翡翠(識者に向けて:今回は硬玉をイメージしています)、という石があります。
磨く前の原石は正直なところ「うんまぁみどりだねぇそれでなに?」って感じなのですが、この原石を切り出し磨き研ぐことで、素晴らしい輝きを放つ「宝石」になります。
こういった、石(に限らず、骨や象牙に対してもそうなのですが)を切り出しうち叩き、磨き研ぐことで素晴らしいものにし上げる、そこから「切磋琢磨」という言葉ができあがりました。
腕もスキルも人格もまた。そうやって「見出して切り出して磨いて研いで」素晴らしいものに仕立て上げてゆくもの、なのではないでしょうか?
今回は、磨く側磨かれる側の禅語を。「守破離」というもう一つのテーマとあわせながら、織り交ぜて紹介させていただきたいと思います。
禅語「破草鞋」
ランク:新人 カテゴリ:スキルアップ
はそうあい、と読みます。「破れた草鞋(わらじ)」という、そのまんまの意味合いです。
破れた草鞋とスキルアップ。……はてさて、いったいなんの関係があるというのでしょうか?
この禅語には、実はさまざまな見解がなされています。そのなかから筆者が大きく惹かれた見解を中心に、ここでは取り上げてみたいと思います。
藁で作る草鞋は、現代の靴と比べると耐久性はある程度悪かったようですが、そうは言いましても実用品ですので、それなりに丈夫なものではありました。
今でも営業マンの方々なんかは「靴底のすり減り方で努力を見る」なんて見方があるそうなのですが、草鞋もまたそんな感じで「すり減るまで」歩く、ということが多々ありました。昔の移動手段は徒歩が主流でしたし。
まず「破草鞋」という禅語で出てくるのがこの「草鞋が破れるまで歩き続けるがごとく、摩耗するほどにまで努力を惜しみなくしなさい」という意味合いになります。
なにがしか、ある程度まで「摩耗するほど」の努力というのは、やはりどこの業界業種においても不可欠であるように思われます。尤も「心を摩耗する」のはまったくお薦めできませんので、そのあたりはちゃんとチョイスが必要かとは思いますが。
三昧などという言葉もありますし一念岩を貫くなんて言い方もございます。
無論、鳥瞰俯瞰の視点も大切ですが、時には「何か一つに没頭する」のも、同じくらいに大切だろうと思います。
……という見解が一つあるのですが。
筆者が惹かれたのは「たとえ破れたもう履けない草鞋であろうとも、それは不要なものではないんだよ」という見地です。
実際、破れた草鞋でも昔は発酵させて肥料にもしました。竈のたき付けにもしました。ちなみに、竈のたき付けに使った後の灰(アクって言い方も多いですね)も捨てずに用いることができるあたりがエコロジーってやつです。
エコの話題はそれでそれなりに昨今にふさわしい話題だとは思うのですが、本稿からは外れますので元に戻しまして。
さて。
そも「無駄」ってなんでしょう?
「役に立たないこと」「不要なこと」という意味合いだと思うのですが、では質問です。その「無駄」は「本当に無駄」ですか? 「あなたがその使い方を知らない」から「あなたは無駄だと思っている」だけで、実は「使い方を知っている人にとっては有用」なのではないでしょうか?
「無駄」だと「不要」だと「役に立たない」と“断言”できるためには。「間違いなく、誰もどのようにしても使うことができない」と断じれることが、つまりは「森羅万象古今東西の総てを知っている」必要が、あるのではないでしょうか?
でないのであれば、せいぜいが「今の私には使い方が用い方がわからない」までしか言えないのではないでしょうか?
技術の世界でも、同じような話を少なからず耳にします。
基礎を学ぶのは、確かに割合と面倒であったり退屈であったりすることも多いかと思います。
ただ、それでもなお。基礎を「無駄だ」と断じることはできないはずなのですが……特に経験が中途半端な方に限ってある技術や知識を「無駄だ」「不要だ」と言ってしまうことが多いように見受けられます。
学ぶための方法の一つに「守破離」というものがあります。
教わる側は、教える側のいくつかをどうしても「無駄だ」「不要だ」と感じることが多いようなのですが。
一文字目にある「守」の字の通り、ある程度までは、例えそれがどれだけ理不尽であると感じようとも無駄であると感じようとも、それも含めて学んだほうがよいことが多いのです。
なぜなら、その無駄は「先人の知恵」である可能性が少なからずあるのですから。
同じように、無関係と思われがちなさまざまもまた、もしかすると有益である可能性が少なからずあります。
だから私は、仕事と同じくらいに「遊ぶこと」を大切にしています。微妙に言い訳がましいのはきっと気のせいです(笑
破草鞋
まずは草鞋が破れるまで頑張りましょう。
そうして、そこで得るさまざまを、何一つ残らず大切に使ってみませんか?
禅語「逢佛殺佛」
ランク:中級 カテゴリ:スキルアップ
大本はこんな文章になります。「逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱」。
なにやら物騒な漢字が大量に混ざっておりますが……これの日本語訳はこんな感じになります。
「仏(佛)に逢うては仏を殺し 祖に逢うては祖を殺し 羅漢に逢うては羅漢を殺し 父母に逢うては父母を殺し 親眷に逢うては親眷を殺し 始めて解脱を得る」。
なんていいましょうか……そのまんまかつ、物騒きわまりないといいましょうか、何か根本的にいろいろなものを否定してしまいそうな文章です。
どちらかといいますと。禅語と言うよりは、漫画などで「総てを捨ててただ殺戮のみに生きる道を選んだ、大抵は(ストイックな)敵役が掲げているような文言」にしか見えないのですが(幼少のみぎりなどに強烈なトラウマがあったとかいうあたりに起因した性格で、最後は主人公が「同情しつつもトドメを刺し」、敵役は「殺されることでトラウマから解放され、主人公に助言をしたり礼を言ったりする」ってあたりが王道かと思われます)。
この禅語は何を伝えようとしている……というお話を展開する前に、そもそもこれって本当に禅語なんでしょうか?
世の中には、色々な「幸せに暮らしたり平和に暮らしたりお金が稼げたり成功したり健康になったり」する秘訣があります。
- 仏様に手を合わせて念仏を唱えれば幸せになれます。
- 両親を大切にすれば幸せになれます。
- 祖先を敬い、お茶を供えてご飯を供えてお花を買ってご供養をすれば幸せになれます。
- 成功の7ステップを8つのポイントを9箇条を守れば幸せになれます。
- 教団に浄財を寄付すればツボを印鑑をご宝塔を免罪符を買えば幸せになれます。
……って、ちょっと待ちましょう。
上述の総てを否定するつもりは、ありません(一部は明示的にはっきりと否定しますが)。ただ、少し考えてみましょう。
「**をやれば○○」というこの系列のフレーズは。はたして「誰にとっても」「どんな状況でも」常にtrueなのでしょうか?
「師匠の言うことをまったく聞かない弟子と 師匠の言うことを全部聞く弟子は大成しない」なんて言葉があります。
はじめは守も大切です。守の大切さは破草鞋で書いた通りです。
でも、延々と「守」ばかりでは。規則ばかりが形骸化する上に、変化に対しての柔軟性が皆無と言えます。
適応能力の欠落は進化からこぼれ落ちる妙薬です。でもそんな薬は欲しくありません。多分それは「毒」って言います。
そうして。だからこその「殺」なのです。
もうちょっと穏便な単語を使いますと、守破離の破となりましょうか。
逢佛殺佛 逢祖殺祖 逢羅漢殺羅漢 逢父母殺父母 逢親眷殺親眷 始得解脱。
仏の教えを得たら、それを否定してみてください。
祖の教えを得たら、それを否定してみてください。
羅漢の父母の親眷の教えを得たら、それを否定してみてください。
十分な「守」の後にくる「破」こそが、本当の意味で理解をするためのstartラインなのです。
物騒で、どちらかというと「バトル系の漫画に出てきそうな」この禅語は。実は、そんな境地を語っているのです。
そうして、その学ぶ姿勢は技術だって何にも変わりありません。
定石を知らない基礎を学ばないというのは論外です。型を知らなきゃ形無しです。
しかし、定石が「何故に定石たるか」を知らず、基礎が「通用しない場面」を知らないのは、同じくらいに実は論外なのです。
一度はあえて定石を破ってみる、そんな試みもまた大切なのです。
ただ、Webアプリケーションとかの場合、時々それが「広域に対してはた迷惑」になりますので。基本、localに閉じた環境でやりましょう、という注意点はありますが。
VM(virtual machine)を自PCの中に立てるのが比較的手っ取り早いですし、LinuxであればKNOPPIXとかその系のDVDブートなディストリビューションをチョイスするのも手ですので。MacのOS XですとそもそもがBSDですので、設定も楽ですね。
十分にまずは基礎を身につけ、磨いてください。
そうしてその後に、その基礎を全部、否定してみてください。あなたを教えてくれた、あなたの師の教えの総てを「殺す」のです。
守破ができれば。
きっと、身につけた基礎に振り回されることなく応用がきくようになるはずです。
禅語「鶏寒上樹鴨寒下水」
ランク:上級 カテゴリ:スキルアップ
「とりさむくしてきにのぼりかもさむくしてみずにくだる」と読みます。意味合いは相も変わらずそのまんまですね。
この禅語は寒さ対策を教えてくれているのでしょうか?
いやまさかさすがにそんなことはありません。ではいったい何を伝えようとしているのでしょうか?
これを読まれている方の何割かは、教える、という行為をなさる機会も決して少なくないと思うのですが。
どうしても、意識しているつもりでもなお。
生徒の弟子の部下の「個々」を、つい失念してしまう瞬間というものはないでしょうか?
宮大工の方のお話なのですが。
材木にしてから「真っ直ぐなもの」なんてのは一つもないんだそうです。我々(というか私なのですが)素人が見ていると真っ直ぐにしか見えないのですが、そこは専門家。彼らの目にはその「各材木に固有の癖」が見て取れるそうです。
右に曲がったり左にひねったり。後方二回転に1ひねりをくわえるとムーンサルトになります……なんて材木はさすがにないと思いますが、多分。
そんな個性豊かな材木の個性を無視すると、どれだけしっかりした規矩術で図っても、しっくりと組み上がらないんだそうです。
一方でそんな個性を「十分に加味した上で」組み合わせると、それはもう見事にぴたりと組み上がるんだそうです。
なかなかに面白いと思うお話なのですが。
こと「教育」の話を念頭におくと、非常に含蓄の深い、或いは図星過ぎて痛い話となります。
「個性を重視する」「能力を尊重した」なんていう単語は好んで使われることも多いかと思うのですが。
果たして「生徒の弟子の部下の一人一人の個性」についてとうとうと語れるか、と問われると、躊躇してしまうことも少なからずあるのではないかと思います。
或いは。口ではどれだけ万色について語っていたとしても、その態度が言動が行動が、果たしてそれに一致しているかと問われると、そこに躊躇が生まれる方も或いはいらっしゃるのではないかと思うのですが如何でしょうか?
システム……に限らないのですが。現実に「唯一解」なんてまずないに等しいものです。いろいろな見地からさまざまな角度から、それこそ万色の回答が存在するかと思います。
しかし。
教える先生が師匠がコーチが「万色ありうべし」を教えてあげることが出来なければ。
守の後の破にたどり着けませんし、ましてや万色たる離の境地が「ある」ことにさえ、気付かせて上げることができないかもしれません。
それで「教えている」と言えるのでしょうか?
「師を追い抜くのが弟子の義務」です。そうして、その義務を教えるのは、ほかならぬ「師たるあなた」なのではないでしょうか?
鶏寒上樹鴨寒下水。
気温が低いと。鶏は木に登る一方で鴨は水の下の方に潜っちゃうのです。
雪が降ると、犬は庭を駆け回る一方で猫はおこたでぬっくぬっくしてるのです。
「手をうてば ハイと答える 鳥逃げる 鯉は集まる 猿沢の池」なんて言葉もありますね。
教えるという行為は、教わるよりも何倍ものさまざまを教わることができる行為です。
教えることで。
世の中に「唯一」なんてない、ということを。
改めてゆっくりと、噛みしめてみては如何でしょうか?