成功に導くことができたし、Appleをあれだけの企業にすることができた」と考えるべきである。
ギリシャ神話に触ったものをすべて黄金に変えてしまう手「ミダス・タッチ」を授かったミダス王の話が出てくるが、エンジニアの役目はある意味でそれに近いと感じている。まずは「これだ」と思えるプロジェクトに関わるために自分を売り込み、それに成功したら、今度はそのプロジェクトを成功させるために全力を尽くす。目指すは「ミダス・タッチ」を持ったエンジニアだ。