NEC PC-8001
プロトタイプの重要さに関してはこのコラムでも何度か書いてきたが、それを特に強く実感した体験がある。
日本で最初に爆発的な成功を収めたPCはNECのPC-8001である(1979年9月発売)。NECとしては初のキーボードと本体の一体型PCであったが、海外ではすでにApple II が発売されており、日本でもシャープがすでにMZ-80KというPCを販売していた。PC-8001が変えたのは、それまでは自分でプログラムを書くような「パソコンマニア向けのもの」だったPCの地位を、ゲームを遊んだり仕事に使う「一般消費者向けの製品」にした点にある。
市場での成功は、単に「良い製品」を作っただけでは勝ち取れない。特にPCのようなプログラマブルな製品の場合、その製品の持つ可能性を市場に訴え、その可能性に期待して製品を購入する消費者と、その可能性の実現に寄与しようとするソフトウェア開発者の両方の心を動かさなければならない。要は「エコシステム」の構築が必要なのだが、それに失敗すれば「魅力的なソフトウェアがないから誰も製品を買わない、製品が売れないから誰もソフトウェアを作らない」という悪循環に陥ってしまう。このPC-8001のエコシステムの立ち上げに大きな役割を果たしたのが、私が当時アルバイトとして働いていたアスキー出版なのである。
見開き記事
当時私はまだ高校3年生だったが、大学の付属校だったこともあり受験勉強もせずに毎日のように編集部に足を運んでいた。ある日いつものように編集部のドアを開くと、当時私のボスだった古川享氏[1]が、発売前に入手したPC-8001を机の上に設置して、とてもうれしそうに「発売に合わせて特集記事を組むことになったから何かデモを作ろう」と張り切っていた。それまでのワンボードマイコンでは到底できなかった高度な画像処理のできるすばらしいPCだと私も興奮したが、どう考えてもまともなデモアプリケーションなど作っている時間はない。そこで編集部の人たちとも相談し、まずは画面上にドット絵を描くツールだけを作り、そのツールを使って「デモ画面」を作ろうということになった。PC-8001の可能性を一目で理解してもらえる記事を書くことが重要であり、実際に走るアプリケーションが必要なわけではないからだ。
そこからは、まずはすばやくドット絵を描くツールを作り、それを使ってさまざまなデモ画面を作り上げた。スペースインベーダーやブロック崩しのようなアーケードゲーム系から(そのころは業界全体が著作権にはおおらかだった)、3Dバスケットゲームや3Dゴルフゲームまで(当時はまだPC用の3Dゲームは存在しなかった)、思い付くままにいろいろな画面を作り上げた。
それらのデモ画面を使った記事は、PC-8001の発売に合わせて「月刊アスキー」の1979年9月号にカラーの見開きページとして掲載された。記事には「画面はイメージです」のような断りも一切なく、あたかもそれらのアプリケーションがすでに存在するかのような、今であればとんでもない「でっち上げ」であった。
その反響は期待以上のものであった。PC-8001は発売と同時に爆発的なヒットとなり、アスキー出版には見開きページで紹介したアプリケーションがいつ発売されるのかという問い合わせがひっきりなしで入ってくるようになったのだ。
嘘から出たまこと
大変だったのはここからである。実際には開発の予定すらないアプリケーションのデモ画面だったとは言え、ユーザーからの反応を見ればニーズがあることは明白だったし、当時パソコン雑誌としてはNo.1の地位を占めていたアスキー出版としては、今さら「あれは単なるデモ画面でした」とは言えなくなってしまったのだ。結局私を含めた3人が近所の安ホテルに2週間缶詰にされて40本のソフトウェアを作り、それを「PC-8001 BASICゲームブック」として発売した。
実際のところは当時のPCの能力では3Dゲームだけは無理だったが、2次元のアーケードゲーム系は一通り作ることができたし、読者の期待にも8割方は応えることができたと思う。ある意味「嘘から出たまこと」だが、結果的には日本のPC市場を一歩前に進める役目を果たせたと思っている。
この話を書いていて思い出したのが、Steve Jobs 氏に対する「彼は技術者ではなく単なるマーケティングの天才だ」という批判である。マーケティングという言葉の定義を旧来型の「ものを売るための広告・宣伝活動」としたまま使っているのであれば、それは大きな勘違いである。逆に、「まだ顕在化していない市場のニーズを見つけ出し、そのニーズに応える体験を作り出す製品をデザインする」というプロダクトマーケティングまで含めた広義の意味で使っているのであれば、「マーケティングの天才」という言葉ほどSteve Jobsをよく表す言葉はない。
あのときの作った「デモ画面」は、まさにこの「顕在化していないニーズを発掘する」役割を果たしたのだと今では思う。