先を歩むエンジニアへのインタビューを通してエンジニアのキャリアについて考える本連載、最終回は、広告配信会社である株式会社スケールアウトを立ち上げた山崎大輔さんにお話をお伺いしました。
ネットワークの基礎を学んだ大学時代
──山崎さんが技術に興味を持ったきっかけは何ですか?
山崎:ゲームが大好きで、ゲームを作りたかったんですが、プログラムはよくわからなかったんです。そこでコンピュータサイエンスの学科に進めばゲームを作れるようになると思い、筑波大学に入りました。でも入ってみたら学ぶのはUNIX系だったので、ゲームを作る感じではなかったんですよね。
──大学では何を学ばれたのでしょうか?
山崎:幅広くやる学科だったので、プログラミング言語を7つくらい学んだり、実習でコンパイラや今で言うKVS(Key-Value Store)のようなデータベースを作ったりしていました。途中で学内のネットワーク管理をするようになり、TCP/IPなどのインターネットのしくみに向き合い、そこからのめり込んでいきました。
Texas Instrumentsへの就職
──最初はどこに就職されたのでしょうか?
山崎:Texas Instrumentsという半導体の会社に、チップ設計の技術者として入社しました。僕らの学科は大手国内キャリアや大きな家電メーカーに行く人が多いのですが、家電メーカーに行った先輩が「モーター制御のソフトウェアを書いている」と言っていて、どれくらい作り続けるかをたずねたら「ずっと」みたいな答えが返ってきたんですよね。その仕事をずっとやり続けるのはちょっと怖いと思い、フットワークが軽い外資系の会社を選びました。
──Texas Instrumentsでは何年間勤められましたか?
山崎:1年半くらいですね。入社した直後に3分の1くらいの人を減らす大リストラがあったんですよ。僕は対象じゃなかったのですけど、残ったメンバーで忙しくなると思ったら……。
──そうじゃなかったと。
山崎:逆に暇でした(笑)。適度に仕事をこなしていれば評価もされたので、ある意味楽でした。しかし、凄腕のエンジニアの人が、システムがUNIXベースに変わったのを機に技術的に乗り遅れてしまってリストラ対象になったのを見て、自分もあと10年は持つかもしれないけど、20年後はこうなるのかなと思うと、すごく怖くなって転職を決めました。
広告配信技術を身につけたYahoo! 時代
──2社目のYahoo! にはどういう経緯で入社されましたか?
山崎:大学でネットワークの勉強をしっかりしたこともあって、TCP/IPなどに詳しかったんですよ。ですのでインターネット関連の企業で一番初めに受かったところに行こうと思い、それがYahoo!でした。当時Texas Instrumentsはすごく給料が良かったので、年収は落ちましたね。
──それでもあえて飛び込んだんですね。
山崎:無能になってリストラされるのは嫌だったんです。僕は人生をプライドを持って終わらせたいと考えています。そのためにはプライドを持って定年まで仕事をし続ける必要があります。ですので最初は給料が少なくてもよいので、もっと自分ができることを広げていきたかったんです。
──入社された1998年はインターネット業界が成長期だったと思うのですが、どんな仕事をされましたか?
山崎:米Yahoo! が作ったシステムを日本に適用したり、あとはインフラ関係はほぼ全部ですね。サーバの設置・運用から広告配信までを幅広くやりました。入社時は1日1,000万ページビューだったのが退職時の2006年には10億強になって、それらをさばく広告システムを構築しました。
──Yahoo! でどんどんキャリアを築いていって、そのまま働き続けたらある意味安泰なポジションにいたと思うのですが、起業という別の道を歩まれたのはな
ぜでしょうか?
山崎:当時20人ぐらいのエンジニアチームを率いて、広告配信や画像サーバなどを全部見ていて、けっこう偉い立場だったんですよ。だけど早くもExcel仕事になっていて「あれ?」みたいな。そのときYahoo! で8年間仕事をしていて33~34歳だったのですが、定年を60歳だとするとあと26年間働きますよね。この8年間の急激な成長があと3回起きる可能性があるのに、もうExcel仕事をしていたらリストラの対象になるんじゃないかという不安がありました。また、米Yahoo! は当時の日本の数倍のトラフィックをさばいていて、そのソフトウェアを使っているから成り立っていると考えると、自分の実力は米Yahoo! の作ったソフトウェアに下駄を履かせてもらっているんじゃないか、外に出たら通じないんじゃないかという不安もありました。
──なるほど。
山崎:もう一つは、Google AdSenseのようなものをYahoo! で作ろうという動きがあったのですが、Google AdSenseはインターネットの全データとユーザの属性などを最大限活用して成立しているものです。当時の自分の技術力では作るのが難しく、会社に迷惑をかけるわけにいけないと思ったこともあります。
──どの理由も自分の技術力をもっと伸ばしていかないと、と感じたからなのですね。
広告配信システムの構築
──2006年のYahoo! 退職後すぐに起業されたのでしょうか?
山崎:いえ、あまり起業するつもりはありませんでした。僕の唯一の目的は、プライドを持って定年まで仕事ができる体制を作ることだったので、そのために必要なことを退職後に行っていました。具体的にはプログラミングと英語を勉強しなおしていましたね。そんなことをしながら過ごす中で、広告システムを作った経験があったのでいろいろなところからお声がけがありました。その中でも大手メディアの社長さんから「インターネット広告配信システムを作ったら導入を検討するよ」と言われて、真に受けて作り始めました。
──そういうきっかけがあったんですね。
山崎:履いていた下駄がどれくらいだったのかを、自分で作ることで知れるチャンスでもあるとも思いました。徐々に作りこんでいくと配信エンジン側は得意で作れるんですが、管理画面を作るのには苦戦しました。1人でプログラムを書き続けるのが寂しかったこともあって、さまざまな勉強会に顔を出し始め、Railsの勉強会で初期のスケールアウトを支えてくれたエンジニアにも出会えました。
──そうしているうちに完成したんですね。
山崎:最初の広告配信システムを作り終えたとき、先ほどの大手メディアでは別の広告システムをすでに採用していて、それが良い出来だったので、ここまで作り込まないとダメなんだなとさらにブラッシュアップをしました。そうするうちに、どこにでも売れるかなというくらいのシステムになりました。起業するつもりはなかったので、「僕を雇えばこのシステムがついてきますよ」「僕自身はこのシステムを作るモチベーションが定年まで持てばいいかな」くらいに考えていました。ただ、軽く営業をしていたら、導入したいとお声がけをいただいたんですよ。当時の広告システムは、1年間のライセンス契約で6,000万円をもらえるような時代でした。「じゃあ、それをうちは半額でやりますよ」みたいなノリで起業したんですよね。
──場合によっては、どこかの会社に雇われていたかもしれないんですね。
山崎:はい、入りたいインターネットの会社はいくつかあったので。でもそれなりに売れちゃったので起業しました(笑)。
──起業までの経緯がおもしろいですね。
山崎:読者の方はがっかりするかもしれないですけど、世界を変えるとか、そういった野望はありませんでした。ただ35歳定年説はすごく意識していて、それを跳ね返すような自分の道って何だと考えているうちに、起業への道に進んだ感じです。
スケールアウトの成長
──そんな経緯で始めたスケールアウトが、今や120人を超える組織になりましたね。組織を大きくしようと思った転換期はあったのでしょうか?
山崎:起業当初はパッケージ売りでカスタマイズして契約するといったビジネスモデルだったので、いつかはASP型のサービスにしないと会社がスケールしないとは思っていました。また、当初はそこそこの利益を確保したまま、ちょっとずつ成長していくことを志向していました。でも、広告ビジネスに変化が生じて、うまくいかない先が見えてきました。スケールアウトを立ち上げた当初は100億インプレッションをさばくのはうち以外では無理だと思っていたのですが、技術の進化でそれが他社でもできるようになり、会社の優位性が薄れてきたんです。そんな中、信頼できるところから出資の話をいただいたので、それを軸にDSP(Demand-Side Platform)(注1)の広告配信システムで会社の成長を加速させていこうと考えました。
──DSPに参入して大変だったことはありますか?
山崎:DSPとしての参入は国内ではまだ4番目くらいだったので、しくみのキャッチアップはけっこう大変でした。ただベースの広告技術は熟知していたので、最初から正解の広告システムを作れて、苦労はあまりしませんでした。
広告配信技術のおもしろさ
──Yahoo! 時代に感じていた履かせてもらっていた下駄については、今はどうお感じでしょうか?
山崎:もう技術的に難しい部分はなくなりましたね。「普通に作ると作れちゃうぞ」みたいな。
──広告配信技術はエンジニアリングの視点からもすごくおもしろいと言う人が多いのですが、山崎さんの視点から見てどうでしょうか?
山崎:本当におもしろいですよ。今インターネットのビジネスで、技術がしっかりとあって、お金も儲かって、かつ表舞台に出られるとなると、広告・検索・機械学習の3つだと思うんです。その中でも広告は速く安くうまくさばかなくちゃならないから、すごくやりがいがあります。また、広告は短期的に一発当てて終わりではなく、もっと長いスパンのビジネスとして生き残っていくと思うので、息長くエンジニアとして働きたい人にはお勧めです。仮に広告ビジネスがダメになったとしても、数百億、数千億のアクセスをさばく技術はさまざまなことに応用でき、活躍のしがいがあるので、そういう意味でも安心だと考えています。
コードを書かないことへの不安感
──今はコードを書かれていますか?
山崎:書かなくなりましたね。技術とビジネスの両方がわかるので、その視点からビジネスを作る仕事にシフトしつつあります。
──8年前のYahoo! ではExcel仕事がメインになったときに不安だったとおっしゃっていましたが、コードを書く立ち位置から離れた今、不安はあるのでしょうか?
山崎:超ありますよ(笑)。
──マジですか(笑)。
山崎:あります、あります。またあれから8年が経って、技術者として16年間が経ちました。60歳まであと17年あるので、まだ半分で折り返し地点なんです。ですので、もう一度ネジの巻きなおしをしないとやばいんですよ。会社的な意味だと、僕より優秀な人を採用してきているので、僕自身の技術がネックになることはあまりありません。その優秀なエンジニアたちとどうやったら切磋琢磨(せっさたくま)して高みを目指し続けられるのだろうかと、いろいろな方法を試しているところです。その方法の一つとして経営もしている感じです。
──いろいろな方法を模索されているんですね。
エンジニアとして生き残る
──最後に、メッセージをいただけますか?
山崎:将来マネジメントなどの道を歩み始めても、職務が1つ増えたととらえてほしくて、エンジニアの道も諦めず両方やってほしいです。諦めるという選択をした瞬間、技術から目をそらしてしまう人が多いんですよ。僕自身、エンジニアとしての自分を完全に切って、マネジメントに専念しようと思ったこともあったんですけど、自分のテンションがあからさまに落ちてしまいました。エンジニアとしての道も諦めず、プライドを持ってともに歩んでいきたいです。
──本日は貴重なお時間、ありがとうございました。
エンジニアの生存戦略
先を歩むエンジニアへのインタビューでキャリアを考える本連載、今回が最終回となります。さまざまな方にインタビューしてきましたが、共通して言えることは、みなさん根底にしっかりとした技術力があり、それを事業・組織・ユーザ向けサービスなどへ結び付け、大きな成果を出していることでしょう。
IT産業では、新しいものがどんどん生まれ、技術も日進月歩ですので、私たち自身も成長し続けなくてはなりません。今後さらに産業の多様化が進み、エンジニアの新しいキャリアパスも生まれていくでしょう。その道を切り開いていくのは、私も含め読者のみなさんであると思っています。本連載が、みなさんが進むキャリアの道しるべとして少しでもお役に立てたなら幸いです。