私は思います。
周知の感もあろうかとは思いますが、あらためてこの言葉の、まずは表側の意味を、そうしてその奥に隠された心を、私なりに紐解いてみたいと思います。
相対する人と「もしかしたらもう二度と会えないかもしれない」という思いをもって接する。
これがこの言葉の意味になります。
……意味は非常に簡単に理解ができるのですが。
ではこの言葉の意味を「本当に理解している」か? と問われると、なかなか難しいものがあるのではないかと愚考いたしますが如何でしょうか?
ここで。一つの詩を、是非、読んでいただきたく思います。
“Tomorrow Never Comes”。邦題は「最後だとわかっていたなら」。Norma Cornett Marekという女性が、自らの「溺死した長男」を偲んで書いた詩です。
詩の全文をここで引用はいたしませんので、検索エンジンなどで探して、読んでいただければと思います。
人は、好かれ悪しかれ「慣れる」動物です。
つまり。大切な人たちが、側にいることを、一緒に仕事ができることを、部下として従ってくれることを、その他諸々。
そんな有難い色々を、いつのまにか「当然」だと思ってしまう瞬間が、どうしてもあるのです。
「当たり前のいつもの日常」や「昨日と同じ今日」。そんなものが来る保証などというのは、実はどこにもありません。
しかしそれでもなお、多くの人は「昨日と同じ今日」が来ることを、当然のように考えていないでしょうか?
そうして、その「当たり前であるべき日常」は、破られた時に初めて「それが大切である」ことに気付くのではないでしょうか?
当たり前のように顔を合わせ、或いは雑用を頼み、或いは厄介な作業を依頼し、或いは面倒な処理を命令して。
それがさも「やって当然出来て当然である」と、つい思ってはいないでしょうか?
「ありがとう」「ご苦労様」「お疲れ様」の一言を。笑顔を、労りを。どこかに忘れ去ってはいないでしょうか?
一期一会。
例えそれが「毎日顔を合わせる相手」であったとしても。今日という日は1日しかなく、この瞬間は二度と帰ってこないものです。
そうしてそれはつまり「今日の相手」とは初めて相対し、そうしてもう二度と会えない人でもあるのです。
感謝を謝罪を相談をいたわりを。
伝えなければきっと後悔するであろう様々を、ちゃんとあなたは伝えていますか?
「後悔先に立たず」になってしまう、その前に。
禅語「我逢人」
ランク:中級 カテゴリ:スキルアップ
がほうじん、と読みます。読み方を変えると「我、人と逢うなり」とも読みますね。
どうしても、特にITエンジニアと呼ばれる人たちの仕事の多くは、なぜかしら、個々での作業になりがちなことが多いと思います。
特にプログラミング作業において、どうしても「1人でやる作業」になりがちだと思うのですが如何でしょうか?(ペアプログラミングという手法もありますし、あれは「大変に素晴らしいんだ」ということを色々と語ってみたいのですが……それはまたいずれ機会がありましたら)
そうして。
そういった「独立した作業」が増えてくる中で、ともすると「すべてを1人でこなす」癖が付いてしまうこともままあるのではないかと思いますが如何でしょうか?
派遣などで「周囲に技術者がいない」「すべて他社さんの技術者」というケースなどで「話しかけにくい」などというお話しを耳にすることも、少なくとも私の周りでは、決して希ではありませんでした(私の場合、私がそういう壁をぶちこわして歩くことが多いので、概ね過去形になります)。
しかし正直なところ、独学というのは、大変に狭くて低いところにハードルがあり、その「狭くて低いハードルを越える」のは、並々ならぬ努力があってですら、なかなかかなわないものです。
少なくとも私の知っている限りにおいて、高スキルの方というのはやはりきちんと色々な方からなにがしかを教わっているものなのですね。
この話を、ほかの職業に置き直してみましょう。
例えば……純然たる趣味で、天ぷらを例に取り上げます。
基本的には「衣を付けて」「油に入れて揚げる」のが天ぷらになります。
では。「一流の職人さんと同じ揚げっぷりを、書物を読むだけで体得することが可能」でしょうか?
職人さんの天ぷらの、衣から揚げるタイミングから、そのあたりなんというか……絶妙という言葉でもまだ足りないほどに素晴らしい「なにか」を、書籍を読むだけで体得できるものなのでしょうか?
やはり純然たる趣味で、お刺身を例に取り上げてみましょう。
書籍を読んだだけで、「角がピンと立つような見事なお刺身を引く」ことができますか? 例えば鰆などの、柔らかい白身のお魚で。
「鱧の骨切り」はどうでしょうか? 身と骨とを切るのに皮を切らないぎりぎりのところを、一寸あたり26筋以上ものの包丁をいれていくことが、座学だけで可能なものなのでしょうか?
そうして。
我々エンジニア業界というものは、ほかの職業と比して「誰にでもできるほど容易で底が浅い」業界なのでしょうか?
人は、基本的には経験から何かを学び取っていきますが、そうして、その経験は、必ずしも「自らのもの」だけではありません。
「他人が過ごした時間と他人が得た経験と、そこから得られたObject」を与えるのが「教える」という行為であり、享受するのが「教わる」という行為です。
だからこそ。
自らだけでは得ることのできなかった様々を持っている可能性があるからこそ。
学びの徒たる我々は、この言葉に思いを馳せることが大切なのではないでしょうか?
我、人と逢うなり。
あなたは。あなたが得ていないかもしれない様々な経験を持つ、いろいろな人と出逢っていますか?
禅語「莫妄想」
ランク:新人 カテゴリ:職場にて
まくもうそう。「妄想すること莫(なか)れ」とも読みます。
一言で片付けると「どうにもならないことをグダグダといつまでも悩みすぎない」という、非常に平たくて身も蓋もない一言になるのですが、この言葉を、二つの角度から考察してみましょう。
一つは「うまくやろうとか考えてはいけない」。もう一つは「無知は恐怖になる」という2本立てです。
人はなにかをやる時に、ついどうしても周りの見た目を考えてしまったりします。
もっとうまくやってやろう。格好よくやってやろう。もっと早く、もっと綺麗に、もっと褒められるように、もっと凄いと思ってもらえるように、などなど。
或いはその逆で、怯えてしまうこともまた、少なからずあります。
これじゃ駄目って言われたらどうしよう……おまえじゃ駄目って言われたら……下手だって言われたら……汚いって言われたら……スキルがないって言われたら………
他人の目を適度に意識すること自体は、決して悪くないのですが、それが過度になった瞬間に、確実にそれは害をなしてきます。
そうしてまた、そういった時に出てくる妄想は、結構気合いが入っておりまして。妄想が妄想を生み始めると……その「生まれた妄想」が妄想を生み、「生まれた妄想によって生まれた妄想」がさらなる妄想を生んだあたりから……思わず再帰で文章を書きたくなります。
そうしてその先にあるのは、冷静に後から考えると「何で?」って思うぐらい、見当違いの、遠くて悪い方に思考を飛ばしてしまう瞬間です。
また、恐れは「無知」から来る場合が少なからずあります。
そうですねぇ……プログラムでコンパイルエラーがでた、という状況を仮に設定してみましょう。
ある人が「プログラムのとある1行を修正した。先頭のインデントのホワイトスペースを1文字削除して、後ろの ; を書き忘れた」とします。言語は……CでもC++でもJavaでもPHPでも通じる話ですので、そのあたり適宜、お好みの言語を連想してください。
「プログラムのとある1文の先頭にある、ホワイトスペースのインデントを1文字だけ削除した」。見た目やらインデントのルールやらはともかくとして、これが通常コンパイルにはなんの影響もないことは概ね諾の答えをいただけるかと思うのですが。
少々話を横道にそらします。
昔々あるところに。FORTRANという言語がありまして(……って過去形にすると微妙怒られそうですが)。
FORTRANでは、カラム7の美学とか7カラム目の美学などという、最近のプログラマからすると少々不思議な世界観がありましたっていうかありまして。
端的に申し上げると「プログラム本文は7カラム目から書く」という厳密なルールが存在します。
話を元に戻しまして。
「FORTRANしか知らない」人がいるとしましょう。彼の目の前でインデントを削除したら、彼はなんと言ってくるでしょう?
彼の唯一知っている言語において。プログラム本文前の空白には「厳密な意味」があり、プログラムを例えば6カラム目や、ましてや5カラム目以前に書くことなどあり得ないお話しです。
しかし、「インデントのホワイトスペースはコンパイルエラーとは無縁です」と彼に説明をして、本当に納得してもらえるでしょうか?
無論、きちんと理解してくれる人もいます。
しかし、人はどうしても「自らの経験」を元に考えることが多いのです。
つまり。今までの、FORTRANの経験をJavaに当てはめて「FORTRANではインデントのスペースを削除するなんて考えられない。Javaだって同じプログラム言語なんだ。やっぱりコンパイルエラーはインデントのスペースを削除したことが原因なんじゃないだろうか?」と、妄想してしまうことが「ない」とは言い切れないと思うのですが如何でしょうか?
知らないと、人は、どこまでも妄想を、大抵は「最悪の方向に」ふくらませてしまうものです。
幽霊の正体見たり枯れ尾花、とも申します。
疑心暗鬼な妄想をもった瞬間から、枯れ尾花でさえ幽霊に見えるのです。
Javaのインデントのホワイトスペースがコンパイルエラーを起こしているように見えても、何ら不思議ではないと思うのですが如何でしょうか?
莫妄想。
妄想すること莫れ。
他人の目をそこまで意識して、本道に心が入らなくなってなんの意味があるというのでしょうか?
無知からくる妄想で枯れ尾花を指さして妄想をふくらませるだけふくらませた挙げ句「幽霊が出た」と騒いで、なにか得でもあるのでしょうか?
過去を妄想するのであれば「過去は改変ができない」という当たり前のことを今ひとたび、思い出す必要があるでしょうし、未来を妄想するのであれば「100%の予知推論など不可能である」という事実をもう一度しっかりと思い起こす必要があります。
無知によって妄想するのであれば、考える前に学ぶなり問うなり、といった行動が、特にエンジニアという職業においては「必須である」ことを理解しなおす必要があります。
そうして。妄想を呼び起こす、執着心や不安を出来るだけ捨て去り、自らの無知を認識した上で(無知の知、なんて言葉もありますね)、自らができる最大限の努力をする。Heaven helps those who help themselves(天は自ら助くる者を助く)、人事を尽くして天命を待つ、などという言葉もまた、洋の東西を問わず通じる言葉なのではないかと思います。
他人が絡むものであれば「声に出して、相手に対して礼儀正しく質問をする」というのもよいと思います。
心の中で悶々と妄想をしても何も始まりません。
自らの思考がcloseしそうになった瞬間に、思い出してください。
莫妄想。妄想すること莫れ、と。
そうして、閉じそうになった思考をopenしてあげてください。
なによりも、あなた自身を、あなたの妄想が傷つけてしまう前に。