金属疲労、なんていう言葉があります。
(ある程度)過度な負担であっても、分散したり、休めたりするのであれば、まだしもよいのですが、一箇所にしかも短期間に集中したりすると、どうしても、多くの人が思っているよりも割合にはやいタイミングで限界がきてしまします。
そうして、それは人間も、人間の身も心も、一緒です。
ある特定の部位にあんまり負荷が集中すれば、体だって心だって、悲鳴を上げてしまいます。肉体ですと、スポーツマン選手さんのニュースで「疲労骨折」なんていう単語を耳にします。
そうして、それは「心」にも言えるのです。また、外傷が見えにくいだけ、心のほうが重傷化しやすいようにも感じられます。
そんな悲鳴を心に上げさせないために、和らげるために。いくつかの禅語を選んでみました。
「まだ大丈夫」「もうちょっとならいける」と、知らず知らずに無理を強いてはいませんか?
周りの人たちに。いいえ、なによりもまず、ご自身に。
無理をしていないつもりで、している、かけているご自身の負担に。まずはせめて、気付いてみませんか?
禅語「不思善 不思悪」
ランク:新人 カテゴリ:疲労回復
「ふしぜん ふしあく」と読みます。不思とは「思わざる」。つまりこの禅語は「よいこともおもわず、わるいこともおもわず」という意味になります。
思いめぐらせ考えることが職分である、とも言えるエンジニアにとって、この禅語はどんな意味を持つのでしょうか?
ここで論じているのは善悪という概念です。
では。
そも「善悪」とはなんでしょうか?
「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が神聖化する」とはチャップリンの壮絶なる皮肉なのですが、実際問題として。現実は、boolean値のように「白か黒か」善悪が明確になることは、まずめったにないと思います。
中国系にある陰陽という考え方が、実は非常に面白いのですが。
陰陽は「ある個体に紐尽く属性」では“なくて”「ある関係性に紐尽く属性」になります。
つまり「Aさんは陰でBさんは陽」ではなく。「Aさんが、ある対象物αとの関係性においては陰で、別の対象物βとの関係性においては陽」となるわけです。
純粋な黒というものはなく黒の中には常に白があり、純粋な白というものはなく白の中には常に黒がある。
個体を見た時に、そこに純粋な白も黒もなく。ただ、ある別のなにかとの関係性において「そっちよりは白っぽい」「あっちよりは黒っぽい」となるだけなのです。
そうして。
善悪もまた、同じ思想なのではないかと思うのですが、そのあたり皆様はどう思われますでしょうか?
ある関係性のある1方向から見れば善悪というものは言えるでしょうが、違う関係性であったり違う角度であったり、という見解からみると、驚くほど簡単に善悪はひっくり返ったりするものだと、筆者は感じています。
時々、現場で耳にするのですが。
「僕間違ってない」「私の意見は正しいんだ」は、本当にそうでしょうか?
ある側面から見れば、無論それはYesだと思います。曰く、例えば「こちらのほうが技術的に理路整然としている」「このようにやるのがIT業界の常識/慣習だ」「そんな話は聞いたことがない」その他諸々。
でも。
それは「相手が望み、求めている正しさ」なのでしょうか?
その「正しさ」は、相手にとって受け入れやすいものなのでしょうか?
「相手の中にある理屈」を「想い」、その裏側にある思想を背景を哲学を歴史を、どれだけか知ろうと努力を重ねた結果としての発言なのでしょうか?
非常に厳しい物言いになってしまうのですが。
「自分が絶対に正しい」と固執している方の根っこにあるのは概ね「不安」です。
自分の手元にあるのが「かみ砕けていない丸暗記な知識」だけで、且つそれに全幅の信頼を置けるほどのものを感じていない方ほど、自分の意見に必死になってしがみつきます。
植物、特に樹木を連想していただくとわかりやすいですね。
根本にいくにつれ細くなる、逆三角形のような状態になってしまうから。つまり、基礎にあたる根っこは細いのに、中途半端に丸呑みした知識で、上の方だけは枝が伸び葉が多い茂っているような感じです。いかにもバランスが悪そうです。
そうして、そんなバランスの悪い状態だからこそ、ちょっとした風ですらぐらぐらと揺れ、その揺れを止めるために、些細な微風であっても頑なに拒むわけです。
心を病んでしまう、また病みそうになっている方に散見されるのですが。
「僕が悪かった」「自分が間違っていた」は、本当にそうでしょうか?
ある側面から見れば、無論それはYesだと思います。曰く「相手の思い通りにできなかった」「相手に損害を与えた」「相手の要求通りのものが仕上がらなかった」「相手が気に入ってくれなかった」その他諸々。
でも。
それは「真っ当な対価との交換による、正統な要求」なのでしょうか?
スキル不足は。状況にもよりますが、まずほとんどの場合においてそれを「罪」と断じるにはいささか乱暴に過ぎる判断であることが多いですし。
先方の要求が「明文化されていない」「矛盾している」「朝令暮改に過ぎる」「まったくもって練られていない」など、そも仕上がるために先方が出すべきものがまずかけているケースも、少なからず散見されるのが残念ではありますが現状です。
自動車事故でも。「0:10」の責任なんて滅多にないですよね?
比率はともかくとして、大抵の場合「お互いに非がある」ものなのです。つまり、一方的に「あなた“が”悪い」なんていう状態はほとんどないのです。「一方的に、あなただけが100%悪い“ことにしたい”」という状態は、残念なことにままあるのですが。
非常にドライな言い方になってしまうのですが。
よしんば、あなたが自責の念に駆られて、それで自体がすべて片付くのであれば。つまり、あなたが「心を病むほどの自責の念にかられる」ことによって、いきなり「決め事は十分に確定し」「企画は完璧に仕上がり」「設計は美しく完了し」「隙のない実装のプログラムがどこからともなく沸いてくる」のであれば。あるいは、あなたが自責の念にかられて病んでしまうほどに思い悩むのも「あり」なのかもしれませんが。
現実にはそんな都合のよいことは起きません。あなたが自責の念で潰れたとしても、せいぜいが「担当者の一時的な憂さ晴らし」以上の意味合いを持ちませんし、それは大抵「より一層の惨劇への序曲」でしかありません。現実問題として、プロブレムは何一つ片付いていないわけですから(お金の話が絡むともう少し「憂慮すべき話」になりますが……そのあたりは、またいずれなにがしかの機会を設けて書くことができれば、と思います)。
つまり。それこそどんな手段を用いてでも「必要な意志決定を迫り、とりあえず第一次開発のスコープを決定して、或いはそのあたりを一式仕切ってもらって」「後で改修可能な設計をするか、或いはしてもらって」「しかるべき実装を、するかしてもらう」必要があるわけです。
そうして、多少問題が発生したとしても、最終的にその仕事を形にするためにはあなたが必要ですし、そのためにもあなたは「潰れない」必要があるわけです。或いは。潰れていただいては困るわけです。
「自分は間違ってる」「自分は正しい」。
そんな両極端でbooleanな見解は、どっちもぺけぽんです。
そんなことよりも、もっと見据えなければいけない現実が片付けなければならない問題が、目の前に転がってはしないでしょうか?
不思善 不思悪。
善を思わず。悪を思わず。
自らをただまもるのではなく。自らをただ批難するのではなく。
思うのは見るのは「現実」にしたほうがよいのではないかと思うのですが、如何でしょうか?
禅語「一人は棒を行じ 一人は喝を行ず 総に親しからず」
ランク:新人 カテゴリ:スキルアップ
「不思善 不思悪」に近しい禅語なのですが、別の切り口で眺めてみたいので取り上げてみました。
棒というのは、痛棒または警策(より正しくは警覚策励)と言いまして。いわゆる、座禅を組んでいて肩とかを「ぺしっ」と叩く、あれになります。
喝というのは、声で叫ぶあれです。「一喝する」みたいな言い方をしますね。
どちらも、禅を学ぶ時によく用いられる方法になります。
さてでは質問です。
棒と喝と、どちらが「よりよい」教え方なのでしょうか?
というのがこの禅語の手前にある問いかけです。
そうして、禅語がその問いに対する答えです。
つまり「どっちも同じくらい大事だよ」と。
どうしても。特に見識の幅が狭くなれば狭くなるほど、自分の所在の重要度だけがクローズアップされて見えてくることが多々あります。
もちろん、大抵の場合「そこが重要である」こと自体は、疑いようのない事実です。
ハード屋さんがCPUの設計をしっかりしてくださらなければそもコンピュータ動きませんし、HDDだってメモリだって大切です。
インフラ屋さんが適切なネットワーク設計をしないと、特に大型案件では恐ろしいほどのトラブルが多発しますし、サーバ屋さんのinstall状況やdaemonの各種設定もまた、パフォーマンスに多大なる影響を与えます。
上流設計者の絶妙な設計も、プログラマたちが作る実装も、当然ながら不可欠かつ必須なものです。
では。「どの職業/職分が正しい」のでしょうか?
一番重要で、一番正しいのはどの部分なんでしょうか?
ちなみに。人はここで大抵、自分の職分、或いは「過去に最も痛い/酷い目にあった職分」をクローズアップする傾向があります。「古傷が痛む」ような記憶をお持ちの方も、わずかながら、いらっしゃるかと思いますが如何でしょうか?
閑話休題
当然ではあるのですが、上述に順位など付けられるものではありません。どれもがみな、大切で不可欠なのです。
そうして。
上述でわざと取り上げなかったのですが。
上述以外にも「あなたとは違う正しさを持った」人たちがいるのです。
つまり。
技術屋が技術の見地から重要であると考えるのと同じくらいに、営業さんは営業という見地から、デザイナはデザインという見地から、経営者は経営という見地から、いろいろなことを考え、優先順位をつけているのです。
営業と技術とデザインと経営と、どれが大切ですか?
答えは一緒です。全部大切なのです。どれ一つとして、軽視してよいものはないのです。
技術屋がものを作らなければそもお話しになりませんし、また同じくらいにUIや見た目というのは軽視できない以上、デザインもまた不可欠です。
そうやってできあがった商品をお金に換えてくれる「営業」という職分なしに我々の報酬は発生しませんし、その営業する方向に対する舵を取る「経営」が舵を取り間違えれば、船はあっという間に難破船です。
つまり、だからこそ。
一人は棒を行じ 一人は喝を行ず 総に親しからず
あなたはあなたの職分を行じ、相手は相手の職分を行じる。そうして、大切なのは適材適所。
相手を自分をその職分を否定してしまいそうな時に。
思い出してみてください。そのいずれもが「大切である」ことを教えてくれる、この禅語を。
禅語「己事究明」
ランク:中級 カテゴリ:疲労回復
「こじきゅうめい」と読みます。己事とは自らのこと。つまり「自分自身を究明する」ということですね。
どうしても、人は「らしさ」を求める傾向があるようです。
男らしさ女らしさ、現代人らしさにエンジニアらしさ、人間らしさに自分らしさ。……これだけらしさを重ねると、なにやらゲシュタルト崩壊を起こしそうですが。
とはいえ。やっぱり「本当の自分」とか「自分探し」とかって大切ですよね。
自分自身を見つめ、己を知り、己の人生の意味を、自らが生まれた意味を、本当の自分を知ること。
今ある偽りの自分ではなくて、自分の中にある本当の自分を如何に探し出すか。
そのためには、常に自らを見つめ、今表面にある、上っ面の「嘘の自分」の中にある。「本当の、素晴らしい自分」というものを見つけ出さなければなりません。
……って言葉で頷いた人は要注意です。
そも。まず「自分」ってなんでしょう? 或いは、探そうとしている「本当の自分」って、なんですか?
「本当の自分」があるのだとしたら。今いるあなたは「嘘の自分」なのですか? 偽物なのですか?
嘘の自分ってなんですか? 「嘘の自分」と名付けている自分もまた、あなたの一つの側面ですよね?
だとするのであれば。今のあなたも「嘘の自分」も、等しく「本当の自分」なのではないでしょうか。
ひとは、らしさという言葉に「過去(の、特に栄光)」と「理想」を盛り込みます。
それもぉたっぷりと。
特盛りつゆだくだく、なんて目じゃないくらいに盛り込んでしまいます。
「昔はこうだった」「こういう風になれればいいのに」そんな様々を「らしさ」という言葉でラッピングして、さらに「こうだったらきっと周りも凄いって思ってくれるはず」的に綺麗にデコレーションしていきます。
そんなデコレーションされて過剰包装な理想像を、豪華な額縁か何かに飾って「本当の自分なんだ」と思いたがってはいないでしょうか?
無論それがよい形で出るのであれば。つまり「切磋琢磨する原動力」になるのであれば、別段引き留めるつもりもないのですが。
ただ、そんな「らしさ」を追求するあまりに自らを痛めつけてしまうのであれば。自らにストレスとなるほどの負荷をかけてしまうようなものであるのならば。無理な無茶な背伸びしかできないのであれば。自らを否定してしまうようなマイナスを引き起こしてしまうのであれば。
一度。少々立ち止まり、見直してみるべきなのではないでしょうか?
とある漫画に、こんなエピソードがあります。
記憶を失って、自分の正体すらわからなくなった怪盗がいました。その怪盗は「自分の正体を知りたい」というだけで、残虐非道の数々を繰り返します。
ある事情から、その怪盗に誘拐されてしまったヒロインが。
怪盗の「やっと本当の俺に戻れるんだ」というつぶやきを耳にして、つい口にしてしまう言葉がありました。
「今ここにいるあなたも……あなたの正体(なかみ)じゃないの?
人の正体(なかみ)なんてどんどん付け足されていくと思う
悲しいきっかけで望まない生き方を選んでしまうこともある
だから今までさ迷ってきたあなただって……
あなたの正体(なかみ)の一部でしょ?
私にとってのあなたは……
そういう正体(なかみ)を持った人間だよ」
言われた瞬間、怪盗は逆上しました。
ただ……ずいぶんと巻を隔てた後ですが、怪盗は「すべての経験が合わさって、今の自分を構成していること」を、すなわち「自分であること」を、取り戻すことができました。
逆上したのは「自らが認めたくない図星であったから」だったのではないですかね……というあたりは少々余談ですが。
辛いことがあって楽しいことがあって。誇りたい自分と隠したい自分とがいて。格好よい自分とみっともない自分がいて。
そのすべてが合計された「今」が、今のご自身なのではないでしょうか?
否定したい自分を、今の自分を、切り捨ててしまうのではなくて。
まず、今の自分を肯定して愛して。その「上に」成り立つ新しい自分を、一歩づつ踏みしめてみるのも楽しいと思うのですが、如何でしょうか?
そうして、そうやって今の自分を肯定していくことこそが、本当の意味で、自らを探す、つまり「己事究明」に、繋がるのではないでしょうか?
禅語「愛語回天」+「渓深杓柄長」
ランク:上級 カテゴリ:コミュニケーション
はじめの言葉は「愛語(あいご)よく回天(かいてん)の力あり」、二番目は「渓(たに)深くして 杓柄(しゃくへい)長し」と読みます。
今回、あえて2つの禅語を合わせて紹介したいと思います。
この2つはいずれも「あなたの心のうちを相手に届ける」時に、とても有用な禅語だと思います。
上に立つと。なにがしか相手に「伝えなければならない」ことは、驚くほど増えると思うのですが如何でしょうか。
そんな、何かを伝える時に。「なにを伝えるのか」と同じくらい「どのように伝えるか」はとても重要です。
「丸い卵も切りよで四角 ものもいいよで角がたつ」なんて言葉もありますね。
9回目の万法帰一で、ユーモアの大切さについて語ったかと思うのですが、
「相手の事を考えて“あげて”いる」と思い上がるのではなくて、
「相手の立場に立って考えている」なんていう不可能を思うのではなくて、
ただそれでも「できないことを前提に」どこまで相手の背景に思いを馳せることができるか。そんな「伝えたい」という切実な想いがあればこそ、あなたの「言葉」ではなくて、あなたの「気持ち」が、きちんと伝わるのではないでしょうか?
「愛語は愛心より起こり、愛心は慈心を種子とせり」なんて言葉もございます。
もちろん、気持ちだけでは如何ともしがたい部分がありまして、だからこその「渓深杓柄長」ではあるのですが。
つまり。「深い谷に水を注ぐのであれば、その深さに合わせて杓柄を長くしなければいけない」ので、杓柄を長くできるだけの、コミュニケーションテクニックは必要なのですが。
でも、それらの総ての素になるのはやはり、慈心にのみ寄るのではないでしょうか?
心に慈心をもって。相手の心の谷の深さに合わせた長さで、適切な量の愛語を注ぐことができたら。
きっとそれは、第8回でやった卒啄之機に近づけるのではないでしょうか?
あなたは。
相手の谷の深さを、どこまで見極めることができますか?
そうして、その深さに対して十分なだけの柄の長さを、どれだけの愛心をもってのばすことができますか?